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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
4
リセットした電話機に目を落とした後、律子は送・受話器を持ち上げた。
「そう…ね、その前に」
新たな考えが浮かんで、いったん受話器を元に戻し、ダイヤルメモに登録済みの番号をプッシュする。
「ツッツ、ツッツ、ツッツ。プ、ププーー、プ、ププー」
電話番号を自動的に送信する忙しない音が、受話器を当てた鼓膜を刺激する。続いて、相手方の呼び出し音が鳴り始める。
「ル・ルー、ル・ルー」
三回、四回、五回……。電話線を通じて遠くから耳に届く響きが、いつになく間延びしているように感じられる。焦れながら、息を詰めて待つ。
「チャッ」
ようやく、相手方の受話器が外された。律子の胸から、長い息が漏れ出た。電話の向こうで、聞き慣れた声が答えた。
「はい、坂本です」
実家の母親のやや甲高い声だ。
「母さん、私よ」
「あ、あ〜、律子ちゃん…」
悠長な物言いを遮って、娘は焦り気味に訴えた。
「こっちで、大変なことが起こったのよ。男が、知らない男の人が死んでいるのよ」
「男の人が死んでいる? あんた、どこでよ?」
一段と甲走った声が、聞き返してくる。
「私のマンション。会社から帰ってきたら、部屋に明かりがついていて、おかしいと思ったのよね。部屋に入ってみたら、案の定で、見たこともない、おじさんが、炬燵の中で死んでいたのよ。本当に、とんでもないことが起こってしまったのよ」
「まあ、恐ろしい…。赤の他人が、マンションで殺されているっていうの?」
言葉尻が震えているのが、聞き取れた。
「そうじゃないのよ。よくはわからないけど、殺されたのじゃなくて、病死しているみたいなの」
説明する律子の脳裏に、男の、おぞましい悪相が蘇った。男は確かに、他人に殺されたのでも、自殺したのでもなく、突然死したようだった。
「どちらにしても、恐ろしいことね。あんた、ちゃんと戸締まりしてなかったのじゃないの? だから、赤の他人が入り込ん…」
「そんなことは、ない。ちゃんと、気を付けているわよ」
母親の脱線に、取り合っている場合ではない。娘は早口で、用件を切り出した。
「それより、母さん、実は帰っていないかしら? 家にいるなら、すぐ私の所へ来てもらいたいのよ」
「あいにく、今夜は遅くなるってね、さっき電話があったばかりなのよ。そうだわ、そうだわよ」
「何が、そうなの?」
「忠ちゃんよ。忠ちゃんに、来てもらったらどう?」
「ええ、そうね。そうするわ」
言い終わる前に、心配げな高い声が被さった。
「警察には、もう連絡したの?」
「いや、まだよ。忠が来てくれたら、すぐ連絡するつもりよ」
「私は父さんがいるから行けないけど、後で必ず電話をちょうだいね。とても心配だから…」
「ええ、もちろんするわ。それじゃ、後で」
実家の母親との通話を早々に打ち切ると、律子はダイヤルメモに従って、次弟の忠が板橋区内に一人で暮らすアパートの電話を鳴らした。
一回、呼び出し音が、響いただけだった。即座に、抑揚のない応答が、受話器を介して返ってきた。
「はい、もしもし」
「私よ、律子」
「ああ、律姉ちゃん」
「お願いがあるのだけど、忠、びっくりしないで、私の話を聞いてよ」
「どうしたの? そんなに切羽詰まった声で」
そう言う次弟の声は、地の底から届いてくるかのように低く、小さくしか聞き取れない。当人の話し方によるのだろうか。いや、たぶん、電話回線の具合によるのだろう。
姉は意識して、自らの話し声を五デシベル分、大きくした。
「私のね、マンションの部屋で死人が出たのよ」
「死人が出たって、誰? 知り合い?」
「いいえ、見掛けたこともない、赤の他人。六時頃、マンションに帰ってきて発見したのだけれどね、その男は留守の間に入り込 み、何かの原因があって急死してしまったみたいなのよ」
「ええー、本当かよ〜。冗談言ってるんだろう、律姉ちゃん」
相変わず回線の音質は芳しくないが、耳に伝わる忠の声が、急に大きくなった。
「本当の話よ」
「そいつ、空き巣狙いの泥棒かな?」
「まだ、わからない…。部屋には、荒らされた様子がないみたいだし…」
「ふ〜ん」
「それはともかく、お願いというのはね、私の所へ急いで来てほしいのよ」
「え〜、嫌だよ。俺、そんな所へ行くの」
忠の口調が、また変わった。ひどく狼狽している。
「何、情けないこと言ってんのよ。姉が困っているというのに、助けてくれないの」
「け、警察へ連絡したら、いいじゃないか」
「もちろん、するわ。するけど、その前に誰かに、そばにいてもらいたいのよ。実は帰りが遅くなると言うし、わかるわね」
「嫌だなあ、俺。急に、そんなこと、頼まれてもなあ…」
「四の五の言ってないで、とにかく、急いで来てよ!」
送話器に向かって、怒気を含んだ声をぶつけた。しばらく間を置いて、溜め息とともに弟が承諾した。
「わかったよ〜。すぐ行くよ」
「よろしくね」
電話の奥から届いた頼りなげな、喘ぐような声が、律子を苛立たせた。
「全く情けない男ね、忠は。この意気地なし」
受話器を架台に戻すと、苦口を呟きながら、ひとときの休息を求めて、椅子に座り直した。
五歳年下で三十三歳の坂本忠は、四年制の大学を中退して以来、肉体労働のフリーターを続けている。東京都内の貸しアパートに住むようになった二十代後半からは、年に一、二度しか実家に顔出ししない。律子とも、久方振りの再会になる。
律子は、女二人、男三人の五人姉弟の長子。三十八歳を迎えた自身を始め、三十代の弟達もすべて独身で、妹の貴子だけが縁付いて、北陸の小都市で三十五歳の晩秋を送っている。
長弟で三十七歳の茂 は、埼玉県に本社を構える化学工業会社の 営業所所長として、新潟県に赴任中。しっかり者で、親への毎月の仕送りを欠かさない。末弟で三十一歳になった実は、埼玉の実家から東京都内の不動産屋に通勤している。
高収入を得ている律子や茂、夏冬のボーナスを確保している実と比べて、フリーターを通している忠の収入は不安定だった。当然ながら、両親の風当たりが最も強く、彼のほうも引け目を感じているらしい。
一念発起して天職に就かぬまま安易な生活に流されている間に、親や姉弟と疎遠になり、最近は性格まで拗けてきたように感じられる。何かにつけて、殊更めいて、人の言動に反発するようになったのだ。親しく交わる友人もなく、スポーツや旅行の趣味もなく、アパートの一室でテレビゲームに熱中しているらしい。
すべては、生来の小心な性格に由来しているのではないか。不器用にしか生きられない弟を、姉として律子は案じていた。
そんな弟でも、自立して生計を立てている社会人に変わりはな い。あれやこれや、理屈を並べたがる一人前の男に変わりはない。いざという時には、頼りになるはずである。律子は忠の芳情に感謝し、彼の到着を待ち望んだ。
要する時間は、四十分くらいか。時計の分針が三分の二回転すれば、霊安室に急変してしまった居室の沈黙は破られ、やがて警察官の手によって私的な住空間に戻されるだろう。
椅子から上半身を振り向けて、リビングキッチンの掛け時計に視線を走らせた。六時四十二分。七時二十分か、遅くとも七時半には、弟が姿を見せてくれることが予測された。
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