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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第二章 刑事課強行犯係



     

 和室では、電気炬燵の中に横たわる中年男性の変死体を囲んで、検視が開始されようとしていた。住人に配慮して、襖は閉め切られている。

 プロの眼識で、犯罪性の有無や死亡原因を判断し、死亡時刻を推定する、限りなく地味な作業である。日常的に扱うため、死体に対して一種の麻痺感を覚えた人間にとってさえ、この上なく気苦労な作業であることに変わりはない。

 鑑識係員は、病気感染を防ぐためのゴム手袋をはめ、粛然とした面持ちで臨む。変死体に直面して下す判断いかんでは、単なる病死扱いではすまされず、殺人事件にもなりかねないのである。

 手始めに、炬燵テーブルを除け、掛け布団を剥がし、やぐらを外す。男の着衣に乱れはない。座布団を枕代わりにした自然の寝姿である。表面と背面の全景を写真撮影し、ブレザーなどの衣服に折損や血液、精液、毛髪などの付着物がないか調べていく。

 続いて、死人の着衣を脱がせて裸にした。

「ご立派」

 全裸の下腹部を見下ろして、ベテラン鑑識係の佐藤が、ぼそっと呟いた。

「え、何だって」

 現場検証の最高責任者である彼ノ矢警部が、険しい視線を向けて聞き咎めた。その和気を欠く目、極め付けるような物言い、高圧的な態度は、警部を署内で煙たがられる存在にしている。

「いや、別に」

「近頃、独り言が多いんじゃないか。ええ、武さんよ」

 彼ノ矢が皮肉を言いながら、佐藤の表情を探った。自分の名前を呼ぶ相手を無視して、佐藤武志は死体に目を凝らす。

「偉そうに、悪たれが……。手術痕は見当たらないな」

 我知らず、また呟いてしまう。

 否でも応でも、一カ月に十五体から二十体ほどの死体を扱う。それが、警察署の鑑識係に与えられた仕事であった。法律上、死体検視は検察官の権限に規定されていても、代行検視という名目で警察官が行なうケースが、ほとんどなのである。

 公私のストレスが重なって、最近の佐藤は確かに、情緒不安定になっている。

 死体の表裏を改めて写真撮影した後、精細な観察を進めていく。必要な部分は、別の鑑識係員がフラッシュを焚きながら接写していく。

 顔に、苦悶の表情はないか。頭に、外傷や浮腫はないか。目に、混濁や点状の赤い出血はないか。首に、紐や手で絞められた跡はないか。五体に、刺し傷、切り傷はないか。

 隈なく観察した結果、取り扱っている異常死体を犯罪死体ないし非犯罪死体に区分し、死亡の原因を判断するための幾つかの材料が出てきた。

 顔面には、鬱血が認められる。目には、瞳孔に散大、眼瞼結膜下に溢血点、すなわち血液が表面に滲み出て現れる赤い点が出現している。舌は上下歯列の後方にある。全身に外傷は見当たらず、頸部にも、絞殺のような索溝や、扼殺のような指の圧痕などはない。

「自殺のまんじゅうじゃないな」

 現場の状況、死体所見から、佐藤はまず自殺を否定した。まんじゅうとは、死体や死者を意味する警察内の通り言葉だ。

 顔面の鬱血や目の溢血点が出現していることから、頸部圧迫による窒息死の可能性は残っている。

「いや、眠らされたわけでもないだろう」

 ぶつぶつと独言を連発しながら、佐藤は殺人の線も消去していった。背後から検視を見守る彼ノ矢は、もう口を挟んでこない。

 勘案したのは、着衣の乱れや悶死の表情がないこと、窒息死の場合に見られる舌を噛んだ状態がないこと、首に絞められた痕跡や皮下出血がないこと、大小便の失禁で下着や畳が汚れていないことなどだった。

 死体区分は非犯罪死体、死因は急病死。

 それが、鑑識の上級資格を持つ練達の士が下した判断だった。こと男の死に限っては犯罪の絡んでいる可能性は低く、侵入した他人の部屋で休息中か仮眠中に急病死した可能性が高い、と考えたのである。病的発作による急病死の場合にも、呼吸困難から心停止になるため、窒息死と同様に、顔面の鬱血や目の溢血点が出現することはあるので、認定に矛盾はない。

「課長、間違いなく病死だね」

 屈み込んだ姿勢のまま振り返って、上司の彼ノ矢に告げた。佐藤にしては、明瞭な声だった。彼ノ矢は安堵の気配をちらっと浮かべ、質問を返す。

「病名は?」

「そこまでは特定できないね」

「時間推定は?」

「今、やってますよ」

「さっさとやれ、さっさと」

 眼鏡の奥からの刺すような視線。ふてぶてしそうな唇から発せられる冷ややかな文句。相手の伝法に辟易して、佐藤は永遠に物言わぬ死人に向き直した。

 体位を変えたり、指圧を加えたりして、死斑の発現状況を吟味していく。顎、肩、肘、膝と、死後硬直の部位や程度も明らかにしていく。皮膚の変色や乾燥、体温の冷却も加味しながら、肉体に現れた変化から時間を逆算し、死亡時刻を推定する作業が続行されていく。

 死体には、すでに温もりがなく、まだ腐敗現象は見られない。硬直は最初に出現する顎や肩はもちろん、手足の関節にまで及んでいる。背中には、広い範囲に渡って赤褐色の死斑があり、強く指圧を加えてもほとんど退消しない。

「死後、十二、三時間というところですね」

 刑事課に所属する鑑識係員は、死後経過時間の推定を口にした。

「そうか…」

刑事課長は言葉を切ると、眉間に縦皺を刻みながら、腕時計を引き寄せる。

「朝の七時か八時ということになるな」

 彼ノ矢課長の逆算に頷くと、佐藤は死者に改めて対座した。

 その時刻までは、変わり果てた裸体をさらしている男も、間違いなく生きていたのだ。そして、男の人生の幕切れには、何の関係もない他人の家に侵入した刑事犯として、誰にも見取られずに息絶えるという、誤算が待ち構えていたようだ。

 佐藤は居住まいを正して、合掌し、頭を垂れた。

<無情の風は時を選ばず、とはよく言ったもんだ。でも、仏さんになった人は、ある意味で幸せさ。もう、何も悩まなくていいのだからなあ>

 遺体に直面して時たま抱く感慨が、胸に込み上げてきた。

<生きている俺なんか、長い夫婦喧嘩に、もう、うんざりだ>

 死者への感情移入から、自らの私生活上の気掛かりが連想され、ふと溜め息を漏らした。

 妻の優子との会話が途絶えたまま、一カ月近く経つ。見合い結婚で結ばれた妻は一言も口を利かないまま、食事だけはよそってくれるが、彼女のほうから折れてくる気配はない。意地の張り合いに、一家の主人は疲れていた。もともと、高校生の長男や中学生の長女は、話し相手になってくれない。家族の中で、主人だけが孤立していた。

「おい佐藤、いつまで、まんじゅうを拝んでいるんだ。遺留品のチェックがあるだろうが。近頃、惚けまで始まったのかよ」

 彼ノ矢警部の叱責が、現実に引き戻した。痛烈な毒気にあてられ、標的は目をしばたいて、また小さな溜め息を漏らした。

 佐藤にすれば、冥福を祈ったついでに、ほんのひととき放心しただけのこと。しかし、あくの強い上司にあからさまに反論するのは、自分の立場を悪くする蛮勇にすぎない。仏頂面に反感を表すだけに押し止める。

 それほどの難儀は要らない。馴れっこになっている。ストレスだけが、しっかり溜まっていく。

「我慢、我慢」

 周囲には聞き取りにくい小声を発しながら、佐藤は鑑識作業を再開した。

 

 検視の終わった遺体は、手配済みの運搬車が到着するのを待っ て、都内の監察医務院に移送される。翌日には、行政業務として死因の解明を行なう監察医の手で、検案・解剖に付され、全身の所見から特定できなかった病名が明らかにされるだろう。

 自他殺を鑑別し、単なる病死という捜査上の判断であれば、警察官の立ち会いの下、監察医による行政解剖で済ませられる。犯罪の可能性が大きければ、検察官の指揮の下、大学の法医学教室などでの司法解剖を踏まなくてはならない。

 

 初動捜査が進行する現場では、佐藤鑑識係によって、死者の遺留品が調べられていく。

 持参された手荷物はなかった。着衣のポケットから出てきた物 は、財布、ハンカチ、煙草、使い捨てライター、キーホルダー。携帯電話、手帳、名刺、キャッシュカード、クレジットカードなど、身分を明かす所持品は出てこない。この部屋に住む女性から失敬した持ち物も、何一つ持っていない。

 金属製のキーホルダーには、五個の鍵がまとめられていた。果たして、検証の進む住居の合い鍵は含まれているのか。佐藤は玄関へ急いだ。

「おや、おや、ぴったりじゃないか」

 鍵の一つは堅固なシリンダー錠の内筒をいとも簡単に回転させ、玄関ドアが侵入者に対して全く無防備だったことを証明した。

 亡くなった男が侵入犯であった可能性は、いよいよ濃厚になっ た。盗品が見当たらない以上、侵入窃盗の未遂犯であったかどうかはわからない。

 いずれにしろ、常習犯なら指紋の照合によって、初犯であってもブレザー、スラックス、肌着、靴などの販売ルートの捜査によって、身元が割り出される可能性は十分にある。

 佐藤らの現場検証と並行して、警視庁本部の刑事部から応援に駆け付けた私服刑事も加わって、マンション内や周辺への聞き込み が、速やかに行なわれていた。

 

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