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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第一章 904号室の異常死体



     

 黒く分厚い鉄扉が、坂本律子の行く手に立ち塞がっている。

 マンション手前の交差点から、取り急いで自室へと辿り着いた が、玄関ドアを前にして考えあぐねる。少なからず臆してもいる。

 室内の明かりは、零れ出ていない。金属製の面格子で外廊下から防護された寝室内は、型板ガラスと厚手のカーテンを隔てて暗く、静まっている。電気が灯っているのは、バルコニーに面した奥の二部屋、リビングキッチンと和室だけらしい。

 ドアを開ける決心は、まだ付かない。危険人物が入り込んでいる、という最悪の事態が頭に過って、不安をいや増す。外へ引き返して、電話ボックスから部屋の電話を鳴らし、侵入者の有無を確かめたほうがよいのでは……。

 幸い、悲観的な予測を払い除けるのに十分な材料を、彼女は持ち合わせていた。建物の共同玄関が二十四時間、ピッキング不可能なオートロックで施錠されているのは、何より心強い。小一時間前までは、管理員も人の出入りに目を配っていただろう。楽観的に考えれば、単に電灯を消し忘れただけかもしれないし、実家には合い鍵を置いてあるから、母親か弟達の誰かが急用で訪ねてきたのかもしれない。先例はなくても、可能性はある。

 律子は漠然とした不安を追い払い、ようやく覚悟を決めた。自分の部屋に入るのに、びびる必要はない。入らなければ、何もわからない。強まっていく冷え込みが、背中を後押しした。

 ノブを握り、回転させ、手前に引き寄せる。ドアは開かない。

<考えすぎかしら>

 安堵の一息を吐くと、再びハンドバッグをまさぐり、キーホルダーを取り出す。円筒形の錠前は、ノブの上に取り付けられている。その中心部にある横一文字の裂け目、長さ一センチほどの鍵穴に、先刻と同じキーを差し入れ、時計回りに四十五度回した。指先に、錠前内部のシリンダーが回転する手応えを感じ、耳に、錠前と接続している金属製の 閂 が動く小さな音を聞いた。

 二LDK、約十六坪の住居への進路が開かれた。

 

 内玄関には、奥向きの明かりが淡く射し込んで、薄暗くなっていた。玄関ドアのシリンダー錠を内側からロックし、スイッチ操作で内玄関と中廊下に点灯する。明るんだ瞬間、塩ビタイル敷きの三和土に落とした目が、置かれている異物に釘付けとなった。

 紳士靴…。女物のハイヒールやサンダルの隣に、きちんと揃えて並べられた一足の黒い革靴…。一人暮らしの生活空間に、断りもなく割り込んでいる男物が、重苦しい気分を一挙に呼び込んだ。

 楽観的な推定の一つは、たちまち崩れ落ちた。唯一つ残ったのは、弟達か父親が上り込んでいること。

<まさか、父さんが来るはずはないし>

 律子の頭の隅に、脳梗塞の後遺症で会話も身のこなしも、ままならない老父の容姿が浮かび、すぐ消え去る。

 廊下の向こうに、ドアを開け放っているリビングキッチンの一部が見渡せるが、人影は認められない。

「誰? 誰なの?」

 不吉な暗示を振り払うように、三和土に突っ立ったまま、声を出して誰何した。

 反応はない。待ち構えても、返事はもちろん、物音一つ聞こえてこない。奥の部屋は、気味悪く静まり返っている。

 足元を見回すと、入室している人間が、来客用のスリッパを使った形跡はなかった。常用しているスリッパに履き替え、五感を張り詰め、カーペット敷きの廊下に踏み入る。もう引き返すつもりはない。すべてを詳らかにしなければならない。

「忠 なの? 実 なの? 誰?」

 問い質す声が尖った。口元をぎゅうっと引き締め、注意深く一歩、一歩を進めていく。右手の寝室、左手の洗面室とトイレのドアは、いつものとおりに閉まっている。

 リビングキッチンに至った。蛍光灯がついていることを措いて、変わった形跡は外にない。振り返って、対面カウンター越しに見通す台所にも、別状はなさそうだ。

 ただし、右手に構える和室との間を仕切る両開きの襖が、閉じられている。合わせ目はぴっちりしておらず、わずかな透き間から細長く区切られた光線が流れ出し、置き炬燵の一部と青畳が覗き見える。

 襖の片側を開け放して出掛けるのが、律子の常だ。

 留守宅に灯された電灯…。玄関に脱ぎ置かれた紳士靴…。建具で塞がれた和室…。異状はすべて動かしがたい事実で、もう、自分以外の人間の作為を否定することはできない。不気味な沈黙を守っている相手が、次の間に潜んでいる可能性も打ち消すことはできな い。

 律子は、左胸奥に締め付けられる感覚を覚えた。喉も息苦しい。焦心が募っていく。

 また考えあぐねたら、怯む気持ちが強まるばかりだったろう。しかし、素早く行動するほうを選んだ。正体を突き止めなければならない。相手は、血を分けた弟かもしれないのだ。

 ハンドバッグと数日分の新聞類をダイニングテーブルに置くと、自らを鼓舞して襖の引き手に指を掛けた。

 

 

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