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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
6
律子の煩悶は、来訪者に中断させられた。誰かの手によって、インターホンのチャイムが鳴らされたのだ。
「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン」
リビングキッチン内に大きく反響した、やや間延びした音色は、その人物がオートロック式の共同玄関を通り抜けて、建物の一階から九階に達し、すでに904号室の直前に来ていることを告げている。
階下の共同玄関前に設置されたインターホン子機が押された場 合、「ブー、ブー、ブー」と忙しない音色を立てる。
間近な玄関先から接触を求める、その、のどかな調子の呼び出し音が、皮肉なことに一抹の不安を掻き立てる。
無断でオートロックシステムを採用したマンション内に入り込 み、最上階まで上がってきた人物は誰だろうか。板橋区内に住む弟が駆け付けたにしては、早すぎるのではないか。あるいは、外来の人間ではなく、同じマンション内の住人が訪ねてきたのかもしれない。
「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン」
来訪者の意思を乗せて、再度、チャイムが鳴らされた。あっさり、引き返すつもりはないらしい。
掛け時計に目を走らせた。午後七時十分。弾かれたように腰を上げると、インターホンでの受け答えを省いて、白面のまま玄関へ向かう。
恐る恐る、豆粒ほどのドアスコープに片目を寄せ、外廊下を覗き見る。凸レンズの先には、革ジャンパーにジーパン姿の、大きな黒い影が立ち塞がっていた。
無用な懸念だった。
長い顔、どこか眠そうな双眸、『ジャンボ』というリングネームで活躍していたプロレスラーを彷彿させる顔立ち。大柄な男は、真ん中の弟の坂本忠だった。律子は、肩の力が少しだけ抜けたような気がした。
急いで、ディスク・タンブラー錠とも呼ばれているシリンダー錠のロックを内側から外し、ドアを押し開く。内玄関から流れ出た光線が、青ざめた長い顔を浮かび上がらせる。
「大変なことになったねえ」
「とにかく、入ってよ」
姉も表情を強張らせて頷くと、凶変が突発した密室へ招き入れ た。ひんやりとした夜気とともに、忠が素早くドアから滑り込んだ。
「随分、早かったわね」
スニーカーを脱ぐ横顔に、問い掛けた。
「池袋駅から、タクシーで飛んできたんだよ」
血のつながった弟だけに、苦衷を察してくれている。律子はほんの一瞬だけ、愁眉を和らげた。先立って奥向きへ進む大きな背中に、重ねて問う。
「どうして、上がってこれたの? 下の玄関、開いていたの?」
「うん、ちょうど、若いOLっぽい人が鍵を出してドアを開けたから、一緒に入ってきたんだよ」
「ああ、そうだったの。余計な心配しちゃったわ」
忠が足を運びながら、不安そうな声を返す。
「本当に、人が死んでいるの?」
「本当よ」
細長い廊下を抜けて、二人はリビングキッチンに通った。
「どこで?」
律子は、襖障子だけで隔てられた和室を指差した。
「死んでいるのは、顔も見たこともない中年の男」
「ええ! まじで、まずいよ」
「どうしてよ」
ダイニングテーブルを回って、掛け時計を背にする先刻来の定位置に腰を下ろすと、彼女は身動ぎもせずに忠の答えを待った。彼は立ったまま振り向いて、焦り気味に言葉を返す。
「だって、そうじゃないか〜。中年って言えば、地位も金もある働き盛りじゃないか。そういう男がだよ、独身女性の寝室で死んでいるんじゃ…」
「早とちりしないで。隣の部屋は寝室ではなく、居間に使っているのよ」
言外の意味を察知して、きっぱりと否定した。忠は真顔で、なおも食い下がってくる。
「律姉ちゃん、本当に、知らない男なんだろうね」
「そうよ。顔も名前も知らない赤の他人に、間違いはないわ」
探偵気取りが向かいの席に座り、テーブルに両肘を置いて体を乗り出す。
「知らないと言っても、警察は疑うだろうなあ。情を通じた愛人が、スペアキーを使ってマンションに入り、女の帰りを待つ間に死んでしまったんじゃないかとかさ」
「ばか! 私には、そんな人、いないわよ」
遠慮を知らぬ勘ぐりに、不快感を露にした。
「それに、少しぐらい疑われても構わないわ。何より、早く遺体を片付けてもらいたいだけよ」
「そりゃそうだけど、その男、本当に死んでるんだろうね」
「確かよ」
「意識を失っているだけってことは?」
「それほど言うなら、あなたが確かめてみたらどうなの」
「嫌だよ、俺ー」
忠は素っ頓狂な声を上げて狼狽し、吃りながら言葉を継ぐ。
「め、迷惑千万な野郎だなあ、全く。……何も、人のマンションで死ななくても、自分の家で成仏したらいいのになあ。律姉ちゃん、その男、捨ててこようか? 実に車を持ってきてもらって、山か海へ…」
見開いた黒目が、律子の顔をじっと見詰める。
「………」
表沙汰にせず、姉弟だけで闇から闇に葬る。誘い込まれそうな妙案に思えたが、危険に過ぎる。大きな負い目も残るだろう。
「ばかばかり言わないでよ。そんなことしたら、死体遺棄で私達が罰せられるわよ。悪いこともしていないのに、こそこそする必要はないでしょうが」
弟に言い聞かせると同時に、自らの踏ん切りもつけた。
「もう、警察に届けなくては…」
律子は席を立って、電話の送話器を左耳に引き寄せた。
また、掛け時計に目が行った。分針が6に近付いている。針を刻む音が意識に蘇り、表通りの喧噪もはっきり聞こえてきた。幾分か日頃の冷静さを取り戻したらしい。
彼女は右指で三桁のダイヤルをプッシュし、相手方の受話器が外されるのを、息を凝らして待った。
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