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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第二章 刑事課強行犯係



     

 赤色灯をつけたパトカー二台とライトバン一台は、路面電車の行き交う通りを一気に駆け上がって右折し、春日通りを真っ直ぐ走ってきた。

 一一〇番通報者の住むマンション前に到着し、周囲に鳴り響くサイレンを止めたのは、警視庁に構える通信指令センターからの無線指令を受けて、七分三十二秒後である。

 三台の車から降り立った司法警察職員は、JR山手線大塚駅近くに構える巣鴨警察署所属の面々。周辺を調べる鑑識係一人を残し て、七人がマンション内に足を向ける。

 刑事課強行犯係主任・池永明夫部長刑事は、総タイル張りの建物を見上げたり、敷地の左右に目を走らせながら、新築されて間もないマンションであると見て取った。築後一年か、一年半くらいだろう。薄ピンク色の外壁や付属の設備は真新しく、車両の排気ガスで汚されていない。

 赴いた捜査員が把握している大筋の状況は、以下のとおり。午後六時十五分頃、東池袋二丁目某番地某―904号、春日通りに面したマンション『オーベルジュ東池袋』の最上階住居で、異常死体が発見された。一足先に現場を確認した派出所の巡査からの無線連絡によると、異常死体は五十五歳前後と見られる日本人男性。第一発見者で部屋の所有者は独身女性で、男性とは面識がないとのこと。死体には、はっきりした外傷は認められず、留守宅に侵入中に突然死した模様。なお、発見から通報までに、およそ一時間十五分のずれが生じた理由は不明。

 

 館内エレベーターで、六人の男達は瞬く間に、九階へと運ばれていった。一人、池永部長刑事は一歩、一歩、何度も、何度も体の向きを変えながら、建物の裏手に設けられた外階段を上っていった。

 顔の火照りと荒い息遣いを代償に、彼が得た物は、五階から六階に至る踊り場に落ちていたポケットティッシュだけだった。拾って裏返すと、包みに組み入れられた広告ビラが透いて見える。裸に近い格好をした若い女達のカラー写真に被せた、『ランジェリーパ ブ』という片仮名が、独身男の目を引く。

<俺も一度くらい、行ってみたいもんだなあ>

 胸に雑念が湧き、顔に含み笑いが浮かんだのは、一瞬だけだった。虚心と真顔を取り戻すと、池永刑事はポケットティッシュをビニール袋に納めた。

 販売促進のために街頭で配布されたり、郵便受けに投げ込まれたりしている在り来りの品ではあっても、犯罪に関係する遺留品である可能性を捨て切れない。

 外階段の踏み段は、優に百段を超えていただろう。それでも初一念を貫いて、五十歳近い刑事は、ささやかな達成感を得た。

 辿り着いた最上階も、二階から八階と同じ構造で、廊下の片側に四戸の共同住宅が並ぶ配置方式。パトカーの中から見上げて確認したとおり、真ん中の二戸は不在のようである。突き当たりの通路は立ち入り禁止のロープでふさがれ、外勤巡査が挙手の礼で出迎えてくれた。右耳に差し込んだイヤホーン、上着に吊した懐中電灯、右腰に帯びた拳銃ケース、左腰に挟んだ警棒。眼鏡の巡査は、重装備である。

「やあ、ご苦労さん」

 古手の刑事は後輩を一瞥して、ねぎらいの言葉を掛けた。続いて、自分のみぞおち辺りの高さにあるドアノブに、目を落とした。常夜灯の鈍い光に照らされたノブの上には、904号室と外界を区切る生命線、鍵を差し込む亀裂が見えた。

「なるほど、なるほどね」

 得心の文句を繰り返すと、池永刑事は頭の中の整理に掛かる。

 この部屋に住む女性が面識がないと言う中年男は、いかなる素性の人物で、何の目的があって他人の住居に入ったのか。盗みが目的の物取りなのか、女性目当ての異常者なのか。現場周辺に土地鑑があったのか、通りすがりの流しだったのか。

 次に、鉄筋コンクリートで囲まれた密室の中に、どういう方法で入ったのか。最近建てられたマンションにふさわしく、防犯対策に手落ちはないようだ。共同玄関にはオートロックを備え、各戸の玄関にも分厚い鉄扉と、性能評価の高いCP‐C錠が取り付けられている。その道のプロでも簡単に合い鍵を作れないのが、優良防犯機器に認定されているCP‐C錠の特長である。

 マスターキーを用いて入ったとは、およそ考えにくい。分譲のマンションだとしたら、所有者や居住者以外、管理人も不動産関連の会社も、別個の鍵を保有していないはずである。

 第三に、男は、どういう原因で、いつ死亡したのか。死因は侵入中の急病死か、自殺か、それとも誰かが介入しているのか。住人の女性は関係を否定しているらしいが、本当に彼女と男の間に個人的な、つながりがなかったと信じられる材料は、今のところ何一つ持ち合わせていない。二人が親密な間柄にあったなら、痴情のもつれによる殺人という線も浮上しかねない。

 

 池永の読みを実証すべく、すでに904号室の中では、オールバックの髪形、度の強い金縁眼鏡、怒らした肩が目立つ刑事課課長・彼ノ矢警部の指揮の下、腕章を巻いた捜査員によって、本格的な現場検証が開始されている。

 死体の見分、現場の鑑識作業、第一発見者への聞き込み、周辺での目撃者捜しなどを行なうのが、捜査員の初動捜査である。

 茄子紺の制服、制帽を身に着け、透明の足カバーを履いた鑑識係員が、フラッシュを焚いて逐一、つぶさに住居の有り様をカメラに納めている。ハケでアルミニウムの粉末を振り掛け、浮かび上がらせた指紋に、ゼラチン紙を貼り付けて転写している。

 これから、指紋と同時に足痕跡や微物など、有象無象の痕跡が全方位で採取されることになる。

 室内に、乱れた様子は全くない。開けっ放しにされた調度品はなく、表面的には金品を物色された形跡もない。

 居住者の女性に確認してもらっている途中だが、現金、預金通帳、貴金属類から下着類に至るまで手付かずのままで、盗難に遭った可能性は低いようだ。

 

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