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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第八章 捜査線上に浮かんだ男



     

 東京副都心を経由し、荒川を越えて埼玉県へと延びる埼京線。東京都西部を起点にして埼玉県内を横断し、江戸川を跨いで千葉県西北部へと通じる環状の武蔵野線。首都圏を南北、東西に結ぶ二つのJR線は、埼玉県南東部の武蔵浦和駅で接続している。

 その武蔵浦和駅へ向かうべく、池永と田村の刑事コンビは、ランジェリーパブの事務所を後にして、池袋駅へ通じる夜の明治通りを歩いていた。

 ライトが切れ目なく交錯している車道を挟んで、デパート、家電量販店、銀行、ファストフード店、パチンコ屋などが立ち並ぶ目抜き通りだけに、夜の暗がりを意識せずにすむ。溢れるような照明に、四方八方を取り囲まれているからだ。逆に、歩道を行き交い、あるいは佇んでいる人間を意識せずにはすまされない。溢れるような人々に、前後左右を取り囲まれているからだ。

 広い舗装道路を埋め尽くし、直線的に擦れ違っている人々の流 れ。それぞれ逆方向に移動している二つの流れに向かって、右のビルから、左の交差点から、斜めの駅構内から、次々と組み入ったり、突っ切ったりする人々の群れ。自分のペースで歩けないばかりか、ぼんやり、立ち止まったり、うっかり、よろめいたりすれば、たちまち接触事故を起こしたり、罵声を浴びせられたりしかねない。

 二人が明治通りを右に折れ、池袋駅地下の北口通路に入っても、ひどい混雑が続いていた。人の波を縫って乗車券を求め、自動改札口を抜け、埼京線の下り電車が発着する四番線ホームに上がって も、ひどい混雑は変わらなかった。

 二分と待たず、百キロを超すパンタグラフを屋根に飾った十両編成電車が、車輪とレールの軋み合う音を響かせながら、ステンレス製の車体を滑り込ませてきた。3号車のドア近くに乗り込むと、すぐに発車を告げるベルが鳴り響いた。車内ももちろん、仕事帰りのビジネスマンや、派手な服装の若い女性などで満員。そこここで乗客同士が交わす会話が寄り集まり、意味を持たぬ一つの騒めきに満たされている。

 板橋駅、十条駅と過ぎても、相も変わらぬ鮨詰め状態だったが、複数の路線が乗り入れている赤羽駅に到着すると、大勢が降車口に殺到して去り、自由に身動きできるスペースを確保できた。

 大きく深呼吸をした池永は、七人掛けシートの前に移って、吊り皮をつかむ。彼の右奥に回って肩を並べた田村は、スポーツ新聞を広げる。

 彼等を乗せた電車は、下りの階段口へ進む長い行列と、上り電車を待つ幾多の短い行列とで満杯のプラットホームを離れ、高架線上を滑らかに加速してゆく。『北の商都』と言われる赤羽の饒舌な灯が、流れ去ってゆく。間もなく潜ったトンネルを一瞬にして抜け出ると、車窓から望む夜景の中に、工場や倉庫の明かりやネオンサインが目立つようになった。

 新河岸川を過ぎ、二つの駅に停発車した後、荒川に架かる長い鉄橋を越えて埼玉県に入ると、左右の眺めがさらに変化した。

 線路近くまで建物が密集していた東京都内と打って変わって、青黒い闇が遠く、広く見渡せ、人工の光は地味めに、まばらになってきた。時折、目に付く光は、野球場やサッカー場、あるいはゴルフ練習場の照明灯である。

 池永が座席を確保できないまま、瞬く間に飛び去ってゆき、次々に飛び込んでくる夜の風景に目を遊ばせ、関東平野の地平線の広さを実感している間に、十両編成の電車は三つの駅を通過し、目指す降車駅の細長いプラットホームに進入しようしている。

 隣に立っている田村を振り向くと、夕刊スポーツ新聞のプロレス紙面に読みふけっている。

「おい、降りるぞ」

「はい」

 “活字中毒”を促して、他の数人とともに車外へ出ると、線路上に渡された駅舎へ向かって歩き出す。傍らでは、乗ってきた電車の明るい窓が4号車、5号車、6号車……10号車と、逆方向ヘ次々に流れ去ってゆく。

「楽しみですね」

「何が? 玉 垣泰弘に会うのが、そんなに楽しみなのか?」

「いや、違いますよ。小川直也とレノックス・ルイスの戦いが、実現するかもしれないのですよ」

「え、本当かよ? 異種格闘技戦ってことかよ」

「ええ、プロレスとボクシングの。楽しみだなあ」

 会話を交わしながらホームの階段を上り、自動改札機に乗車券を預けた。

 一店舗のキヨスクと、数台の缶飲料自動販売機が置かれ、数十枚のポスターが両側の壁に貼られた連絡通路を右に進み、次なる階段を下りると、武蔵浦和の駅頭に出た。

 池永は、初めて訪れた街を見回してみた。半円形を描いて左右に続く歩道に沿って、客待ちのタクシーや一時駐車中の自家用車が、ずらりと並んでいる。ロータリーの周りには、銀行などの小ぶりのビルが軒を連ね、サラ金の派手なネオンが競い合うように輝いている。左の歩道沿いに立ち並ぶビルには、書店、レコード店、レストラン、喫茶店、ハンバーガーショップなど、営業中の店の灯が隣り合い、重なり合っていて、客足も悪くないようだ。

「右ですね、玉垣家は」

 ポケット版の区分地図を広げていた田村が、街の繁華街と逆方向に動き出し、池永も駅前を後にした。

 歩道に沿った一角を足早に過ぎると、その裏手へと通じる小道が用意されていた。右折して入り込んだ小道は薄暗く、地上高くに架け渡されたコンクリート製の敷設物が、間近に見上げられた。協力し合って支えているコンクリート製の太い支台は、高さ六メートルほどだろうか。

「これは何だ」

 池永は仰ぎ見ながら、先を行く田村の後ろ姿に問うた。

「武蔵野線の高架橋ですよ」

「武蔵野線?」

「船橋とか府中の方へつながっているJR線じゃないですか。それが上を走っているんですよ」

「圧迫されるよなあ」

 高架鉄道の真下に設けられた歩行者専用道を潜り抜けると、少し広い道が二手に分かれていた。一つは、埼京線に沿って北の方角へ続く道。もう一つは、武蔵野線に沿って西の方角へ進む道。

 迷う素振りを見せない田村に先導され、閑静な住宅街を西へと進む。所々に田園の面影が残されていて、電信柱に付設された街灯も遠い間隔で、まばらにしか立っていない。夜の闇が色濃くなった道で、一台の軽乗用車が尾灯を光らせて、ゆっくり通り過ぎると、人の気配はない。

 逆に、北東の空に浮かんでいる月齢十~十二日頃の月を中心に、冴え渡った夜空が賑やかである。都内に比べると、星の数が明らかに多く、地上の空気も冷たく、酒気は完全に消えていた。

「主任」

「何だい」

 呼び掛けに答えながら、池永は前を向いて歩き続けた。

「大事件でも、宿直でもないのに、こんなに遅くまで働かなくてはいけないのですかね」

 田村の不平が、耳に届いた。

「早く帰って、若い者同士で遊びたいのか」

「友達と遊びたいと言うより、自分の時間も大切にしたいだけなんですよ。仕事は仕事、プライベートはプライベート。きっちり分けるべきじゃないですかね」

「おい、田村よ」

 とうに若気にも、若髪にも縁の薄くなったベテランが、意気がる若手に視線を当てる。

「週二日は休んでいるんだろう。これぐらいで文句を言うなよ。昔は、お茶汲み三年、刑事七年で一人前と言ったもんなんだ」

「何ですか、それ」

 隣を行く田村の声が、反発を露にした。

「刑事が一人前になるには、十年かかるってことだよ。苦労しなきゃ、本当の刑事になれないってことだよ。近頃は競争率が高くなって、優秀な人材が集まるとか言われているがな、入ってくるのはサラリーマンみたいな奴ばかりだ」

 買い言葉が、早口に尖った。

「わかりましたから、そんなに熱くならないで下さいよ。その言葉、忘れないようにしますから」

「うん、しっかり肝に銘じておいてくれよ」

 先に自己主張を抑えた田村が、街灯の下で歩みを止め、区分地図に目を落とす。

「もう少し行くと、国道十七号線から延びてくる通りに出ます。その通りに面した中学校の近くに、玉垣家はありますね」

 手振りを交えた案内に従って、再び先を急ぐ。道路は、左側に 延々と構える高架橋から、次第に離れていく。

「まあ、田村の言うことも、わからんでもないよ。警察官全体がサラリーマン化してきたからな。若手が影響されるのも仕方ないかもしれない」

「………」

「若手と言えば、昇進にこだわらない連中が多くなったという噂だが、どうなんだい、田村は」

「僕も、ほどほどに昇進できたら、それでいいですよ。だけど、僕だって、やる時はガツンとやりますよ。命を落とすこともあるハードな職業に、覚悟して就いたわけですからね」

「その調子だよ」

 部下の肩をポンと叩くと、池永は黙り込んで、彼方へと思いを飛ばす。

 かかとの磨り減った革靴のややドタドタした足音と、まだ新しい革靴のキビキビした足音が、混じり合って街灯の下に響く。

  

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