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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第一章 904号室の異常死体



     

 にわかに、時計の秒針を刻む音が、意識され出した。四辺形の掛け時計が据わる厚い壁に隔てられて、隣室の903号室からは、全く物音が聞こえてこない。階下の804号室の物音も、上がってこない。

 絶え間なく鼓膜を刺激するのは、往復四車線道路を走行する車両が発する低い轟きで、地上からマンションの外壁沿いに上昇し、ガラス窓から忍び込んでくる。気温の低いほうへ曲がる性質を持つ音波は、地面付近より気温の低い上空へ向かって広がるため、中高層建築の中にいる人間の耳には、地上で発した音が大きく伝わるのである。

 だが今、下の道路の喧噪は気にならない。聞き慣れた都市の鼓動にすぎない。

 秒針の振れる音が、気に掛かる。

「チク、タク、チク、タク……」

 規則的なリズムで鳴る小さな音が、リビングキッチンを満たしていく。宇宙の鼓動を聞いているような錯覚に陥っていく。

「チク、タク、チク、タク……」

 やがて、耳を傾ける律子の瞳が虚空の一点に止まり、思案の迷路に入り込む。

 なぜ、このような悲劇に自分が見舞われたのか、因果関係など、わかりようもない。ただ一つわかっているのは、自分の住まいが霊安室に様変わりしてしまったことだろうか。たとえ、この霊安室が形の上では私室に戻ろうとも、真に安らげる我が家に戻ることはあるのだろうか。長い、長い時間が、必要な気がする。受けた衝撃が、大きすぎる。まだ、絶望的に生々しすぎる。

 得体の知れない男の死に顔は、永遠に忘れられないかもしれな い。折に触れて、記憶の底から浮かび上がってくるかもしれない。どうしたらいいのだろう。

 そもそも、留守中に他人が簡単に侵入できる住まいでは、空恐ろしくて安住できないではないか。いったい、どうしたらいいのだろうか。

 喉に渇きを覚えた。椅子から重い腰を上げて台所に入り、水道の冷水で癒した。顔に不快感を覚えた。カーペットを踏んで洗面所に足を運び、温水だけで何度も何度も洗って、化粧と一緒に不快感を拭い落とした。セミロングにセットした黒髪の乱れを直しながら、三面鏡に映る素顔に対面した。黒目勝ちの目元が潤み、眼差しがいつもよりきつくなっているようだ。涙堂の陰影も、いつになく濃いように思えた。

 大きな溜め息が、一つ漏れた。

 律子は鏡を後にして、ピンク系ベージュのスーツ姿のままリビングキッチンに戻った。警察への連絡を控えているため、外出着を室内着に取り替えるわけにはいかない。

 白いレースのカーテンを引いたガラス窓からは、バルコニー越しに大都会の夜景が見渡せる。正面に見える一棟の超高層ビルを主役に配し、夜空と接する視界の果てまで埋め尽くす建造物が、数知れぬ発光体の集団と化して煌めいている。その眼下に広がる勝景を朝な夕な眺めるのは、マンションの所有者の気に入りであった。

 所有者はそのまま部屋を突っ切ると、バルコニーに通じる窓辺に寄った。夜景を愛でるためではなかった。切迫した状況で、そんな余裕があるのは、よほどの大人物か狂人だろう。

 中庸な律子の意図は、窓の施錠の確認にあった。鍵はロックされている。網入りのガラス窓にも、割られた形跡はない。

 間仕切りを隔てた和室に冷たく横たわる何某呉某は、隣の 903号室や階下のバルコニー伝いに、あるいは外壁に設置されている雨樋をよじ登って押し入ったのではないらしい。

 侵入経路は玄関ドアなのだ、と判断された。男は玄関から直接入って、黒い革靴を三和土に脱ぎ置いたのだ。外廊下に面した寝室の窓枠には、金属製の面格子が嵌め込まれているから、たとえガラス窓が開いていたとしても入れない。

 では、どういう手口で、あの男は玄関の錠前を解いたのだろうか。

 特殊な工具を使うピッキングによって開錠したとは、およそ考えにくい。マンションの購入時に受けた説明によると、ここ数年来、多発しているピッキング犯罪を防ぎ得る新構造の錠前が、共同玄関と各戸の玄関に取り付けられているからだ。

 ふと、一つの手口が思い浮かんできた。元から用意されているマスターキー、すなわち合い鍵ないし親鍵を使えば、開錠は簡単だったのではないだろうか。

 男の身分がマンションを斡旋・分譲した不動産取扱会社か、マンション管理会社の社員だとしたら、社内で保管しているマスター キーを盗用したのだろう。弟の忠が指摘したように、男の正体が空き巣狙いの泥棒だとしたら、マンション一階の管理室で保管しているマスターキーを失敬したのだろう。

 しかしながら、その種の鍵が果たして存在するのかどうか、集合住宅に住んだ経験の浅い律子には、よくわからない。

 男の正体と侵入手口がわからないのと同様、その侵入目的もはっきりしない。単なる窃盗目当てと仮定すると、腑に落ちない点に行き当たるのである。室内を荒らした様子がないのは、どう考えても不自然。一人暮らしの女性を付け回す変質者と見なすのが、妥当かもしれない。

 性暴力をもくろんだ変質者と想定して、男はなぜ死んでしまったのだろう。本当に病気で突然死したのか、定かではない。冷静に観察したわけではないのだ。誰かに殺されたという可能性も否定できない。部屋で殺されたのかもしれないし、他の場所で殺されて運ばれてきたのかもしれない。

 胸の疑惑が、悪い方向へ増幅していく。警察に連絡したら、自分も疑われるのだろうか。

 「侵入者は赤の他人」と言っても信じてもらえず、浅からぬ関係にある男ではないかと、詮索される恐れはありはしないか。忌まわしい名詞が、頭に浮かんできた。「愛人」。「不倫」。

 紛れ込んだ他人のために、被害者の立場にある自分のプライバ シーまで侵害されるのは、どうにも遣り切れない。スキャンダルを売り物にする新聞・週刊誌の記者やカメラマンに嗅ぎ回られたり、テレビ局のワイドショー取材陣にドアを叩かれたりする事態になったら、目も当てられない。

 思案に余って、律子は我知らず涙ぐんだ。

<私の城が汚された。私の財産が薄汚れてしまったのだわ〉

 疑惑と不安、そして悲憤の入り交じった複雑な感情が、胸の片隅から渦を巻いて広がり、全身を覆い尽くそうとしていた。

 

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