健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾

∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第九章 境界型人格障害の果てに



     

 午後、『捜索差押の許可状』、いわゆる家宅捜索のための令状を懐にした池永部長刑事は、田村刑事巡査を同道して、巣鴨警察署の尖塔を後にした。

 予定では、出先から車で移動してくる中堅の鑑識係と、現地の小茂根一丁目で合流することになっている。

 地下鉄・小竹向原駅のホームから、長い階段を伝って秋日和の続く地上へ出ると、閑静で緑豊かな駅前スペースが広がり、洒落た遊歩道がしつらえられていた。池永と田村は、環七通りに向けて、焦げ茶色のレンガが敷き詰められた緑道に踏み入れる。

 左右に続く、高さ二メートル五十センチほどの常緑樹の生け垣。中央の所々に配されたフラワーボックス。ふんだんな草木が、目にも心にも優しい。口髭を蓄え、小馬の尻尾をぶら下げた五十男が、俯き加減で通り過ぎていった。途中で見掛けたベンチでは、脇に杖を立て掛けた老婦が、小休止していた。

 五分歩くと、環七通りを行き交う車両の群れが見えてきた。殺風景な大通りに出る手前で、アスファルト舗装の細い通りへ折れる。二ブロックを過ぎると、二人は目当ての建物に行き着き、車で先回りしていた制服姿の鑑識係と挨拶を交わす。

「やあ、待たせたかな?」

「いや、私も二、三分前に着いたばかりですよ」

「車は?」

「近くの公園のそばに、停めてありますよ」

 三人が立ち合ったのは、四階建てのビルの前だった。築十五年内外で、間口三間ほどに二つの玄関が設けられている。左側の『石 田』という表札が掲げられ、見栄えがするほうの玄関口に進むと、池永がチャイムを押し鳴らした。

 家人が応対に出てくるのを待ちながら、周囲を見回す。石田ビルの右隣には、扉を閉ざしたスナック。左隣には、営業中の中華料理店。通りの先には、コンビニや銭湯が軒を連ねている。道を挟んで、石田ビルの真向かいにある、金網フェンスで仕切られた青空駐車場は、環七通り側に表口を構えるファミリーレストランの専用のようだ。

「どちらさんで」

 振り返った池永の目に、小さく開いたドアの内側から、こちらを窺う老人が映った。白髪で、頬骨の目立つ彼の顔は、訪問者の肩ぐらいの位置にあった。

 家宅捜索の口上を伝えると、老いた主人は目をしょぼつかせて、眩しそうに眉を寄せると、乾いた声で受けた。

「合い鍵を持ってくるから、しばらく待ってて下さいよ」

 引っ込んだ老主人には、“しばらく”どころではない間、待たされた。手持ちぶさたで火を付けた、田村と鑑識係の煙草が吸い殻になった時、待ち人が鍵の束をジャラジャラ鳴らしながら、戸外に出てきた。

 隠居の身で、自家所有のアパート管理を受け持っているらしい。

「どうぞ、こちらへ」

 案内に従って、二人の刑事と一人の鑑識係は、もう一つの玄関から石田ビルに足を入れた。

 手前に長方形の沓脱ぎが設けられ、男物や女物の革靴、スニーカー、サンダルが取り散らかっている。上がり口にも、思い思いの色や形をしたスリッパが乱雑に並んでいる。すぐ正面から、木製の階段が急な傾斜を作り、右手には、板敷きの廊下に沿って白いドアが三つ並んでいる。

「清雲さんに貸しているのは、二階の5号室でしてね…」

「それじゃ、おじゃまさせてもらいます」

 老主人の小さな背中の先に、明かり窓を見上げながら、踏み段を靴下のまま上った。

 上がり切ると、すぐ左手にトイレのドアがあり、真ん前のガラス窓の半分開かれた空間を通して、裏手の一軒家の家屋と庭が見下ろされる。逆方向に体を右回しすると、細長い廊下を囲んで、四つに並ぶ白いドアが認められた。

 どこにも、さらに上の階へと通じる階段は見当たらない。池永に、最前、石田家の玄関先で長く待たされた理由が読めた。

 二つある玄関、敷地の大きさ、建物内の構造を考え合わせれば、石田ビルは自宅とアパートを併設したもので、一、二階が玄関とトイレ共用の貸室で、三、四階が大家一家の住居になっているのだろう。老主人が合い鍵を求めて、自家用の戸口と上階を往復するのは、アパート側と壁で仕切られた、狭くて、長い階段を上り下りする手間仕事だったわけである。

 その因縁の合い鍵を直ちに使うことに、老主人は迷いを示した。二階の廊下の突き当たり、一階の沓脱ぎの真上に位置する部屋の前に立って、彼は何度もドアをノックした。

「コーン、コン、コン…、清雲さん、コン、コン、居ないのかね? コーン、コン、コン…」

 硬い音がやむと、ビルの中は間借り人がすべて出払っているかのように、静まり返った。5号室のドアの向こう側で人の動く気配も、感じられない。

 一呼吸つくと、小柄な老主人が池永を振り仰ぎ、目顔で指示を待つ。

「お願いしますよ、御主人」

 池永は頭を下げて、開錠を促した。

 無言で頷いた老主人によって、鍵の束の中から、小指の大きさにも満たない一つが選び出され、鍵穴に差し込まれる。手応えのある金属音が、小さく響く。

 老主人に続いて、池永も、白いドアの上に『5』と表示された部屋の中へ踏み込んだ。

 扉の内部は、他人の住居や財産やプライバシーを侵すことを、平然として恥じない男が守り抜こうとしていた、小さな私的領域だった。

 池永は、ざっと無人の部屋を見回す。

「えっ」

 一瞬、目を見張った。若い女性が、魅力的な笑顔を投げ掛けてくるではないか。少し妙な娘で、身動き一つしない。

 瞬きを繰り返すと、妙なのは、元来の乱視交じりの近視に、老視まで加わった自分の裸眼、と気取れたのは幸いだった。

 巨乳を目立たせるオレンジ色のビキニを着た娘は、壁のポスターの中で、ほほ笑んでいる。

 娘の大判ポスターと風景写真のカレンダーが吊されているのは、灰色のカーペットが敷かれた四畳。池永が突っ立っているのは、板敷きの一畳ほどの台所。無理やり設計したような、物置のような、変形した間取りの角部屋には、浴室はもちろん、押入れさえも見当たらない。二面のガラス窓に挟まれたコーナーに、洗濯物が吊り下げられ、その下に寝具一式が畳まれている。

 狭いスペースには、男の、すえた体臭も満ちている。不快な嗅覚刺激に閉口して、ガラス窓の一つを開け放ったのは、池永の背後を擦り抜けた田村だった。

 環七通り側から、喧噪とともに流れ込んだ外気で、人心地がついたベテラン刑事は、老主人に質す。

「大家さん、店子は、どんな暮らしぶりでしたかね」

「そうさねえ…。朝、出掛けたり、出掛けなかったり、不規則な生活をしている人でしたよ。ここしばらく、清雲さんの姿を見掛けないと思っていたら、とんだ大事になってたのだなあ」

 額の皺を際立たせ、痩せた肩を落として、しんみりと語る老主人は、自分の子供の世代に当たる間借り人の悪い知らせに、想像以上のショックを受けている様子である。たぶん、大家と店子との関係以上に親しかったわけではないだろう。元来、世話好きの人情家なのだろう。

「どこで人生のボタンを掛け違えちまったのかなあ、あの人は…。田舎から出て来た人には、東京の水が合わなかったのですかねえ」

<あなたの知らないずっと前から、ひょっとすると、生まれた時から、掛け違っていたのかもしれませんな>

 心に浮かんだ異見を胸に納めて、池永はまるで別のことを口にする。

「ここは我々に任せて、ひとまず引き取ってもらっても、けっこうですよ」

「それじゃ、帰る時には一声、掛けて下さいよ」

 老主人が廊下へ退き、スリッパの音を響かせて去ると、鑑識係の入室するスペースが、ようやく確保された。

 

前のページへ戻ります ページのトップへ戻ります 次のページへ進みます  

二百七十三万…の目次へ戻ります ページのトップへ戻ります ホームへ戻ります


Copyright 2003~ kenkosozojuku Japan, Inc. All rights reserved.