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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第八章 捜査線上に浮かんだ男



     

 夜の遠征は、画餅に帰した。身元特定の見込み捜査は、完全な空振りに終わったのだ。武蔵野線の高架橋に沿う道を引き返す池永部長刑事は、重い徒労感を両肩に感じていた。

「ガターン、ガターン、ガターン」

 遠くのほうで、電車の通過音が響いている。その少し間が抜けたような軽い音が、次第次第に小さくなっていく。電車は荒川を越えた西の街へ向かって遠ざかり、池永達は東の武蔵浦和駅を目指して歩いていく。

<無能だなあ、俺は。二流未満の刑事だ。取り柄のない、おじさんで、何もない人間だしな>

 意気込んでいた往路と一変して、心の内で自らを責め立てる池永に、隣を行く田村が話し掛けてきた。

「あの主人、随分、怒ってましたね」

 若い刑事巡査もまた、自責の念に駆られているらしかった。

「そら、怒るだろうよ」

「あんなに怒らなくてもいいのにな。人間が小さいのですかね」

 ベテラン刑事は、早合点を反省した。

「田村、あれはやりすぎだったぞ。こっちも、冷や冷やしながら聞いていたんだ。犯人扱いされたやら、威圧的言動があったやらと損害賠償を請求されたとしても、文句は言えないだろうが」

「民事訴訟まで起こしますかね」

 若い刑事の声が、真剣味を帯びた。

「まあ、今回は大丈夫だろうが、今後はもっと注意を払うべきだよ。こういうストレスは髪にも悪いんだ」

 池永は、右手で坊主頭を労るように撫でながら、足を進める。右側に続く高架橋が、もう間近に迫ってきている。

「主任があっさり引き下がったので、代わりに張り切ったのですけどね」

「聞き方を考えろよ。もっと工夫しろよ。マル被の取り調べじゃないのに、ストレートすぎるし、向きになりすぎる。あれでは、心を開いてくれる人間はいない」

「すみません。だけど、あの主人、雰囲気は似ていましたね、写真の男と」

 謝罪の言葉とは裏腹に、あっけらかんとした田村は、あまり反省している様子ではない。もどかしくはあるが、お茶汲み三年、刑事七年で一人前なのである。

「う~ん、確かに似てたけどな」

「本当にプリティーガールを知らないのですかね」

「いや、ランパブを知らないことはないだろう。ホステスに名刺を渡しているのだしな。家族の手前、白を切るしかなかったのじゃないか」

「あの久美子ってホステスに、ガセねたをつかまされたわけじゃなかったのか。おとなしい顔をして、おちょくってくれたのかと思いましたよ」

「それは、ないだろう。嘘を吐いているのは、玉垣のほうだな。久美子のほうは、間違っただけだよ」

「そうですね」

「世の中には、自分に似た顔が三人はいると言うじゃないか」

「ええ、聞いたことありますね」

「記憶やら印象に基づくだな、人の証言には、どうしても曖昧さが付きまとうもんだしな。そもそも、客との付き合いは、お天道様の下でなく薄暗い地下室でのことだ。無理はないよ、間違っても」

「主任は、美人だと、すぐ信じてしまう人だからなあ」

 他人を単純に信じやすい上司と、容易に信用しようとしない部 下。何かと序列意識が強く、上下関係にうるさい警察という名の階級社会の中にあって、年の差と性格の違いを越えて、気が合うコンビなのである。

 二人が行く住宅街の先に、埼京線の高架橋が見えてきた。低い夜空を区切って、南北に連なるコンクリート敷設物は、二つの路線が交わる武蔵浦和駅が近いことを教えている。

「それにしても、こんな無駄足を踏まなくてもよかったんだよな。久美子から名刺を預かって、指紋を照合していれば、別人とわかっていたはずだ」

「そうでしょうけど、こうは考えられませんかね。写真の男が玉垣氏になりすまして、彼の名刺を渡していたのだ、とは」

「どういう意味だろう」

「その男は、アパート探しで玉垣不動産を訪ねたことがあって、彼の名刺をもらっていた。その他人の名刺をですね、久美子に渡した。つまり、プリティーガールの常連だったのは、玉垣氏ではなく写真の男だったということですよ」

「可能性はあるね。そして、田村の説が正しければ、玉垣も嘘を吐いていないことになるな。名刺を調べれば、男と玉垣、二人分の指紋が見付かることになるな」

「ええ、そういうこと」

「まあ、いろいろと考えられるが、わかっているのは、捜査が一からやり直しということだけだな」

「残念ながら、そういうこと」

 道の反対側から進んでくる、若い娘の二人連れを認めた池永達 は、口をつぐんだ。

 彼女達はメーク、服装とも派手で、一人の口元では、煙草の小さな赤い光が明滅している。

「今時の娘は、みんな、背が高いんだなあ」

 擦れ違った後、流し目を送っていた池永が浮ついた声を上げ、田村がクールな声で興を覚ます。

「今のは、厚底の靴で水増ししていましたよ」

「何だ、上げ底だったのか」

 

 住宅街を右に折れて、武蔵野線の高架橋を潜る小道を抜け出る と、ネオンの輝く駅前に出た。見覚えのあるロータリーには、相変わらず客待ちのタクシーが列を作っている。

 武蔵浦和駅の建物を見上げながら歩道を進む池永は、高い所にあるプラットホームから抜け出た、流線型の車体を目に止めた。その白い車体は、猛スピードで疾走し、あっという間に、東京方面の夜空の下に消え去った。

 彼が見送ったのは、埼京線の外側軌道を走る新幹線の姿であっ た。

 新潟、仙台、秋田、長野、あるいは大阪、福岡。日本全国の中核都市を高速で結ぶ新幹線に乗車すれば、車窓からの風景をゆっくり味わい、旅情を募らせる間もなく、旅行者やビジネスマンを目的地に運んでくれる。何しろ、最新型車両なら最高時速三百キロで駆け抜けているのである。

 見方を少し変えれば、短時間で、犯罪に走るような人間を東京に吸い寄せ、雑踏に紛れ込ませてしまう。

 無論、新幹線などの鉄路に頼らず、四通八達した高速道路や空路、海路を利用して、首都圏に集まってくる要注意人物もいるだろう。

 身元を追っている写真の男。事件の被疑者で、すでに死亡した男も、北海道の地方都市から、東京に立ち寄った滞京者であったのかもしれない。鹿児島県の海辺の町から、首都圏に移ってきたばかりの流入者であったのかもしれない。交通の利便化が、犯罪の広域化をもたらしている時世なのだ。

<とにかく、急ぐことだ>

 ある決意を固めた池永は、駅の階段を確かな足取りで上っていった。

 

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