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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥
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シックな緑色の外壁を見せる十階建てマンションは、JR・板橋駅や都営地下鉄・西巣鴨駅に程近い、明治通り沿いに構えられていた。
池永と田村の両刑事は、扉に細長い防犯窓が付いたエレベーターに乗って、704号室の前に立った。インターホンを押したが、声の応答が返ってこない。
<すっぽかされたのかな>
池永に芽生えた疑心は、内側から押し広げられた玄関ドアがたちまち、打ち消してくれた。背筋を伸ばして、一礼する。
「先程、お電話した巣鴨署の池永と申しますが」
「田村です」
「はい、お待ちしてました。どうぞ、お入り下さい」
小説家の和武利朗なる人物が、微笑をたたえながら招じ入れてくれた。
池永は出会い頭、自分の人品骨柄を一瞬の内に見通されたよう な、奇妙な感覚を覚えていた。
<まさか。まさかね。そんな達人がいるわけはない>
取り越し苦労を否定しつつ、腰を低くしてスリッパを借りた。
案内された南向きのリビングルームからは、池袋方面へ広がっている中・高層ビルの中で、独り青空へ切り立つ超高層ビルが大きく見えている。背後の右手に小さく見晴らせるのは、新宿副都心の超高層ビル群である。
ふと、よく似た眺めを持つマンションの一室が、思い起こされた。三日前、現場検証で訪れた坂本律子宅のリビングキッチンである。あの慌ただしい時間の合間に、ワイドサッシを透かして見渡したのは夜景だったが、居並ぶ建物の趣は実によく似たものだった。
二つの眺めを勘案してみると、訪問中のマンションは、坂本律子が住まう東池袋二丁目と、徒歩十分と離れていないだろう。
「コーヒーでよかったら、すぐ用意しますが」
「いや、構わないで下さい」
ラフな格好をした長髪の主人から親切な申し出を受けたが、地味めのネクタイを締めた坊主刈りの池永は、日本人的な礼式にのっ とって、ひとまず断った。
「私のほうが、飲みたいものですからね。便利な妻という存在がいませんので、コーヒーを入れるのには慣れています」
こういう勧め方をされると、重ねて断るわけにもいかない。
「それでは、遠慮なく、いただきます。あの、失礼ですが、独身ということですか」
「ええ、そういうことです。その理由は、ただ一つ。過去に、相手にしてくれる女性が誰もいなかった、ということですよ」
「ハッ、ハ、ハ、私も同じ理由で、いまだチョンガーでして」
「ハッ、ハッ、そうですか。おいくつで?」
「もうすぐ五十で」
「まさに男盛りじゃないですか。まだまだ、よいことがあるかもしれませんよ」
自然な笑顔を見せる主人は、人を乗せる話法を心得ているらし い。
「いや、もう髪も薄くて、余生の心境ですからね」
「まあ、そう自分を卑下されずに…。五分ほど、待ってて下さい よ」
「さあ、どうぞ。これはブラジルです」
五分後、三人が取り囲むテーブルに、レギュラーコーヒーが用意された。
池永の反対側に腰掛けた和武利は、作家然とした風貌と、鍛え上げた肉体の持ち主である。とりわけ、コーヒーカップを口に運ぶ、労働者のような大きな手が目立つ。
「お電話では、清雲徹君について、話を聞きたいとのことでした ね」
「ええ、実は、知り合いの方には、お気の毒な知らせがありまして…。二十二日の月曜日に、清雲、いや清雲徹さんの遺体が、東池袋二丁目のマンションで発見されたのです」
「え? 死んだのですか、清雲が。しかも、この近くのマンションで」
「ええ、不法侵入した際に、急病死したのです。我々の調べでは、間違いありません。赤の他人の住まいで死んだのは、清雲徹さんです」
「死因は何だったのですか」
「脳出血でして」
「脳梗塞ではなくて、脳出血」
「ええ、脳幹部分からの出血で、発症してから十数時間すぎた朝方、息を引き取られたようでしてね」
「脳幹と言うと、生命の維持を担う脳ですよね」
作家は、達観したように動揺を見せない。傍目には、友人の運命を予知していたようにも、自らの死生観を反映しているようにも受け取れる。
この語り口はソフトだが、知的水準が高そうで、何となく圧倒される人物を前にして、下手なことは口にできない。池永のほうは、やや緊張しながら受け答える。
「そ、そうらしいですね。私も詳しくは知りませんが、ゴホン、監察医の話では、新皮質やらでなく、その脳幹に病変が起こってしまうと突然死につながりやすいとか」
「なるほど」
「九階まで階段を上がったのが、命取りになったようでしてね」
「ん、階段? どうして、エレベーターを使わなかったのだろう。人目をはばかったのかな」
「いや、たまたま故障していたのですよ。マンションに侵入しようとしたのが日曜日の夜で、その時間帯には、エレベーターの修理が行なわれていた。私も同じように、一番上の九階まで階段で上がってみたのですがね」
「それは、それは」
「運動不足の身には、きつかったですな、これが。五十代の人には、もっと負担が大きかったのでしょう。合い鍵を使って、狙い定めた部屋に入るには入ったが、何も物色せずに倒れてしまった。月曜日の夜、三日ぶりに帰って来た住人に発見された時には、もう手遅れだったのです」
「そう言えば、四十代半ばから、時々、手足が痺れると訴えていましたね。痺れは、脳卒中の前ぶれの一つですよね」
「そうなんでしょうね。ゴホン」
「まあ、彼は普段から、脳の血管に異常を持っていたわけですからね」
「そういう持病があれば、なおさら…」
「ところで、とんでもない迷惑を被ったのは、どういう家庭です か」
「被害者は、一人住まいの女性でしてね」
「それはまた、清雲らしい。女性が嫌がっている仕草を、自分に好意を持っている仕草だと錯覚してしまうことが、何度もありましたからね」
「今回に限っては、女性との面識はなかったようですがね」
「しかし、その不幸な女性の合い鍵を、どうやって入手したのでしょうかね」
「これに関しては、まさに用意周到と言っていいでしょう。何カ月も前から合い鍵を作っておき、使う機会を見計らって、留守宅に侵入するという手口ですよ」
「ほう。その鍵を、どうやって作ることができたのか、もう少し具体的に…」
「合い鍵は、建築中のマンションに忍び込んでですね、写し取ってきた型を基にして、作っておいたのですよ」
「ほ~お。その型というのは、鍵の図面からでも写してきたのですか」
「いや、建築現場に置いてある、現物の鍵からでしょうな」
「なるほど」
「そうして、前々から合い鍵を準備しておいて、マンションが完成し、入居者が引っ越してくるのを待った。こうなれば、空き巣に入るのは簡単ですよ」
「彼は手先が器用でしたからね、細かい細工はお手の物だ。そう言えば、上京してきてから、アルバイトで建築現場のガードマンをやっていたはずだ」
「ガードマンを! 内部の人間が悪さをするのでは、こりゃ、防ぎようがない」
田村と顔を見合わせた池永に、和武利が質問を重ねる。
「その手口は、清雲のオリジナルですか」
「電話で署の盗犯係に確認したところでは、数年前にいましたね。横浜に住んでいた無職の男でして。同じ手口で十数件、被害総額六千万円の空き巣を繰り返し、懲役四年半の実刑判決を受けて、服役中の身ですよ。しかし、本人がガードマンをしながら、独自に考え付いた線もありますな」
「そうですか」
「和武利さん。失礼ですが、よく、そんな人間とお付き合いを…」
「ええ、よく“大変な友達を持ったね”と周りからも言われ、実際、迷惑も掛けられたのですがね。人懐っこい面もあって頼ってくるのを、冷たく突き放すわけにもいきませんでね。高校の同級生でもあったし、お互いに気が合うところもあった」
男気のありそうな和武利の性格からして、人の長所を評価するように、努めていたのかもしれない。
「わかる気もします。我々刑事の中にも、自分が捕まえた人間の面倒を見続ける者もいるわけで…」
「彼は、生きる知恵は中学生並みだったのですが、一応、大卒の学歴とですね、それなりの知識は持っていたのです。東京六大学の法学部卒業ですからね。まあ、ほとんど登校しなかったし、在学中に自殺未遂をやらかしましたけどね」
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