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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥
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何か聞き忘れている。笑いを収めた池永は、和武利に向かって姿勢を正した。
「ところで、そもそもの原因は何だったのですか。つまり、その、清雲さんが自滅を重ねて堕落し、常習犯にまでなった原因につい て、お聞きしたいのですよ」
「大人になりきれないアダルトチルドレンだった。これが、大きな原因だったのじゃないですかね。私も常々、“君の社会常識的な頭脳レベルは中学生並みだ”という意味のことを、本人に言っていました。本人自身にしても、青い鳥症候群という言葉を口に出していましたね」
「なるほど、夢見る大人子供か」
「そういう未熟者が、暇を持て余して空想ばかりしていては、どんどん頭がおかしくなっていく、と心配していたとおりの結果になりましたね。
私が実家に帰った時とかですね、彼が東京へ遊びに来た時には、人間関係に煩わされないような郵便配達をやったらどうだ。子供を相手にする学習塾を開いたらどうだ。それから農業、陶芸といった、地道に物を作るような仕事にコツコツ取り組んだらどうだと。いろいろ提案したり、警鐘を発したのですがね。残念ながら、コツコツ努力するのも嫌いな男で、あらゆる仕事に適性がなかったのかもしれない」
「そういう未熟で、怠け者の性格を作ったのは、生まれつきでしょうかね。それとも環境でしょうかね」
「う~ん、遺伝的な素質と環境的な影響、どちらもあるでしょうし、相互に作用し合っているでしょうがね。両親とも年金をもらっていた関係で、母親のほうは、すぐ仕事を辞めて、金を無心してくる息子を突き放すことができなかった。父親のほうは、真面目だけが取り柄のような人で、息子や娘に強く言うことさえできなかった。そういう両親の甘い態度も、大いに影響していたでしょうね」
「では、親子関係が一番、大きな原因だったと…」
「いや、この育て方とかの家庭的な環境よりも、生まれついての性格、持って生まれた素質といったもののほうが、根本的な要素だったと思いますね。父親から受け継いだ遺伝的なものが大きい、ということです。まあ、断定はできないが、私は両親ともよく知っているのです」
精神科医のような分析が、なお続けられる。
「彼の父親は、息子に言わせると、“機械相手の仕事で皆勤賞をもらった堅物で、内弁慶で、ああはなりたくない人”となりますが、仕事に真面目なところ以外は、息子とそっくりでしたね。
父親自身も世にいう男らしさに欠けていて、考え方、物の見方が、ずれているような一面も、見受けられました。人付き合いが苦手なところ、弱気なところ、決断力のないところも、一緒だった。そういう人だから、いざと言う時は、気丈な妻に任せて表に出て来なかった。定年後は、息子が警察騒ぎを起こしたのを苦にして、自宅にこもり、晩年には、うつ病になってしまいましたね」
「なるほど、うつ病ですか」
「実は、清雲も父親と同じように、精神を病んでいたのですよ」
「うつ病を病んでいた?」
「いや、うつ病と近い関係にある境界型人格障害でして」
「境界型人格…」
「境界型人格障害。境界例とも言うようですが、アメリカ流に人格障害、ドイツ流には精神病質と呼ぶ、脳の障害ですね。まあ要するに、人格の構造が病理的だったということです。この種の人間は、正常と異常の境目にいましてね、人生の目標とか価値観を見付けられずに過ごし、情緒不安定で、気分がふさぎやすく、衝動の自己コントロールが利かない。そういった特徴があって、盗癖や性的な逸脱行為を起こしやすいのですね」
「では、精神病院に入院したこともあるのですか」
「地元の精神病院で診察を受けたり、一時期は入院したこともあります。その境界型人格障害は青年期に始まり、破壊衝動が自分に向かうと自殺を図るらしいのですね。そう…、そうか、そうか」
「どうしました?」
「いや、脳の障害が青年期に始まるわけだから、先ほど話した自殺未遂をやらかした時点で、発病していたのかもしれない、と思いましてね」
「なるほど、その可能性もありますね」
「精神病院の医者には、脳の構造が女性的とも見立てられたようです。確かに、女性的というか、普通の男としては奇妙な言動もありましたね」
「は~、なるほど」
「もう一つ、脳の人格異常にも関係しているのかもしれませんが ね、泥棒が病み付きになっていたようでして。いつもは、どんよりとした目をしていた清雲ですがね、“盗む瞬間のスリルがたまらない”と告白した時には、鋭く、ぎらついた暗い目に一変しました よ」
「和武利さん、それがまさに、犯罪者の目なんですよ。何かを狙ったような不気味な目、陰気に集中した目だったのではないですか」
「そのとおりです。二度と見たくない目ですね」
「電車の中で、見てしまうかもしれませんよ。これからスリを働こうとしている連中が、見せる目ですからね」
「なるほど、大脳の悪い集中力が、目に表れるわけですか」
「ええ、目は正直です」
「スリも病み付きになるようですね」
「ええ、困ったことですが…」
「スリ、窃盗…、ある種の人間にとっては、犯罪を犯すことが精神の解放、カタルシスになっていることはありませんかね。極端ですかね」
「いや、そんなこともないでしょう。世の中には、そういう、やからもいるんですよ」
「清雲の場合は、そうやっている間に、だんだん精神が蝕まれていって、理性面が後退し、本能的な部分でしか、行動できなくなっていったようですがね。あるいは、本人も気付かず、無意識に、親の期待とか社会の評価から、ドロップアウトしたいという願望を抱いていたのかもしれません」
「いやあ、お話を伺って、大いに参考になりました。最後に、もう一つだけ、お願いできませんでしょうか」
「何でしょう」
「清雲さんの遺体ですが、今は監察医務院の霊安室に安置されていましてね。その遺体の引き取りを、お願いできないものかと…」
「ええ、よろしいですよ。そうですね、彼には塩釜に姉さんとお母さん、川崎に叔父さんがいますので、私から塩釜に連絡を入れて、一緒に引き取るということでも、よろしいですか」
「そうしていただけると、ありがたい。清雲さんも、無縁仏として葬られなくよかったですよ」
「私は、彼のこういう結末を予想していたのですよ。欠落した部分のある人間というか、おかしな人間でしたからね。そう言えば、人相にも、疎散眉という不吉な眉が現れていたな…」
「刑務所に入るような人間は、皆、おかしな人間とか半端な人間ばかりですよ」
心得顔をした田村に、和武利が苦笑交じりに語り掛ける。
「田村さん、でしたよね。正確に言えば、清雲は刑務所には入っていないのです。まあ、それは別にして、犯罪に走るような人間は子供の時に決まるとも言いますがね、盗むという行為は、人間社会のルールの枠から外れていても、生物の本性でもあるわけでしょう」
「確かに、盗む、殺すは、動物の本性でしょうな。人間だって、戦争になれば、同じ人間同士で殺し合いまで…」
人間の本性を悪とする年上二人の意見に、二十代が反発する。
「いや、僕は、人を殺したり、人の物を盗むような人間を許せませんね」
「田村よ、善良な人間ばかりだったら、俺達のような警察官は、皆、失業してしまうじゃないかよ」
ポーカーフェースを崩さぬ和武利。犯罪者に同情を示す池永。若者らしい正義感に燃える田村。三人の会話は、まだしばらく終わりそうもない。
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