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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
7
律子と弟の忠は一瞬、矩形のテーブルを挟んで、互いの青ばんだ顔を見合わせた。
「ブー、ブー、ブー、ブー」
インターホンの呼び出し音が、部屋中に響いている。今回の無遠慮な音色は、一階のエントランスホールに設置されたインターホン子機から、応答が求められていることを知らせている。律子は素早く反応して、米粒大の表示灯が緑色に明滅するインターホンの前に立ち、受話器を取り上げた。
「はい、もしもし」
「坂本さん? こちら警察」
嗄れた男の声が、息を切らせながら来意を告げてきた。一一〇番通報を受けた通信指令センターの指示で、刑事が急いで駆け付けてきたのだろう。
「はい、坂本です。今、開けますので」
「よろしく」
脇に『電気錠』と記されたボタンを人差し指でプッシュし、共同玄関のオートロックを解除する。その自動ドアが開く際に発する 「ピッ、ピッー、ピッ、ピッー」という音が伝わってくるのを確認してから、受話器を架台に戻した。
「警察が来たわよ」
「大変なことになったねぇ」
玄関へ向かう律子の背中を、忠の上擦った声が追い掛けてきた。彼女は内玄関からひっそりとした外廊下に出て、警察官が上がってくるのを待ち受けた。
程なく、エレベーターを降りた二人の男が、外廊下の向こう端に姿を現した。彼等の出で立ちは、少し意表を突くものであった。
肩に金モールが付いた黒の制服、制帽。事件の捜査に当たるのは私服の刑事という先入観があったため、派出所の受け持ち地域をパトロールする外勤巡査が来るとは、予想していなかったのである。
開いたドアを背中で支える通報者を認めて、二人の巡査が小走りで近寄ってくる。先に立つのは太り気味の五十歳見当で、足元がいささかおぼつかない。後ろに続くのは中肉中背、細面に眼鏡を掛け、三十歳代前半に見受けられる。
彼等の厳めしい制服に気圧され、彼等の右腰に認めた拳銃ケースに威圧されて、律子は目を険しく細めた。その二つの目を見詰める四つの目が、間近に立ち止まった。
ごつい顔の年配者が目礼し、息を整えながら切り出す。
「通報によると、こちらで何者かが亡くなったということだが…」
「ええ、そうなんです」
律子は即座に頷いた。
「それじゃ、今から現場を確認させてもらうよ」
年配の警官は、女主が右手で支える門口を擦り抜けた。若手は部外者を立ち入らせないために、ドアの脇で直立の姿勢を取った。
「あんたは………じゃないの?」
玄関を塞いだ警官が、肩越しに何か尋ねている。早口すぎて、律子には聞き取れない。
「誰か、来ているの?」
今度の日本語は、疎通された。白い手袋に包まれた人差し指が、沓脱ぎに置かれた履物を指し示している。
「弟に来てもらったのですけど、その革靴のほうは男の物ですよ。留守中に忍び込んだ男の」
「そう。このまま動かさないように」
ぶっきらぼうに言い置くと、警官は靴下のまま、カーペット敷の廊下に上がった。玄関ドアを閉めた律子が、後ろに続く。警官は寝室や浴室をざっと見回し、リビングキッチンの忠を一瞥してから、死体の横たわる和室に一人で入った。
リビングキッチンには、煙草の臭いがこもっていた。904号室の所有者は嗜まない。さして、うまくもなさそうな顔で、口元から紫煙をくゆらせているのは忠で、ダイニングテーブルに置かれた灰皿代わりの小皿にも、吸い殻が押し潰されている。
律子は部屋を横切ってワイドサッシに近寄り、暗闇を透かして輝く大都会の灯の向こうに、聞き耳を立てる。
「ウー、ウー、ウー、ウー」
秋の気配を深めた夜の空気に乗って、かすかに聞こえていたサイレンの、うら悲しい唸りが、次第に鮮明になってくる。マンションの前を東西に走る幹線道路を伝って、大きく、高くなってくるようだった。
部屋の中でも、襖を開け閉てする音が響いた。年配の警官が現状の確認をすぐ切り上げて、和室から出て来たのである。忠が居たたまれない様子で、椅子から立ち上がり、瞬きしながら警官に迫った。
「いったい、何者なんですか。よりによって、人の部屋で亡くなるなんて」
「さあ、捜査員の調べを待たないと、何とも言えない」
警官が角張った顔を小さく振りながら、表情を引き締めて答え た。ガラス窓を背にした律子が、質問を引き取った。
「え? お巡りさんも、捜査に当たるのではないのですか」
「それは本署や本庁の仕事だよ。俺達の任務は、誰も入らぬように現場を保存するだけだ。捜査員なら、もう外に来ているよ」
制服制帽の男は姉弟に、代わる代わる鋭い視線を向けた後、語気を強めて付け足した。
「物には触れないように。それから、洗面所、トイレ、流しも、しばらく使わないようにしてくれよ」
ぞんざいな物言いが神経を逆撫でるが、律子は感情を面に出さないように抑制した。警官の横柄さは、彼個人の人柄に由来するもので、他意はないのだろう。警察組織の一員として、死体の第一発見者である彼女を疑っている素振りでもない。
「ウウー、ウウー、ウウー、ウウー」
そのざっくばらんな警官が指摘したとおり、先刻のサイレンはすでに、マンションの直下で、けたたましい音を響かせていた。
間もなく、耳に突き刺さるような起伏が弱くなり、律子がゆっくり頷くのと同時に止んだ。
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