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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第七章 ランジェリーパブにて



     

 秋冷の夕刻。池永部長刑事は田村刑事巡査を伴って、池袋駅東口から程近い歓楽街へ足を踏み入れた。日に日に早まる日没に追い立てられ、日増しに募る寒気に心細さを誘われるのだろうか。行き交う人々の足取りが、気忙しい。

 行く手の歓楽街は、鉄道線路と明治通りに挟まれた細長い区域に位置し、再建された名画座の名が冠された裏通りを中心に、賑いを見せている。

 各種の飲食店、パチンコ屋、ゲームセンター、ボウリング場、映画館、ストリップ劇場、ソープランド、覗き部屋、性感ヘルス、性感エステ、台湾エステ、香港式エステ、マッサージパーラー、日焼けサロン、カラオケルーム、テレホンクラブ、ビデオ個室鑑賞、アダルトグッズ、ビジネスホテル、ラブホテル、コンビニ、サラ金、古本屋、漫画喫茶、インターネットカフェ。

 町筋には、こぢんまりした建物が立ち並び、雑多な業種の電飾看板が折り重なっている。

 通行人の本能をくすぐろうと、街角に待ち構えている男女も目に付く。ストリップ劇場、イメクラなどのプラカードを両手に掲げる、ジャンパー姿の初老サンドイッチマン達。ナイトクラブの入り口で手を叩きながら客を引く、黒いコート姿の青年コンビ。性風俗店のピンクチラシを手渡す、セーラー服姿の娘トリオ。

 まさしくフーゾクタウンに入り込んだ二人の刑事は、略図を頼りに、目指すランジェリーパブを探し歩いた。

 

 逆上る、日の入り前。二人は東池袋二丁目のマンションと、地域を管轄する交番を回ってきた。前者においては、池永の七割方の予想に反し、三割方の予想のとおり、めぼしい成果は得られなかった。

 現場検証で訪れたマンション『オーベルジュ東池袋』に再び足を運んだのは、身元不明死体の発見された904号室の隣戸、903号室の住人に会うためだった。インターホンへの応答はなかった。静かに立ちはだかるオートロックのガラスドアを一瞥して、館内玄関から引き返しただけだった。

 少なくとも、事件の発覚した月曜日から三日間、居住者の島田婦人は、家を空けているようだ。果たして、夜の闇に身を隠すようにして彼女を訪ねてきていたという男達の中に、904号室で死んだ中年男も交じっていたのかどうか。まだ、確かめようがない。

 刑事の捜査は、聞き込みに始まり、聞き込みに終わる。手掛かりになる話を聞くために、二人一組で歩き回るのが、犯罪捜査の基本となっている。地味で根気のいる、辛い仕事である。

 とりわけ都市部の人間の場合、事件に関わることを避ける傾向があり、刑事に対して、なかなか心を開いてくれない。時には、玄関払いを受けることもある。警察批判を口にする人物に出会うこともある。

 今回のような無駄足と同様、場数を踏んできたベテラン刑事に とっても、疲れを覚える瞬間である。

 次に警察官派出所へ足を伸ばしたのは、地域を受け持つ巡査が集録している連絡表を閲覧するためだった。

 ここでは、巣鴨署の地域課に所属し、交番に勤務する署員は仕事熱心な面々だ、と確認できた。目当ての番地の住人とも面会し、世帯主や家族構成を書き込んでもらったファイルを保管していたのである。

 連絡表に自筆の女文字で認められた世帯主の名前は、『島田美佐江』。昭和十四年、第二次世界大戦が勃発した年に生まれた六十二歳。職業・無職。同居人・なし。非常時の連絡先の欄には、北区西赤羽に住む『島田十一郎』が指定され、続柄は『夫』とされていた。

 

「池永主任、ありましたよ。プリティーガールが」

 田村刑事が上目遣いで知らせた先に、目指すランジェリーパブのネオンサインが、深緑色の輝きを放っていた。パチンコ店の派手やかなネオンサインを背にして立ち止まった池永刑事には、慎しい飾り物のように映る。

 その“大衆酒場”が入居しているのは、地上三階建ての古臭い雑居ビル。進んできた通りと交わる脇道の、中程に位置している。明治通りへ向かう若いアベックを追う形で、池永と田村は狭く、短い脇道に折れ、対向してくる人達の間を縫う。

 ビルには、正面玄関と離れて、地階へ通じる階段が穿たれていた。縦長のネオンサインは、シャッターを上げた出入り口の左上に掲げられている。

 池永は改めて、頭上を見上げた。

<ランジェリー・ショックのプリティーガール> 

 大小に書き出されている表音文字は、やや意味不明。レタリングに使われている見出し書体が『スーボB』とは、まるで理解の外。図案化された文字が丸みを帯びたユニークな形をしていることは、十分に理解の内。

 池永は一転して、深く頭を垂れた。自分を卑下したわけでは毛頭ない。足元から落ち込む薄闇を見据えるためであった。意を決すると、刻み足でコンクリート製の階段を下り始める。背後から、田村の硬い靴音が続く。

 薄暗い地階には、狭苦しいホールがあるだけで、行き止まりになっていた。一瞬、迷った池永だったが、ホールの左横に向けて腰を半回転させ、床に敷かれた黒っぽいマットに両足を預ける。目の前で、濃紺のガラスドアが、ゆっくり開いていった。

 秘密クラブめいた地下室の様相が、視覚に届いた。オレンジ色がかった柔らかい光線の下、三方の壁際に、ソファーをL字形に並べたボックス席が配されている。半分以上のボックスには、密着するように腰掛けた男女の火影が、ぼやけて見える。フロアのスペースは、学校の教室くらいだろう。

 池永を先頭にして、灰色のカーペットに足を踏み入れた。近くに立っていた黒服・蝶ネクタイのボーイが、素早く脇に寄り、お辞儀をする。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「そう、二人」

 池永は無意識に、二本の指を突き出して答えると、後ろに控える田村を振り向いた。

「ちょっと遊んでからにするか?」

「ええ、まあ、いいですけど」

 部下の気乗りがしないままの同意が、天の声のように、無粋な部長刑事を決断させてしまった。何も、すぐ事情聴取をしなくてもよいだろう。秋の夜は長い。客として息抜きをしてからでも、遅くはないのだ。

「こちらへ、どうぞ」

 ボーイが背を屈めて、先を払う。花物の鉢で飾られた細長いスタンドの横を通りながら、池永は眩しそうに、店内を見渡し直す。別世界の中は、強めの暖房に、男と女の発する熱気も加わってか、汗ばむほどの暖かさ。

 案内された奥まったコーナーで、二名の客は左右に分けられ、隣り合うボックスに納まった。閉め切られたガラスドアの濃紺を、正面方向に見定める席であった。

「お飲み物は?」

 池永の右脇で、膝を折って屈み込んだボーイが、慇懃に尋ねる。見計らうところ、大人の落ち着きを身に着けるようになった二十代後半の青年である。

「取り敢えずビール」

「ご指名は、ございますか」

「指名? いや、ないよ。初めてだから」

 質問を重ねたボーイが、素早く立ち上がり、均整のとれた体を翻した。

 五十代を間近にした池永自身は、初めての大事を前にした少年のように落ち着けなかった。真っ白なソフトレザー張りのソファー が、ふかふかすぎるクッションで、尻を安定させるには柔らかすぎるのも、気になるところ。前屈みの姿勢になって、右手から前方に設けられた客席へと、改めて首を巡らせた。

 

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