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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第一章 904号室の異常死体



     

 律子の煩悶は、来訪者に中断させられた。誰かの手によって、インターホンのチャイムが鳴らされたのだ。

「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン」

 リビングキッチン内に大きく反響した、やや間延びした音色は、その人物がオートロック式の共同玄関を通り抜けて、建物の一階から九階に達し、すでに904号室の直前に来ていることを告げている。

 階下の共同玄関前に設置されたインターホン子機が押された場 合、「ブー、ブー、ブー」と忙しない音色を立てる。

 間近な玄関先から接触を求める、その、のどかな調子の呼び出し音が、皮肉なことに一抹の不安を掻き立てる。

 無断でオートロックシステムを採用したマンション内に入り込 み、最上階まで上がってきた人物は誰だろうか。板橋区内に住む弟が駆け付けたにしては、早すぎるのではないか。あるいは、外来の人間ではなく、同じマンション内の住人が訪ねてきたのかもしれない。

「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン」

 来訪者の意思を乗せて、再度、チャイムが鳴らされた。あっさり、引き返すつもりはないらしい。

 掛け時計に目を走らせた。午後七時十分。弾かれたように腰を上げると、インターホンでの受け答えを省いて、白面のまま玄関へ向かう。

 恐る恐る、豆粒ほどのドアスコープに片目を寄せ、外廊下を覗き見る。凸レンズの先には、革ジャンパーにジーパン姿の、大きな黒い影が立ち塞がっていた。

 無用な懸念だった。

 長い顔、どこか眠そうな双眸、『ジャンボ』というリングネームで活躍していたプロレスラーを彷彿させる顔立ち。大柄な男は、真ん中の弟の坂本忠だった。律子は、肩の力が少しだけ抜けたような気がした。

 急いで、ディスク・タンブラー錠とも呼ばれているシリンダー錠のロックを内側から外し、ドアを押し開く。内玄関から流れ出た光線が、青ざめた長い顔を浮かび上がらせる。

「大変なことになったねえ」

「とにかく、入ってよ」

 姉も表情を強張らせて頷くと、凶変が突発した密室へ招き入れ た。ひんやりとした夜気とともに、忠が素早くドアから滑り込んだ。

「随分、早かったわね」

 スニーカーを脱ぐ横顔に、問い掛けた。

「池袋駅から、タクシーで飛んできたんだよ」

 血のつながった弟だけに、苦衷を察してくれている。律子はほんの一瞬だけ、愁眉を和らげた。先立って奥向きへ進む大きな背中に、重ねて問う。

「どうして、上がってこれたの? 下の玄関、開いていたの?」

「うん、ちょうど、若いOLっぽい人が鍵を出してドアを開けたから、一緒に入ってきたんだよ」

「ああ、そうだったの。余計な心配しちゃったわ」

 忠が足を運びながら、不安そうな声を返す。

「本当に、人が死んでいるの?」

「本当よ」

 細長い廊下を抜けて、二人はリビングキッチンに通った。

「どこで?」

 律子は、襖障子だけで隔てられた和室を指差した。

「死んでいるのは、顔も見たこともない中年の男」

「ええ! まじで、まずいよ」

「どうしてよ」

 ダイニングテーブルを回って、掛け時計を背にする先刻来の定位置に腰を下ろすと、彼女は身動ぎもせずに忠の答えを待った。彼は立ったまま振り向いて、焦り気味に言葉を返す。

「だって、そうじゃないか〜。中年って言えば、地位も金もある働き盛りじゃないか。そういう男がだよ、独身女性の寝室で死んでいるんじゃ…」

「早とちりしないで。隣の部屋は寝室ではなく、居間に使っているのよ」

 言外の意味を察知して、きっぱりと否定した。忠は真顔で、なおも食い下がってくる。

「律姉ちゃん、本当に、知らない男なんだろうね」

「そうよ。顔も名前も知らない赤の他人に、間違いはないわ」

 探偵気取りが向かいの席に座り、テーブルに両肘を置いて体を乗り出す。

「知らないと言っても、警察は疑うだろうなあ。情を通じた愛人が、スペアキーを使ってマンションに入り、女の帰りを待つ間に死んでしまったんじゃないかとかさ」

「ばか! 私には、そんな人、いないわよ」

 遠慮を知らぬ勘ぐりに、不快感を露にした。

「それに、少しぐらい疑われても構わないわ。何より、早く遺体を片付けてもらいたいだけよ」

「そりゃそうだけど、その男、本当に死んでるんだろうね」

「確かよ」

「意識を失っているだけってことは?」

「それほど言うなら、あなたが確かめてみたらどうなの」

「嫌だよ、俺ー」

 忠は素っ頓狂な声を上げて狼狽し、吃りながら言葉を継ぐ。

「め、迷惑千万な野郎だなあ、全く。……何も、人のマンションで死ななくても、自分の家で成仏したらいいのになあ。律姉ちゃん、その男、捨ててこようか? 実に車を持ってきてもらって、山か海へ…」

 見開いた黒目が、律子の顔をじっと見詰める。

「………」

 表沙汰にせず、姉弟だけで闇から闇に葬る。誘い込まれそうな妙案に思えたが、危険に過ぎる。大きな負い目も残るだろう。

「ばかばかり言わないでよ。そんなことしたら、死体遺棄で私達が罰せられるわよ。悪いこともしていないのに、こそこそする必要はないでしょうが」

 弟に言い聞かせると同時に、自らの踏ん切りもつけた。

「もう、警察に届けなくては…」

律子は席を立って、電話の送話器を左耳に引き寄せた。

 また、掛け時計に目が行った。分針が6に近付いている。針を刻む音が意識に蘇り、表通りの喧噪もはっきり聞こえてきた。幾分か日頃の冷静さを取り戻したらしい。

 彼女は右指で三桁のダイヤルをプッシュし、相手方の受話器が外されるのを、息を凝らして待った。

 

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