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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第六章 第二応接室に忍び込むもの



     

<…間違いはない? …間違いない?>

 室内に、肌を刺す木枯らしが吹き込んだ。観葉植物のベンジャミンを配した第二応接室が、警察署の殺伐とした取調室に様変わりした。

 被害者は容疑者気分に陥らされ、二度、小さく頷いた。

「そういったことを考え合わせると」

 表情の変化を察したのか、池永刑事が口調を和らげた。

「日曜日の夕方から夜にかけてでしょうな。男が合い鍵を使って侵入したのは…。そして、玄関から直接、和室に向かっている。指紋からも、足跡からも、家中を動き回ったり、タンスやらを物色した形跡は、出てこないのです」

「なぜ、なのでしょう」

 老眼鏡と三日月形の眉に縁取られた両目が、両の手のひらに広げられた手帳を離れ、正面に据えられた。

「男が忍び込むのと前後して、体調に異変を来したのではないですかな。実は、エレベーターが故障していたようですしね」

「エレベーター? 私は知りませんでしたが、いつのことですか」

 池永刑事の視線が再び、黒いカバーの、小さな手帳に落とされた。

「えーと、日曜日の午後五時四十分に、故障時の自動通報装置が鳴り、エレベーターの保守管理会社から人が出された。修理が終わったのが七時十分。これは、お宅のマンションの管理会社からの聞き込みでして」

 刑事は一息入れると、面を上げた。集中する目色を見せて、話し続ける。

「エレベーターが使えなかったら、住んでいる人間は、仕方なく外階段に回るでしょうね。二心を持った男も、オートロックを通り抜けた後で、エレベーターの故障に出くわせば、そうするかもしれない。えっちらおっちら階段を使って、九階まで上がる。それは持病持ちにとって、気分が悪くなるほどの激しい運動だった。潜かに手に入れていた合い鍵を使って、お宅に侵入し、取り敢えず体を休めようとしたが、回復せずに突然死した。こういうふうにも考えられますな」

 意表外な推理が、律子を戸惑わせた。本当に、男は外部からやってきたのか。隣戸の903号室から忍び込んだのではなかったの か。

 寡黙になっている彼女に構わず、ベテラン刑事の説明が続く。

「その男の死因は、えー、脳幹部分における脳出血。細かい病理検査やらに手間取って、医者の最終的診断が出るのは一カ月後ですがね、ほぼ脳出血による急病死と見て間違いないのです。

 男は元から、高血圧症の持病を持っていた、と監察医は言っています。人間、五十代ともなれば、たとえ元気そうに見えようと、誰もが脳の血管はかなり傷付いているらしい。そういう状態で、高い血圧を長く放っておくのは、もってのほか。こりゃ、怖い。脆くなった動脈の一部が破れて、脳出血を起こしてしまうのが、怖いのです。特に、脳幹と言って、生命を維持する脳に出血が起こってしまうと、突然死につながりやすい、とのことでしてね。

 いや、あまりに辛気臭い話は、もう止めにしましょう」

 開かれていた黒い手帳が閉じられ、茶色い上衣の内ポケットに戻された。

「とにかく、男に前科があったとしたら、身元はいずれ、わかりますから。今は逮捕歴のある人物の指紋は、コンピューターに登録されていましてね。指紋照合が随分、スピードアップされてるんです。鑑識のほうが作業に取り掛かれば、該当者が割り出されるかもしれない。あ、そうそう」

 池永刑事が、右側に座る若手刑事を振り向いた。

「例のあれを出してくれないか」

 指示された田村刑事は、ソファーの足元に置いていたブリーフ ケースを引き上げて、膝の上に乗せると、丸めた画用紙を取り出した。ためらいがちに、ベテラン刑事の顔を窺う。

「本当に、よろしいのですか」

 池永刑事は若手には答えず、律子に向き直った。

「神経を逆撫でするようで、心苦しいのですがね、男の復顔絵、つまり、まあ、生きていた時の顔を再現した似顔絵ですがね、これを一つ、見てもらえませんか。もし、坂本さんに少しでも見覚えがある顔だったら、捜査が進めやすいですからな」

「はい、よろしいです」

 リアルな写真とは違う。似顔絵を目にしても、動揺することもないだろう。律子は即座に了承した。

「こちらです」

 田村刑事が、引き伸ばした画用紙を反転させると、上体を折りながらテーブルに押し進めてきた。

 

 中年男の蘇った顔が、律子を見上げていた。予期していたより漫画的ではなく、写実的な肖像画に近い絵で、彩色が施されてある。

 縦に、横に皺を刻んだ、まさに五十代の顔。いわゆる指名手配犯みたいな、生気の感じられない表情。同じく、何となく四角張った輪郭をしていて、何を考えているのか読み取れない、強張った表情。ただし、交番などに張り出されている人相書きと異なり、目はどんよりと濁ってはいず、やや和やかな光も放っている。

 見詰める復顔に、二つの顔がダブった。

 一つの顔は、二日前、自宅マンションの和室で見下ろした、土気色の死に顔。もう一つの顔は、春の初め、マンション九階の共用廊下で見掛けた、不機嫌な生き顔。

 どちらも、図らずも目にしてしまった顔だった。共通していたのは、年格好と、気難しい印象と、ノータイのラフな服装。死に顔から描き起こされた復顔も、目にかすかな和気が認められる以外、すべてを満たしている。白い物が目立たぬ黒髪、骨張った顔形も、似通っている。

 いや、しかし。人相は似通っていても、三つの顔が同一人物の物と断定するには、根拠が薄弱すぎないだろうか。

 直視に耐えられず、視線を外した瞬間を捕らえ、聞き慣れた声が返答を促した。

「どうですかね。心当たりはありませんか。どこかで一度は言葉を交わしていないか、どこかで擦れ違った顔と、雰囲気が似ていないか。うろ覚えでも構わないから、遠慮しないで言って下さいよ」

 池永刑事の最後の文句が、律子の迷いを払った。

「軽々しく決め込むわけにはいかないのですけど…」

「いや、それで、けっこう」

「感じの似た人なら、一度だけ、見掛けたことがあるのです」

「どこで?」

 高い声を発して、池永が身を乗り出した。

「私のマンションでした。お隣のドアの前に佇んでいる姿を見掛けたのです」

 胸に秘めてきた疑惑を思い切って話し始めると、わだかまりが解けていく。わだかまりとは、分別のある人間を演じ続ける、無意識のストレス。

「隣というと、あなたが90…」

「904号室。お隣が903号室。春先のことでした……」

 律子は、自らの生活を掻き乱した人間の素性を捜査してもらうために、疑惑の中年男を含め、外廊下で出会った903号室への訪問者に触れた。問われるままに、居住者の島田婦人の奔放な暮らしぶりも告げた。

「今の世に溢れている自由恋愛というやつでしょうが、大した爺さん、婆さんですな。こちらは、この年で、あっちのほうは余生だというのにな」

 池永が腕組みをして嘆き、自嘲気味の冗談を付け足した。

「その連中を調べてみる必要がありますね」

 存在感を主張せず、ずっと寡黙を通していた田村刑事が、意気込んだ。

「そうだな、田村」

 池永は部下に流した視線を、すぐに律子に戻した。

「こちらも周辺の聞き込みをしましたがね、マンション内を回った者の報告では、妻に離婚され、幼い娘と暮らしている無職の男がいたぐらいで、不審な人物は見当たらなかったようでして…。隣の老婦人には、留守中で会えていない。早速、また当たってみますよ」

 律子は説明を一つ加えた。防犯の要である玄関の鍵に関して、鍵穴に差し込んだまま、朝から晩まで放置するという、善意を持たない他人に付け込まれても何の不思議もないミスを、一回だけ犯していたことを。

 事実だけを伝えようと心掛け、それ以上、島田婦人を嫌疑する発言は慎んだ。

 すなわち、同じ建物内で隣り合って暮らし、生活パターンを知っている婦人なら、不手際を利用して、904号室の鍵を暗々裏に複製するのも、一人住まいの不在を確認した上、愛人を忍び込ませるのも、決して不可能ではないこと。

 だが、当て推量の域を出ない。今のところ、頭で描いた想像の産物にすぎない。

「うっかりミスに乗じて、例の男に、鍵を複製されていた恐れもありますな。しかし、とにかく、男が何者であろうと、前科前歴者の指紋との照合で、身元を割り出す手がある。初犯であろうと、署で保管している協力者指紋やら、歯医者の治療カルテで調べられる。着衣やら靴やら、その販売ルートから身元を割り出す手だって残されている。まあ、あまり自分を責めたりせずに、我々に任せて下さいよ」

 第二応接室の壁に響いた、池永刑事の張りのある声だけが、手応えのある現実だった。

 

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