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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥
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「う~ん、似てるかもしれないな~。時々、来てるような気がしないでも……」
内線電話を通じて、同じ地階で営業するランジェリーパブから最初に呼び出されたボーイが、応接テーブルに置かれた顔写真に目を落として、口の中で呟いている。
「お客さんに、似ているのかい」
池永が声を掛けると、ボーイが二十代前半の、小生意気そうな面を上げた。
「そう」
「どこが似てるの」
「顔の感じが…」
「もっと具体的に言うと?」
「う~ん、この目のあたりの感じとか、ごつい顔の形…。それからヘアースタイル。こんな感じなんっすよ」
「確かだろうね」
念を押すと、手元の顔写真と筋交いの池永に目線を上げ下げさせていたボーイが、言を左右にし、三白眼を泳がせる。
「そう突っ込まれると困るよな~。態度のでかい親父、いや、お客さんで、目立ってるんっすよ。感じが似てることは似てるんっすよ、その男に」
「本当だろうね。今一、曖昧だな~」
さらに念を押すと、ボーイが表情をあからさまに曇らせ、早口に言う。
「そんなに疑うなら、久美子に聞いたらいいっすよ。その男は、久美子目当てに来てるんだから」
池永は、ボーイの隣で三本目の煙草を吹かしているオーナーに、視線を移した。
「社長、その久美子という子を、呼んでもらうわけにはいかないだろうか」
「おい! 久美子は今、フロアか? 控え室か?」
相手は池永と視線を合わせず、若いボーイに向かって、噛み付くように荒い語気で尋ねた。
「控え室じゃないかな」
「呼んでこい!」
オーナーが、部下に二重顎をしゃくった。
「あ、はい」
畏まって受けた黒服のボーイが、小動物のように慌ててソファーから立ち去った。
トップダウンの管理方式。ワンマンコントロールの経営。和をもって貴しとしない暴君。専制的、高圧的、威圧的な態度でしか従業員を統率できない小人物。連想を起こさせてくれたオーナーは、落ち着けない様子で、吸い掛けの煙草をくわえ直した。
見守る池永のほうは、節煙を忠告したい気持ちを重ねて抑えていた。これ以上、感情家と思われる相手を刺激しては、煙のように頼りない信頼関係が、たちまち消えてしまいかねない。
事務室に気まずい沈黙が満ち、卓上ラジオから流れ出ている音楽が聞き取れた。ギターで奏でるリズムに乗せて、哀感を込めた英語で、嗄れた声の男が歌っている。
「Layla,you got me on my knees♪ Layla,I’m beggin’,darlin’,please♪ ’Layla,」
歌詞の意味は不明。女の名前らしきものを連呼しているのかもしれない。
木製ドアをノックする乾いた音が聴覚に届き、卓上ラジオから届いていたギターの弾き語りが意識から遠退く。
池永が背後に首を回すと、事務室に滑り込んだ娘が一礼してい た。『久美子』と呼ばれるホステスなのだろう。顔も姿も行儀も端正で、絵の題材にも、目の保養にも、うってつけの美女である。
ただ、暗に予期していたようなランジェリー姿での登場ではな く、白いバスローブで魅力的な胸と腰と脚とを隠していたのは、やや残念ではあったが。
「ここ、ここ。ここに座って、刑事さんの人探しに協力してやってくれや」
オーナーが隣席のクッションを左手で叩きつつ、顔色を和らげた優しい口調で招くと、端正な娘が軽く会釈して応じる。
「失礼しま~す」
不可解。全く不可解。池永の理解を超えているのは、急に機嫌を直したオーナーの精神構造。ボーイに命じた時の威圧的な態度は、どこに消え失せたのだろうか。
娘がテーブルの筋交いに、タオル地の裾を合わせながら腰を落ち着かせ、両脚を斜めに揃えるのを見届けると、池永はオーナーの真意の詮索を後回しにして、質問を切り出す。
「久美子さん、ですよね」
「ええ、久美子です」
「フロア係の話では、これから、お見せする写真に似た男が、あなた目当てに通って来ているということでしたがね。ちょっと確認してもらえませんかね」
我知らず、池永の口ぶりも、先のボーイに対した時と一変して、敬意表現交じりになっていた。
人の七難は見ゆれど我が十難は見えず、などの教訓が言い伝えられているところだが、小生意気で青臭いボーイと入れ替わった娘 が、その場の刺々しかった空気を一瞬にして和らげ、灰色の壁に囲まれた部屋を華やかせる魅力を備えていたのも、また事実である。
鼻筋の通る、上品な面立ち。スポーツジムで鍛えているかのような、非の打ち所のないプロポーション。先刻の酒席で池永に侍った『かおる』と『みなみ』の二人が持っていないものを三つ、身に着けている。一つは、万人が認める美人顔。一つは、控え目な仕草から漂う知性。もう一つは、大人の女性の雰囲気。追加料金を払って指名する男性客がいるのも、十二分に納得できる。
「ええ、わかりました」
首を縦に振った久美子が、田村の手でテーブルの手前に押し進められた顔写真に伏せた目を、長い睫の下で瞬かせた。
「この人、いつも指名して下さるお客さんと、瓜二つですね」
小顔を上げた久美子が、池永を直視してから、小気味よいほどに歯切れよく言い切ってくれた。
「確かでしょうな」
「ええ、確かです」
念を押しても、久美子はボーイと違って、落ち着きを失わなかった。
「一週間前にも、お会いした人ですから、間違いありません。ここに来ると、ほっとできるよと言って、一週間から十日に一回は来てくれて。店外デートには誘わないし、私にすれば、とてもよい固定客なのですよ」
聡明そうな口元を見詰めながら、池永はさらなる協力を願ってみる。
「差し支えなければ、そのお客さんの名前を聞かせてもらえませんかね」
「玉垣さんと言います。埼玉で不動産屋さんを経営している、と聞いていますけど」
聡明な美女が、あっさりと協力してくれた。
「その玉垣という人の住所もわかると、たいへん、ありがたいのですがね」
「名刺を見れば、わかりますよ。何かあったら連絡してくれれば、助けになるよって、もらった名刺がありますから」
聡明で素直な美女が、重ねて心を開いてくれた。
「それは、ありがたい。今、手元に置いてありますかね」
「ええ、ロッカーの中に」
池永は田村と無言で顔を見合わし、中年男の身元を突き止めた安堵感を伝え合った。
「持ってきてもらえますか」
「ええ、私は構いませんけど、玉垣さんのほうには迷惑は掛からないのでしょうか。玉垣さん、何か、悪いことにでも巻き込まれたのですか」
淡々と答えてくれていた久美子が、初めて思案顔を見せて、質問を返した。べテラン刑事は、目的によっては許される方便を利用することにした。
「我々は、ある案件で一人の男の身元を追い掛けていましてね。その件の参考人として、玉垣さんに会って直接、話を聞きたい。それだけのことなんですよ」
「そういうことなら、迷惑は掛かりませんよね」
「もちろん、掛からないし、掛けませんよ」
「すぐ持ってきますので」
久美子が再び、白いバスローブの裾を合わせながらソファーから立ち上がり、テーブル周りには、鼻腔を心地よく、くすぐる柑橘系の香りが残された。
胸をくすぐる高揚感を誰かに伝えたい。池永はドアの閉まる音を聞き定めると、しばらく黙りこくっているオーナーに向き直った。
「社長、こんな店でも、見掛けがいい上に、性格もいい子がいるんだね」
「あっ、そう。こんな店で悪かったな」
細い目の二重顎が、出会い頭と同じ渋面を作った。
「いや、そういう意味で言ったのではなく…」
「まあ、お堅い刑事さんにはわからないだろうけどな…」
苦笑を浮かべ、遊び好きでなければ解しない用語を交え、オーナーが説明する。
「ヌキがない店には、質の高い子が集まるんだよ。久美子だって、この前まで信用金庫に勤めていたんだしな~」
「とにかく、我々のような仕事に比べると、若い子に囲まれて、うらやましい限りですな」
「な~に、言ってんだよ。女を使うのは疲れる仕事だよ。男のほうが、ずっと使いやすいってもんだ。すぐ、すねるだろう。す~ぐ泣くだろう。それから、すぐ辞めちまう。一年いるホステスなら、かなり古株な部類に入るってもんなんだ」
「まあ、苦労はあるだろうけど、実入りのほうは凄いのじゃない の」
「そうでもないよ。俺なんか、オーナーと呼ばれているけど、本当は、上の会社から二軒の店を任されているだけなんだ。上の会社には、また親会社があるしな。しかも、年中無休ときてる」
突然、目の前の男が五歳は老けた顔になって、ぼやいた。
ではあるが、彼の年齢が判然としているわけではない。六十歳近い外見をしているが、語り合って受ける印象は意外と若く、実年齢は五十歳代前半なのかもしれない。
年齢を聞きただしたい誘惑に駆られた時、当の相手がぽかんと口を開けて、入り口に目を上げた。
見覚えのある白いバスローブに、魅力的な肢体を隠した久美子 が、殺風景な部屋に舞い戻ってきた。
テーブル越しに、細い指から手渡された名刺に、まず池永がざっと目を通した。
表には、『埼玉県知事免許 宅地建物取引主任者登録 浦和宅建不動産 代表 玉垣泰弘 〒336‐0022 埼玉県さいたま市白幡 TEL FAX』などと列記されていた。裏返すと、店舗と同じ白幡区域に所在する自宅の住所と電話番号が、手書きされていた。
名刺は田村に回され、すべての情報がシステム手帳に転記された。
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