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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第七章 ランジェリーパブにて



     

 客席を静寂に包んだ光の輪は、フロアを五回転してやんだ。

 秘密クラブめいた地下室は再び、陰に閉ざされ、人の顔の見分けがつくのは、わずかな灯光を浴びた近くのボックスだけ。弱く赤い光は、壁周りに配されたセード付きライトから届いている。

「失礼します」

 隣の、かおるが白いソファーから立ち上がり、コバルトブルーのランジェリーだけで覆った肢体を反転させると、やおら下肢を広げて、池永の股間に跨がった。

 中年男にとって想像もしなかった成り行きであったし、むくつけき同性にやられたら、髭面に一発食らわしたくなるような行為だったが、抱き合う格好になった相手は、年若く小柄な娘であった。

 目の前をふさいでいるのは、前髪を短く刈り揃えたセミロングのストレートヘア。そして、その黒い髪に縁取られた柔らかい凹凸の目鼻立ち。

「こんなことをするんだ?」

「こういうことになってるの」

 小声で、かおるの耳元に囁くと、すぐさま、かおるの吐いた息が、耳元をくすぐり返した。

 右左に横目を流すと、それぞれのボックスでは、ランジェリーパブで言い習わす“ショータイム”が、もう始まっている。

 孫の世代に当たる、長い髪とスレンダー・ボディーの持ち主を静かに抱き締めて、うっとりと両目を閉じ、桃源郷の住人になっているのが、白髪の老人。

 髪を金色に染めた小娘と縦に揺れ合いながら、胸の谷間や尻の前後に両手を這わせ、ランジェリーの奥の敏感な肌に指先を届かせているのが、血気盛りの田村。

 女遊びに疎い池永も、カップルが重なり合うシルエットを目の当たりにして、この種のパブがエロパブと俗称される本当の由縁を理解していた。

 かおるが、首に両腕を回して、上半身を押し付ける。相手の肉体と体温が、より一層、身近に感じられた。かおるが瞼を閉じ、腰でリズムを取って上下運動を始める。やぼな中年男の中枢神経が刺激され、下半身が騒いだ。胸が高鳴った。フェロモンを香らせる髪に鼻を触れた。慣れぬ手付きで首筋を、背中をそっと撫でた。柔肌の曲線をなぞるうち、やにわに、内なる狼が目覚め掛けた。

<いや、いかん。恥を知れ、恥を>

 内なる狼のなりふり構わぬ暴走を、内なる羊が抑えに掛かった。

 性本能と葛藤しつつ、いつしか池永も二人だけの世界に入り込 み、ショータイムの主役を演じている。

 

 客席の中には、色恋の機微に通じている御仁も交じっていた。

 彼の知っているところでは、自分を含めた男性客とホステスが着衣のまま絡み合っている姿勢は、前座位とも差向位とも称される ラーゲをモデルにしたもの。ラーゲとは、性行為における男女の姿勢・位置であり、単に体位とも呼ばれている。

 本当の意味の前座位・差向位では、ペアとも膝を折り曲げて座るか、腰を掛けるかして、差し向かいの姿勢になり、生殖器の結合後、男性の大腿部の上に女性の大腿部を乗せる。女性の両脚が男性の上にある位置関係から、女性上位によるラーゲの一つに数えられている。狭い部屋や、バスルームでの性交に好適であるため、バス体位と言ってもよいだろう。

 羞恥心がなくなり大胆になること、一体感としての快感があること、性体験が浅くても疼痛が少ないことなどで、女性側にとって比較的、楽なラーゲとされている。

 

 短かったようで、案外、長い時間が経っていたのかもしれない。

 太陽系宇宙の運行に基づく絶対的な時間は一定しているが、人間が心理的、生理的に抱く時間感覚は、個々人によって異なる。同じ個人にあっても、人生の時期の違いや、置かれた局面の違いによって、時間に対する感覚は、伸びたり縮んだりする。

 池永には、酒を入れているせいもあってか、バス体位をまねたセクシーダンスに費やした正確な時間が、つかめなかったのである。

 今、薄暗いフロアには、先刻、ショータイムのオープニングを告げたカクテル光線が、同一の色合いを見せて旋回し、女性上位の擬似セックスの幕切れを告げていた。光線が三回転して、あっさり消滅すると、シャンデリアからの照明が一斉に灯されて、客席は穏やかな橙色に戻った。

 顔や肩を朱に染めていたホステス。髪を振り乱して陶然としていたホステス。あるいは、媚態を取り繕っていただけのホステス。彼女達の誰もが、男性客の大腿部を離れて、ソフトレザー張りのソファーに座り直していた。

 池永の席でも、右隣に腰を下ろしたばかりの、かおるが、すぐにチェックのポーチを手にして立ち上がり、あっさりした口調で告げる。

「私は、これで」

「そう? またね」

 遠ざかるブラジャーの後ろ紐を見送りながら、置き去りにされたような、子供染みた感傷がよぎった。

 しかし、田村に接していたホステス嬢も、ハイヒールで支える尻を揺らし、金髪をふわふわさせながら、かおるの背中を追い掛けてゆく。彼女達は、指名を受けて他の客の席へ移るのではなく、控え室へ戻るらしい。

 余熱の冷めやらぬ池永は、額にうっすら浮かんだ汗を人知れず拳で拭ったが、入店した時の彼とは違って、エロチックなパブに場慣れもしていた。

「やあ!」

 待つ間もなく、新しくボックス席に現れた娘を見定めると、自分のほうから声を掛けていたのである。その声は、自分にも意外なほど快活である。

「イエ~イ!」

 セミロングを軽くウエーブさせた相手も、はち切れそうに元気な声で応じながら、右隣へと回り込んでくる。

 二十一、二歳だろう。刺繍を施した白いブラジャーとショーツに、豊満で、弾力がありそうで、下腹の一部分が小高くなっている肉体を包んでいる。ぽってりした唇を蛍光色のルージュで、睫をマスカラで塗っている。耳をピアスで、首をネックレスで飾っている。

「今晩は。みなみ、で~す」

 爪のマニキュアが光る指から渡された名刺に目を通すと、先の 『かおる』と違って、『みなみ』という源氏名も印刷済みのものだった。入れ替わった彼女のほうが、店ではお姉さん格なのだろう。

 みなみはまた、後輩ホステスと違って、酒を嗜んだ。剥き出しの右腕を振ってボーイを呼び寄せると、自分用の飲み物として、グレープフルーツ入りのリキュールをオーダーする。

 従業員同士でやり取りしている間に、名刺を裏返した池永は、手書きされたメモを発見した。

『OFF‥月曜日です OPEN~LASTまた、来てね! 待ってます』

 メモの内容を糸口にして、みなみとの会話が弾んでいった。周囲の客席など意識せず、リラックスする余裕を見付けた中年客は、若やいだ気分になっていった。

 世に、好事魔多し、と言い習わされる。十分と経たない内に、黒服のボーイが割り込んできたのは、予期せぬことだった。

「お時間ですが、延長なさいますか」

「……?」

 センターテーブルを挟んだ左手前の床に片膝を着いて、上目遣いに尋ねているのは、顔を覚えた担当のボーイだった。

 入店してからの所定時間を超えると延長料金を請求され、夜遅い時間帯ほど遊興費が高くなる会計システムについて、一見客の池永に、知識があるはずはなかった。

 みなみの艶々したナイス・ボディーを眺め、銀白色に光るピアスやネックレスを褒めそやしたいのは山々だったが、時間はさてお き、持ち合わせが心もとない。小娘の魅力に未練を残して、ボックスを接する田村をソファー越しに窺う。

「どうする? 延長するか?」

「もう、いいでしょう」

 若い友人が即座に、断定した。

「勘定を」

 ボーイに告げた。

「会計は、二名様、ご一緒でよろしいでしょうか」

「……。それで、いいよ」

 少し思案してから、ボーイに告げた。

「このアワビの薫製、チョーおいしいんですよ。食べたらどうですか」

 男達の話を聞き流しながら、銀皿に盛られたオードブルをつまんでいた、みなみが、右耳近くで提案してくれた。

「そう、どんどん食べて。俺達はそろそろ、お開きにしないといけない」

 舞い戻ったボーイが、請求額を書いた紙片を差し出しながら、左耳のほうから願い出る。

「こちらのお支払い、よろしいでしょうか」

 二十パーセントのサービス料と、五パーセントの税金を足して、四万円以上の現金が財布から飛んでいった。

 パブが“大衆酒場”を意味する外来語であっても、“ランジェリーパブ”という和製英語を冠した店になると、大衆的な料金ではとても飲み食いできないもの。高い代償を払って、池永はようやく悟っていた。

 まめまめしく往復を繰り返したボーイから、釣り銭と領収書を受け取って席を立つと、田村も隣のボックスから腰を上げた。それぞれの席の、素肌を露わにしたホステスも続いた。

 四人は灰色のカーペットを踏み、花物の鉢を並べたスタンドの脇を通り過ぎると、出入り口手前の小スペースで歩みを止めて、向かい合う。

「ここで、お別れ。俺達は、これから、店の責任者に用があるんでね」

「わ~」

 と、みなみが感嘆の声を上げながら、池永と田村の顔を交互に見た。

「税務署の方達なんですか」

「いや、違うよ。そんな堅い仕事をしてるようには見えないだろうが」

 池永が意識して笑顔を作りながら、冗談めかして否定した。

「見えますよ」

「そうよね。目が笑ってないし~」

 みなみに、もう一人のホステス嬢が加勢して、冗談口を叩いた。並んでいる娘は大柄で、胸と腰にまとっているのは模様が入ったピンクのセット。

「鋭い」

「鋭~い」

 奇しくも、池永と田村の応答が重なった。

「とにかく、バイバイ」

「また来るね、ルミ子ちゃん」

「また、いらっしゃってね~」

「また、いらっしゃってね~」

 笑顔を返しながら、声を合わせた二人のホステスは、すぐ横手に吊り下げられている黒い垂れ幕の向こう側に、白とピンクのラン ジェリーを寄せ合いながら、姿を消していった。

 かおる。みなみ。田村に接していたルミ子。楽天地の女神達は、中年男より数段上手の“社交の笑い”を身に着けていた。しかも、まことに開放的で、屈託がなかった。誰もが一様に、バイト感覚で気楽に働いているような素人臭さを残している。水商売に染まり 切っている雰囲気など発散していない。

 大都会の真っ只中で、若々しい素肌を持つ娘達は、男にはない五体と生命力を武器にして、強かに生き抜いているようだ。

 

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