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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
3
マンションの和室内が、律子の視界に入った。心の準備は整えていたのだが、すぐには、現出している事態が飲み込めない。敷居の前に突っ立ったまま、我が目を疑う。
蛍光灯に隈なく照らされた六畳間に、乱れた様子はなかった。二面の明かり障子と押し入れの戸は、閉め切られている。木製コーナーラックや大型テレビは、いつもの場所に据えられている。見慣れた掛け時計や気に入りの油絵は、所定の位置に掛かっている。
理解の外なのは、中央に置かれた炬燵に両足を突っ込んだ形で寝ている中年男なのだ。座布団を枕代わりにして、掛け布団の中で仰向けに臥せっている。
ノーネクタイ、濃い色のブレザーと装いはラフで、深い彫り、縦皺を刻んだ眉間、頑丈そうな顎を備えた寝顔は、がさつで、気難しいイメージを発散している。面相は皮膚の張りを失った中高年に相違ないが、頭髪に白い物は交じっていない。
顔見知りでも、まして顔なじみでもなかった。律子にとって、全く見知らぬ人物だった。しばし記憶を手繰ってみる。我が物顔で部屋を占有している男に、一面識もない事実は微塵も揺らがない。
泥棒? 変質者? それとも……。何者であるかを見抜こうと頭を回転させても、結論が導き出されるわけはなかった。軽い近視の律子は、眼下の相手に鋭く問い詰めた。
「誰よ、あなた」
答える気配がない。身じろぐ気配も皆無。
「失礼な…」
荒立つ気に駆られ、敷居を跨いで畳に跪く。
だが、男を揺り起こすまでもなかった。間近に見下ろすと、顔はやや赤褐色を帯び、生気を失っている。寝息ばかりか、息遣いも感じられない。睫もぴくりとも動かず、表情が木石のように固定している。すでに、事切れているのは明らかだった。
「イヤーー」
背筋に走る悪寒とともに、律子のほうも色を失った。腰が砕け、後ろ手で体を支える。四肢を反転させて何とか起き上がり、隣室への退避を図る。
「ガタ、ガタ、ガタン…、ガタ、ガターン」
ダイニングテーブルが立てる激しい音を耳にしながら、和室から最も離れた椅子に、腰を滑り込ませた。
ピンク系ベージュ色のスカートをまくり上げ、痛む右膝に手を当てる。テーブルの脚に、打ち付けてしまったのだ。荒い息がなかなか静まらない。息を吸い込むばかりで、吐き出すことを彼女は忘れている。
是非もない。変哲もなく過ぎ去ろうとしていた一日が、闖入者によって大変な凶日に様変わりしてしまったのである。映画鑑賞の目算など、とうに念頭から吹っ飛んでいた。
緊急事態を収拾する手段は、一つしか思い浮かばなかった。
<警察、そう警察。警察に連絡しなければ…>
とにかく、警官達の手で、得体が知れない男を連れていってほしい。一刻も早く、馬の骨の死体と一緒にいる気味悪さから解放してほしい。混乱した頭に去来するのは、それだけだった。
意思を固めたところで、はたと行き詰まった。
<電話を、どうしよう?>
一一〇番通報に必要な電話機は、和室に置いてあった。入室を阻むように横たわっている死体が、萎え掛かった気力を更に挫けさせる。
「最悪ね。最低よ」
和室を一瞥しながら、声を上げて、重ねての悲運を嘆いた。
その独り言が、律子の胸から息を吐き出させ、多少の落ち着きを取り戻させ、次の行動を促した。かつて持っていた携帯電話は手放したし、電話ボックスは近所にない。和室の電話機を持ち出すほうが、手っ取り早いのだ、と。
人間、一度、逃げ出せば、際限なく逃げ続けなければならない。どこかで、踏み止まらねばならない。自分では、はっきり意識していないが、それが彼女のバックボーンになっていた。人間の名前には、その人の生き方や性格に微妙な影響を与える力があるのではないか。文字には、言霊が宿り、名前には、暗示力や誘導力が秘められているのではないか。親から『律子』と名付けられた彼女は、物心ついた頃から、背筋を真っ直ぐに正し、自分自身を律してきた人だった。
目下の悲運に際しても、律子は体を動かすことで、迷う心を振り払った。椅子から腰を上げ、竦む足を、流れる膝を意志で前進させて、和室の畳を踏み締めた。右脚の痛みが治まらないために余計、足に力が入らないのが、もどかしい。侵入者の死に顔を見ないように意識すると、かえって視界に絡まってきて、背中にざわつくような異常感を覚えた。
男の枕元を横切って電話機に辿り着くと、壁面に穿たれた電話アウトレットからコードごと引き抜いて、取って返す。
和室を抜け出ると境の襖を閉め、先刻、動転して脱ぎ忘れたスリッパを履き直して、台所に面する対面カウンターへ進んだ。木製の細長い台の上に電話機を据え、リビングキッチンの壁に設けられているアウトレットに、モジュラー・プラグを差し込みに掛かる。その指先が小刻みに震え、電話回線の接続に意外なほど手間取った。
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