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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第九章 境界型人格障害の果てに



     

 十月三十日、火曜日、午前六時三十分。坂本律子は、自宅マンションの寝室で、浅い眠りから目覚めた。

 いつもと変わらず、約三十メートル下の幹線道路から、小さな地響きのような鼓動が立ち上ってくる。マンションの九階に構える部屋で、しばし耳を澄ましてみる。今朝の鼓動には、独特の音色が交じっていた。回転する車輪の群れが、アスファルト路面を濡らす雨滴を、はね飛ばしながら、疾走していく音であった。

 一雨ごとに秋の寂しさが増し、次第次第に冬の気配が色濃くなる十一月が、二日後に迫っていた。例年、さらに寒さが増すと唇が荒れ気味になり、乳房が硬く張る感じになることが、ふと思い起こされた。

 寝室からリビングキッチンへ移って、窓外を一望すると、大都会の町並みは灰白色に塗りつぶされ、雨に煙る超高層ビルが巨大な壁のように立ちはだかっている。晴れやかな気分にはならないが、 しっとりと落ち着ける雨の日を、律子は嫌っていなかった。

 しかし、この住居で心置きなく、安らかに憩うことは、もうできないのである。この904号室で起き伏しすること自体が、ストレスになっていた。護身用に買い求め、寝室の片隅に立て掛けた黒い金属バットが、浅い眠りの呼び水になっていた。まして、見知らぬ中年男が果てた和室は、おぞましい記憶をもろに呼び起こす空間でしかなかった。和室とリビングキッチンを仕切る襖は、十月二十二日以来、閉め切ったままである。

 奇禍に遭った際、右脚に負った打撲傷は完全に癒えたが、精神的な疲労は、日を追うごとに募っていた。ふとした時に体が震え、情緒を保つので、精いっぱい。会社からの帰途、交差点の信号待ちで自宅マンションを意識するのが、904号の前で鍵を回してドアを開けるのが、苦痛この上ない。日ごと夜ごと、脳裏に浮かぶ中年男の死に顔は、時として、夢の中までしつこく追い掛けてくる。あの眉間に皺を刻んだ顔が、熟睡を妨げる。眠れぬ長い夜が、気をめいらせる。

 休日を過ごした実家での昼寝で、睡眠不足を補ってみたが、体の芯に居座る虚脱感は、少しも癒されていない。精神的ショックからの疲労が、これほどに深く、重いものとは、事件の前には思い及ばぬことであった。

 彼女は両親と相談の上、自宅マンションを売り払う決意を固めていた。

 

 その日の午後、巣鴨警察署の池永部長刑事は、再び、南青山にある東都データサプライ本社を訪れた。玄関ロビーに置かれた社内電話で資料課を呼び出すと、坂本律子への面会を求めた。今回はコンビの田村を伴わず、単身である。

 間もなく、一階の応接室で律子に対面した池永は、相手の体から漂う、かすかな木の香りを感じ取った。花香系でも、柑橘系でも、動物系でもない。ある種の針葉樹が放つような、樹木系の、目を覚まさせ、心を和ませる香りである。

<女の人でも、木の匂いのする香水をつけるんだなあ>

 芳香を意識しながら、無粋な用件を切り出さねばならぬ職業を疎みつつ、口を開いた。

「お宅に侵入した男の身元と手口がわかりました。今日は、その報告に参った次第でしてね」

 

 坂本律子は、簡単な被疑者像と、侵入手口の説明を受けた。

 窃盗などの常習犯だったと聞かされた人物の、用意周到で陰湿、卑劣な魔の手。自分のあずかり知らぬ建築現場で、事前に鍵を複製されていた側にすれば、気味の悪い男の、許されざる行為であった。

「その男は、坂本さんを知っていたわけでも、付け狙っていたわけでもなかったのですよ」

「………」

 律子は無言で、唇を噛み締めていた。

「マンションをたまたま購入された坂本さんには、全く落ち度はなかった。偶然、鍵の型を図取りされていたわけだから、星回りが悪かっただけなんですよ」

 池永刑事が言葉を選びながら、重ねて慰めてくれた。

「どういう素性の男だったのですか」

「地方出で、東京の名の知れた大学を卒業してますね」

「大学まで出た人が…」

「ええ、大学は出たものの、田舎のほうで、家に引きこもっていた期間が長かったようでしてね。精神病院に入院したこともあるらしい。そういう男がまた東京に出て来たことが、あなたに災難を及ぼしたのです」

「名前を聞かせてもらえませんか」

「………」

 饒舌な刑事が珍しく、ためらいを示し、思案顔を見せた。

「知らないほうが、よいのではないですか」

「なぜでしょう」

「覚えた名前に、後々まで付きまとわれたら、困るでしょう? 名前やら詳しい生い立ちなど、知らないほうが…、そう、気楽ですよ。不幸な事件は、早く忘れるようにしたほうがいい」

「そう…かもしれませんね」

「ニュースにはなりませんよ。記者連中には伏せてありますからね」

 律子は迷った末、池永の助言を甘んじて受け入れた。

 もう一つの助言も、受け入れることにした。すでに警察へ提出済みの被害届けだけで、告訴はしないほうがいい、という内容だった。刑事裁判になれば、証人として地方裁判所に出廷する必要があるらしい。

 律子は決断し、池永の捜査は終わった。警察から検察への送検、検察から裁判所への起訴という段階を踏む、被疑者の処罰は、被害者の律子の意思で行なわれないことになった。

 もう、男から解放されたかった。すでに死んでいる男や親族をむち打つなど、詮ないことにも思われた。裁判に協力することが、負担でもあった。

 マンションの隣人・島田美佐江についても、報告を受けた。

 私立探偵の調査で、生活の乱れが家族に知られてしまい、夫の住む赤羽の家へ連れ戻されていたのだという。

 島田婦人、いや島田夫人の容姿が、律子の脳裏に浮かんだ。厚化粧の夫人と顔を合わせる機会は、二度とないだろう。乱脈交際を家族に暴かれたのは自業自得だろうが、シニア世代なりの、もう一つの青春を過ごした彼女に、悔いはないのかもしれない。

 不幸中の幸いは、事件直後の混乱状態で、島田夫人に会わなかったことだろうか。疑惑の矛先を向けていた人物を目の前にすれば、感情をぶつけ、あらぬ非難さえ口走っていたかもしれない。

「それでは、私はこれで」

 意識を飛ばしていた律子に、池永が優しい口調で告げて、ソファーから腰を上げた。

「わざわざ、ご苦労様でした」

 連れ立って応接室を出、玄関ロビーを進んだ二人は、自動ドアの前で、再び、向かい合った。

 律子は、ふと思い付いて、東池袋のマンションを売り払い、埼玉の実家に居着く意向を客人に告げた。

「そのほうがいいかもしれませんね。何しろ、東京は平均三日に一人が殺され、毎日一、二件の強盗事件が発生する所ですからね」

「一人暮らしの女には、怖い所なのですね」

「そうですよ。静かな所で、ご両親と一緒のほうがいい」

「いろいろと、お世話になりました」

「いえ、いえ」

 少し寂しそうな顔になった池永明夫部長刑事が、眩しそうな目で見詰めた後、深々と一礼し、雨の青山通りに出ていった。

 刑事の背中を見送る律子の耳に、拡声器から鳴り響く若い女の声が届いてきた。

「女性党! 女性党! 女性党でございます! 女性党は、母なる優しさで政治を変えます」

 小型の遊説カーが、ここ一週間ですっかり耳慣れるようになった政党名を連呼しながら、本社ビルの直前を通り過ぎようとしてい る。道路のアスファルトは、朝から、そぼ降る冷雨で、黒く濡れたままである。

「今のままの政治でいいのですか? 変わらなくていいのですか? 諦めていませんか? 諦めていては、何も変わりません。逃げていては、何も変わりません。国会議員の半数を女性が占めることで、政治は変わります。女性党! 女性党! 女性党でございます!」

 ラウドスピーカーから流れる声が、赤坂方面へ向かって、ゆっくり移動していく。

<私も、生活を変えなくてはね>

 坂本律子は背筋を伸ばすと、三階の資料課へ向けて歩み出した。

 

                              

  

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