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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第一章 904号室の異常死体


     

 異変の予感など、まるでなかった。時刻も、場所も、景観も、いつもと同じであった。

 

 彼女が週始めの仕事を終え、自宅マンションを間近にする東池袋二丁目の交差点に辿り着いた時間は、いつもとほぼ同じ午後六時前後であった。信号待ちで十字路の一角に佇んだ位置も、いつもと変わらぬモミジバスズカケの緑陰であった。

 その大都会の幹線道路に沿う歩道上で、ピンク系ベージュのスーツに身を包んだ彼女は、目の前を行き交う車両の群れが立てる、地響きを聞くともなく聞いている。

 十月下旬を迎え、首都圏の秋気は、一挙に深まっていた。

 ふと、民間衛星テレビの放送日程を思い起こす。プログラムガイドに目を通したのは、先週末のこと。

〈そう、そうね、今夜は確か、ワウワウで『反撥』を放送する。セックス嫌悪症に陥る女性を演じるのがカトリーヌ・ドヌーヴで、監督が…、そう、あのロマン・ポランスキー。ゆっくり映画を見るためには、早めに……〉

 とうに日は落ち、空には薄墨色が満ちている。しかしながら、ビルに囲まれた地表に佇みながら、夜の過ごし方の算段をする彼女 は、光の渦の中に浸っているのだ。

 相変わらず、目前に延びる幹線道路では、総身にライトを灯した車両が、引きも切らず行き交っている。その道路沿いに立ち並ぶビルは、ガラス窓から、外廊下から、青白い光や薄紅の光を放っている。一階部分に軒を連ねる店舗は、ウインドー照明から、ネオンサインから、五色の光彩を輝かせて、客を誘っている。あちこちの軒先に置かれた自動販売機も、派手やかな電光飾で、商品サンプルを浮かび上がらせている。

 

 今の時刻なら、埼玉の実家は街灯の薄明かりの下に、うら寂しい雰囲気を漂わせて沈んでいることだろう。

 都心の会社に勤める彼女は、週末を埼玉県志木市の外れにある父母の家で過ごし、週日を東京都区内の分譲マンションで送ってい る。片道一時間近く通勤時間を節約できるのが魅力で、もう一年以上続けているライフスタイルである。

 いまだに、違和感は拭えていない。彼女の違和感とは、月曜日の朝、バスと電車を乗り継いで上京してくる度、大都会に覚える感じ。

 実家の周囲には畑が広がり、程近い河川敷は、絶好の散歩コースになっている。会社がある都心や、マンションがある副都心には、大地を意識できる場所などない。気付くのは、建物の密集、人の群生、音の洪水、そして夜の光の氾濫。父母の耳目を驚かせるほど、賑やかで明るい。首都圏内でも、郊外と都会地の落差は、思いの外、大きい。

 

 実家で過ごした土日が足早に去り、また巡って来た月曜日も、残すところ六時間。夜は陰影に覆われるベッドタウンから、本当の意味の暗闇がない都心部に戻って来ていた彼女は、信号機による少々長い足止めを持て余した。

 車道越しに、反対側の歩道を行き来する人達に合わせていた視線を、自分のマンションへ流し、上階へと上向ける。

 その何気なく見上げた両目が見張られ、訝る目に一変した。

<あれ? ど~うしたのかしら>

 建物の趣が、いつもと違う。薄墨色の夜空を背にした最上階の左端、彼女の一人住まいの居室が明るく輝いているという、あるまじき一事で。

 首をわずかに右へ傾け、息を止めて思案する。電灯を消し忘れたまま家を空けていた、とは到底考えられない。そんな不手際は、これまで一度も、しでかしていない。彼女は目に力を込めて、建物の周囲に視線を走らせる。

 間違いはない。横断歩道の向こう正面に建つ十二、三階建てのビルから、右へ二軒目、薄ピンク色の外装を施した九階建ての構えは、帰ろうとしているマンションに相違あるはずはなかった。

 一階の貸店舗に入っているレンタルビデオショップは、内部の天井に張り巡らせた照明を光々と灯して営業中。二階から上には、道路側に張り出したバルコニーが整然と並び、ガラス窓は明暗を分けて折り重なっている。九階に目を凝らすと、四つ並んだ住居の中で、左右の端が明るんで人の所在を告げている。だが、左の角部屋の所有者で唯一の入居者は、道路を挟んだ地上から怪訝な面持ちで見上げている彼女なのである。

 白いレースのカーテンを透かして、蛍光灯の青みがかった白光を瞬かせている904号室の中は、どうなっているのだろうか。

 万が一、消し忘れて外出したのだとしたら、先週の金曜日の朝から電気をつけっ放しということになる。

<私は、それほどそそかっしくないわ>

 自分に言い聞かせるように、胸の内で呟く。週末に家を空ける際には、女主はとりわけ慎重に構えて消灯していた。ガスの元栓も閉めるし、窓や玄関の施錠にも気を付けている。

 その時、路面を疾駆していた車輪の音が消え、目の前の現実に返った。すでに、信号機のシグナルが、青に変わっている。車両の縦列が、歩行者に道を譲っている。

 横断歩道へ踏み出し、反対側の歩道へ渡ると、モミジバスズカケの街路樹を右に見ながら進む。擦れ違う人や自転車は、彼女の眼中にない。ビデオラックの並ぶレンタルショップ前を足早に過ぎて、左に折れ、マンション正面の敷地に配された植え込みを通り抜け る。

 体をぶつけるようにして、両開きの玄関ドアを押し開き、エントランスホールに入った。

 人気はない。左手に構える管理室の窓には、ロールカーテンが下りている。日勤の管理員は、夕方五時に帰ったのだろう。一瞬、その容姿が彼女の脳裏に浮かぶ。小柄で物静かな初老の男だが、推し量るところ、決して懦夫ではない。

<管理人さんに、部屋まで付いてきてもらえれば心強かったのに …>。

 硬い表情で、右肩に吊したショルダーストラップ付きのハンド バッグから、キーホルダーを取り出す。鍵の束から、差し込み部分の左右両方にギザギザの山を持つキーを指先に挟むと、壁に設置された金属製の操作盤に差し込み、右に回転させる。

 オートロックが解除された。

「ピッ、ピッー、ピッ、ピッー」

 電子音の響きに、強化ガラス製の自動ドアが始動する鈍い音がかぶさり、エレベーターホールへの進路が開いた。防犯対策の一環として、共同玄関にオートロックシステムを採用するマンションが急増中で、部外者の内部への立ち入りは、確実に制限されているのだ。

 奥口を潜り、左手の集合郵便受けに歩を運ぶ。腰を屈め、取り出し口のダイヤルを指先に挟んで暗証番号を回し始める、その操作の手がぴたっと凍り付いた。

 背中に感じる、動く人の気配。身を硬くしながら、顔を振り向ける。

 小さく息を吐き、胸を撫で下ろす。宅配ピザ店のユニホームを着た若者が、配達を済ませて外に出ていくところだった。この街では、有り触れた擦れ違いにすぎない。

 エレベーターは、一階に止まっていた。ボタン操作で金属製の扉が自動的に開閉し、低い機械音を響かせながら、最上階を目指して上昇していく。

 九階の北に面した外廊下は、冷え冷えとしていた。一番奥の自室へ向かって、防風スクリーンが設備された通路を進んでいく。常夜灯の弱い光が、足元を照らす。

「カツ、カツ、カツ、カツ」

 高く、忙しなく響き渡るハイヒールの靴音が、背後から付いてくる。

「カツ、カツ、カツ…」

 間近に、904号室の表札が認められた。

『坂本』

 パソコンのまだ新しい印字は、彼女、つまり坂本律子が去年の秋、一人暮らしの住居に掲げたものに相違なかった。

 

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