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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第八章 捜査線上に浮かんだ男



     

 遊びは終わった。個人的な息抜きの時間から、意のままにならぬ日常へと、もう戻ったのだ。

 自らに言い聞かせた池永部長刑事は、ランジェリーパブの客やホステスに仕えて、忙しくテーブルを巡るボーイを気の毒に思いながら、もう一働きしてもらうことにした。例の二十歳代後半と測れるボーイなら、濃紺の自動ドアの脇で、切れ長の目を客席に配りつつ待機中。

 蝶ネクタイを締めた黒服に、背筋を伸ばして近寄ると、身分を明かし、責任者への取り次ぎを依頼する。

「しばらく、お待ちを」

 言い残して、二股の黒い垂れ幕を両手で分けていったボーイは、例のとおり表情を変えなかった。

 二分と待たされなかっただろう。垂れ幕の向こう側から現れた ボーイが、池永の前へと足早に進み出て、手振りを添えて招く。

「オーナーが会うそうなので、どうぞ、こちらへ」

 案内役に再び先導され、池永と田村の両刑事も黒の目隠しを潜って、業務用のスペースへと入っていく。

 すでに二人とも、ランジェリー姿の娘に頬を緩めていた酔客の顔から、職務に臨む引き締まった顔を取り戻している。

 先へ続く狭い通路。左に、レジスターを置くカウンター。さらに左に、レンジフードファンが規則的な音を発している厨房。背中を見せ、壁際のガスレンジに向かっている白衣の男。横顔を見せ、中央を占めるステンレス張りの調理台の上で、手を動かしている黒服の男。

 見やりながら六歩進むと、鉄の扉に突き当たった。鉄扉を押し開き、反対側で支えてくれるボーイの脇を擦り抜けると、薄暗い廊下に出た。片側には、磨りガラスを嵌め込んだ木製の扉が三つ並んでいる。左奥には、地上へ通じる階段が設けられている。上がれば、正面玄関に出られるのだろう。

「コーン、コン、コン」

 雑居ビルの地階に、乾いた音が響いた。ボーイが真ん中に位置する扉の前に立って、ノックしているところだった。すぐさまノブを引き開けた彼は、左手を振って入室を促してくれる。

「どうも、世話をかけたね」

 池永は、労いの言葉を忘れたりしなかった。案内役は軽く頷いただけで、最後までクールな表情を崩さず、無言で体の方向を変えた。

「お邪魔させてもらうよ」

 次いで池永は、開け放たれた部屋の中に向かって、断りの声を上げた。

「ガタン」

 戸口から二歩を進めた背後で、田村がドアのラッチボルトを外枠に滑り込ませる、小さな音が鳴った。

 雑然とした部屋。四メートル四方ほどか。古びた灰色の壁にぐるりと囲まれ、明かり窓は見当たらない。

 その部屋の主で、『オーナー』と呼ばれる人物は、地味な背広を着た小男であった。左手に据えられた応接セットと事務机の間 に、、待ち構えている。腕を組んだ立ち姿で、苦々しい表情で、歓迎できない気持ちを伝えている。

 風貌は独特。白い物が交じる、すだれ状の頭髪。平行に何本も刻まれている、額の皺。金縁眼鏡の奥で、鈍く光る細い目。丸くて低い鼻。下膨れした二重顎。彼に対して、お世辞にも『好男子』という言葉は使えない。

「内は、全うな商売をやっているんだ。ねんねなんかも雇っていないぜ」

 小男のオーナーが、末広がりのサイドラインを歪めて、精いっぱいの威嚇を見せてくれた。

「社長、商売のほうは関係ないんだ。だいたい、管轄が違うよ。手入れなんて物騒な話ではなく、人探しに協力してもらいたい。それだけだけなんだ」

 飛び入りの招かれざる訪問者は、警察手帳をちらつかせながら、下手に出る。

「我々は、ある事件で、一人の男の身元を追っている」

「あっ、そう」

「その男が、お宅のポケットティッシュを持っていたことまでは、裏付けられている」

「ポケットティッシュ?」

「そこで、店の誰かの中に、男を知っている人間はいないものかどうか、顔写真で確かめさせてもらいたい。それだけの簡単な頼みなんだよ」

「内で雇っていた男だって、言いたいのかい」

「いや、違う。中年の男なんだよ。お客として来ていたのではないか、と思ってね」

「あっ、そう。だけどな、ポケットティッシュなら、近くの通りで、ごまんと配らせているぜ。客じゃなく、ただ受け取っただけの通行人じゃないのかい」

 自分を見上げるオーナーの細い目に、小馬鹿にしたような光が泳ぐのを、池永は見逃さなかった。反駁する声のトーンが、おのずから高く、鋭くなる。

「その可能性もあるが、お客だった可能性もある。そうじゃないかい!」

 オーナーが鼻白むと、すかさず声を和らげる。

「とにかく、従業員に顔写真を確認してもらうだけでいいんだか ら。社長、頼みますよ」

「まあ、刑事さん、立ち話もなんだから、座ってくんな」

 池永との心理戦にストレスを感じたのかもしれない。あるいは、短い両脚に疲れを覚えただけだったのかもしれない。折れる気配を見せたオーナーが、率先してソファーに体を沈め、二人の刑事も入り口を背にする席に着いた。

 向かい合ったオーナーの頭上越し、灰色の壁には、南欧風の街角を描いた油絵が飾られている。油絵の下には、スチール製の事務机が二つ並べられている。一つの机上に置かれたポータブルラジオからは、男女の笑いを交えた会話が小さく聞こえてくる。

 右側の壁に目を転じると、白いスケジュールボードが吊され、 『十月二十四日、水曜日』と板書された日付が読み取れる。反対側を振り向くと、応接セット近くに灰色のスチールロッカーが設置され、その脇には六個の段ボール箱が重ねられている。箱の中には、街頭で配っていると告げられた販促用のポケットティッシュが、 ぎっしり詰め込まれているのかもしれない。

 一通り部屋を見回した池永は、長椅子の右隣に腰掛けた田村に指示して、復顔絵から起こした中年男の顔写真を、大股を広げて紙巻煙草を吸っているオーナーに示した。

「知らない顔だね。こんな物、俺にまで見せないでくれよな。俺は、客の相手はしてないんだ」

「それは失礼、失礼」

 一瞥して、拒否反応を示したオーナーは、落ち着けないらしい。

 米国製の煙草を消しては、すぐ点けた。チェーンスモーカーに釣られて、田村も背広のサイドポケットから、マイルドセブン銘柄の低タール煙草を取り出した。

 長らく禁煙している池永は、立ち上る煙と焦げた臭いに閉口しながら、オーナーへの談判と観察を怠らない。

 間近で相対すると、初対面から妙に間延びした印象を抱いていた原因に、はたと気付いた。煙で顔をカムフラージュしている愛煙家は、ぽかんと上下の唇を開けたまま、口呼吸を繰り返していたのである。締まりに欠けた口の持ち主にあっては、間延びした風貌に見えてしまうのも、致し方のないところだろう。

<あんた、煙草を減らして、少しは体を鍛えないと、長生きできないよ>

 オーナーへの忠告を胸の内に押し止め、彼の優柔不断へのいらつきも抑え、池永は談判を続行する。

 焦れては事を仕損じる。話さなくても、わかる人間がいる。話せば、わかる人間がいる。話しても、わからぬ人間がいる。自分の直感に従えば、目の前の男は粘り強く話せば、心を開いてくれる人物に違いない。

「わかった、わかった。刑事さんの押しには負けたよ。ただし…」

優に十分を要して、いわゆる首検を承諾してくれたオーナーが、条件を付け加える。

「写真を見せるのは、フロア係からにしてくんな。女の子に怯えられると困るんでね」

「わかった。忙しいところを、かたじけない」

「それから、内は営業中なんだから、フロア係を一人ずつ、ここに呼ぶようにする。それでいいかい」

「それで、けっこう。恩に着ます」

 力を込めた声で感謝すると同時に、池永は自らの直感に快哉を叫んでいた。

<イエ~イ>

 

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