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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第七章 ランジェリーパブにて



     

 そこここの白いソファーでは、一組の男女が並んで座り、グラスや煙草を手に談笑している。

 年格好がばらついている男性客に対して、ホステスはおしなべて年若い。季節にふさわしい背広やジャンパーを羽織った男性客に対して、ホステスは一人残らず、裸に近いランジェリー姿である。

 表の看板に偽りはなかった。地下の一室は、“かわいい娘”という店名を謳う、刺激的なランジェリーパブ。十代後半から二十代半ばの女性モデルによる、洋風下着のファッションショーが、音響抜きで、密やかに繰り広げられている。

 白いランジェリーを中心に、赤いランジェリー、黒いランジェリー、青いランジェリーが、娘達の白い肢体に張り付いている。みなビキニタイプで、雌性特有の部分を覆い隠すことで、逆に雄性の注目を引き寄せ、想像力をたくましくさせる仕掛けになっている。

 宣伝写真で妖しい雰囲気を発散していたガードルやガーターベルト、メッシュのサスペンダータイツは見掛けない。扇情的なスキャンティー、露出過多なバタフライ、風変わりなペチコートも見掛けない。極端に薄い肌着や透ける下着、ベビードールなどの寝室着も見当たらない。

 目にできるのは、同じ色のブラジャーとショーツでセットになった、比較的おとなしいビキニタイプのみ。だが、それぞれ装飾、意匠、素材に、細かい工夫が凝らされているようだ。フリル付きのランジェリー。サテンリボン付きのシルクのランジェリー。花柄コットンのランジェリー。レースと刺繍を組み合わせたランジェリーなど、など。

 池永は男心を騒がせる一方で、後悔し始めていた。

<あのポケットティッシュさえ拾わなければ、こんな所へ来ることはなかったんだ>

 取り立てて堅物というわけではないけれど、妻帯はもちろん、女性相手の遊びとも無縁のまま、五十歳にすぐ手の届く年齢になっていた。

 左隣のボックスを占める田村は、背もたれに上体を倒して、堂々としている。自分の吐き出した煙草の煙を、目で追っている素振りだ。

 ワンボックス置いた右手の席には、真っ白な髪をした大柄な老人が居合わしている。場違いな客に思えてしまう老人さえも、長い髪のスリムな娘を相手にして、笑顔を交えながら、ゆったり構えている。

「今日は」

 突然、池永の頭上に、柔らかい声が注がれた。

 目線を上向けると、間近に佇んでいる若い娘が、口辺に笑みを浮かべながら軽く会釈した。小柄な学生風で、ランジェリー上下のコバルトブルーと、剥き出しの白い肌の対照が眩い。

 無言で二度、頷き返している間に、ハイヒールを履いたホステス嬢は、背の低い大理石のセンターテーブルを回って、左右の太腿をソファーの右隣に揃えた。

 次いで、手に携えてきたチェックのポーチを素早く開閉し、少し改まった口調になって、紙片を差し出してくる。

「かおる、です。よろしく、お願いしますね」

「あ~、よろしくね」

 手渡された紙片は、小ぶりの名刺であった。確かに、丸い手書き文字で『かおる』と、源氏名が記されている。店名や住所など印刷された文字が並ぶ中では、お世辞にも「うまい」とは言えない肉筆が、真ん中で人間臭く際立っている。

「あの…」

なぜか、かおるが、声を落とした。

「何?」

「私も、お飲み物、いただいていいですか」

「あ、あ~、いいよ」

 折しもビールのグラスを運んできたボーイに向かって、かおる自らが声を上げる。

「ウーロン茶、お願いします!」

「はい、ウーロン茶ですね」

 年下のホステス嬢の注文を、ボーイは無表情に、丁寧に受けて立ち去り、すぐに戻ってきた。

 再びボーイが立ち去った後のセンターテーブルには、ウイスキーボトル、カチ割り氷を満たしたガラス器、水を入れたデキャンタ、色とりどりのオードブルを載せた銀皿に加えて、ウーロン茶を注いだグラスも置かれていた。

「ランパブは、初めてなんですか?」

 話題を探しあぐねている中年の客に対して、また、年若いホステス嬢のほうから話し掛けてきた。

 そわそわした態度から、遊び慣れない客と見抜かれたらしい。事実、小さな布地の下の隆起を露にした娘を横にして、目の遣り場も、まだ探し当てられないのである。

「そう、初めて…。こういう所は、ランパブと言うのか」

「ランジェリーパブだから、縮めてランパブ。エロパブって呼ぶ人もいるの」

「なるほど、エロパブね」

 かおるは二十歳前後。化粧っ気がなく、美人とは言えない。十人並みの、愛敬のある顔立ちとは言える。性的には晩熟タイプに見受けられるが、世慣れた一面は持ち合わせているようだ。

「お仕事、何をされているのですか」

「何だと思う?」

 無粋な中年男にも、ビールで喉を潤し、会話を取り交わした効果が現れ、くつろぎ出していた。

「普通のサラリーマン、じゃなくて、公務員ってとこかな」

「ピンポン」

「ピ~ンポ~ンでしょう」

 子供っぽい言葉遣いを照れて、短く、ぶっきらぼうにした言い回しは、若い娘には聞き咎めの対象になるらしい。無邪気に、声高に、発音を訂正されてしまった。

「ハ、ハ、ハッ」

「何気に笑ってごまかす」

 かおるは、話し好きであった。マドラーを回して調えた高級ウイスキーの水割りを、そつなく勧めたり、グラスの水滴で濡れたコースターを、さりげなく取り換えたりしながら、問わず語りに砕けた物言いで語る。

 父、母、中学生の弟と暮らす十九歳で、高校中退者。ランジェリーパブとは専属契約を結んでいるわけではなく、気楽なアルバイト勤めなのだが、客からの指名料の割り戻しを入れると、一晩に数万円の日給を稼ぐのだと、ほほ笑む。

「そのために、何時まで、働いているの?」

「電車の終電まで。指名が付いたりして、終電に間に合わない時は、店のマイクロバスで家の近くまで送ってくれるの」

「ヘ~え、なるほどね。でも、両親と一緒に暮らしていると、さっき聞いたはずだけど、家の門限は大丈夫なの?」

「大丈夫なの。家には、高校の時の友達がやっているスナックを手伝っていることになっているから」

 かおるが重ねて、愉快そうに、ほほ笑んだ。

「お父さんは警察官で堅い人なんだけど、そうか、そうかって、全然、疑っていないの」

 彼女の父親が警察官として、地方公務員の身分に属する、同じ一員と知らされた池永部長刑事のほうは、複雑な気分になった。

 堅い父親にとっては、笑い事ではすまされないだろう。同情すべき人の名は、一人娘に背信されている“お父さん”である。母親にとっての息子が“永遠の恋人”なら、父親にとっては“最後の恋人”に相当する愛娘が、あられもない半裸の格好で酔客に侍っているなどと、夢にも思ったことがないのだろう。

 善意の誘惑が、池永を突き動かそうとしていた。こういう風俗店で働く境遇なのに、娘に屈託がなさすぎるのは、高給に惑わされているせいに違いない。父親のためにも、娘自身のためにも、説得して足抜きさせねばならぬ。

 独り善がりの誘惑は、突然、前触れもなく客席を支配した薄墨色に断ち切られた。灯火の照度が一挙に弱められ、フロア全体が薄暗くなったのである。

 一抹の驚きと不安を抱いた池永の念頭から、お節介な使命感は失せ、自らの意思で働いている、かおるにも、嫌われずにすんだ。

 闇が降りた中で、天井に昼光色のスポットライトが点灯し、赤や青の交じったカクテル光線に変わるやいなや、フロアの一角を細長く照射しながら、周回し始める。

 池永は息を詰め、光源を探して天井を見上げる。洋式の塗壁が広がり、いくつかの消灯されたシャンデリアが吊り下げられていた。その真ん中あたりに、舞台照明の一種が埋め込まれているようだった。

 二回り。三回り。回り続けるカクテル光線が何かの始まりを予告しているのは、わかった。次に何が待っているのかまでは、わからなかった。シネマの上映会も、チェリストによる演奏会も、ホステス達によるショーダンスも、起こる気配ではなかった。 

 

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