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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第六章 第二応接室に忍び込むもの



     

 坂本律子は、少なからず緊張していた。大いに迷っていた。刑事が会社に訪ねてきている、と聞かされたからだ。

 

 千代田区内の神田地区で出張転記と昼食を済ませ、若手社員の佐久間と二人、港区南青山二丁目に所在する東都データサプライ本社に戻ってきたのは、午後一時十五分過ぎであった。

 玄関ロビーの左手に並ぶ応接室、中央に構える二基のエレベー ターを横目にして、右手の奥に進み、殺風景な階段を巡って三階に上がる。

 フロアの手前には資料室が設けられており、見通す限り、スチール製の置き棚やロッカーが列座している。そこに納められた百万社に及ぶ膨大な資料は、過去から蓄積された社外秘の調査記録であ り、日々、新しいデータが加えられ、古いデータも更新されている。室内には、四、五人の社員の姿が垣間見れた。資料室を管理するのも、律子がいる資料課の業務になっている。

 フロアの奥向きにある資料課へ向かって、通路を進んでゆく。左側には、高さ一・五メートルほどの黒いロッカーが、背面を見せて続いている。資料室と通路の間仕切りだ。

 オフィスに通ると、四十脚ほどのデスクは、まだ三分の一しか埋まっていない。資料収集に赴いた課員達が出先から戻り、全員が揃うには、午後二時以降を待たなければならない。

 自席に着いた律子を追うように、小太りの塚田課長が、わざわざ足を運んできた。いつもは、課内を一望する奥まった席から、部下を呼び付けている。

 上司がデスクに片手を置いて見下ろす、その細い目が、こころもち曇っている。

「坂本さん、警察の人が面会に来ているよ。一階の第二応接室で待ってもらっているから」

 周囲の聞き耳をはばかるように、低く抑えた声が告げた。

 『警察』と聞かされた律子は、頬が冷たく強張るのを感じた。突発事件で磨り減った神経は、まだまだ不安定らしい。

「いつ、お見えに?」

 聞き返す声が、変に掠れた。

「そう、十一時半頃だったね。私もあれこれ、しつこく質問されたから、坂本さんの仕事ぶりや人柄をよく説明して、早く解決してくれるよう頼んでおいたからね」

「すみません。課長にまで、ご迷惑をお掛けして」

「いいや、私のことまで気にしなくていいよ。第二だからね」

 傍らから、そそくさと塚田課長が立ち去り、律子もあおられる形で、急に重くなった腰を上げた。

 

 刑事のほうから会社を訪ねてきた真意は、どこにあるのだろう か。

 自宅マンションで死んでいた男と自分が親しい間柄にあったのではないかと、いまだに容疑を持たれている証なのだろうか。捜査線上にある身で、隣人の島田婦人に対する、複製鍵を介在にした疑惑を口にするのは、厚かましいのではないか。もっとも、死者の身元を、すでに警察が突き止めたのであれば、世話がないのだが。

 思案しながら、上がってきたばかりの階段のステップに一段、一段、ゆっくり、ゆっくり、ヒール高・三センチのタウンパンプスを落としてゆく。

 誰もいない玄関ロビーを横切り、三つ並ぶ応接室の真ん中、小さく『二番』と表示されたドアに歩み寄る。二度ノックし、呼吸を整えつつ、ノブを静かに回した。

 向かって左の三人掛けソファーから、二人の男が居住まいを正して、立ち上がったところだった。手前が青年で、後ろが中年。

 見覚えあり。JR大塚駅近くに構える巣鴨警察署の刑事。緊張が少し和らぐ。確か、自宅マンションがある豊島区東池袋二丁目に関して、三分の二を巣鴨警察署が管轄し、三分の一を池袋警察署が範囲にする、と聞かされたはず。

「ご苦労様です。どうぞ、お座り下さい」

 男達が座り直すのを見届けてから、律子は反対側のソファーに腰を落ち着けた。ベージュ系パンツの膝に両手を重ね、背筋を伸ばし、相手方の出様を待った。

 

「あんた、嘘を吐いていたね! マンションで死んだ男は、あんたの愛人だったんじゃないか!」

 と、形相を一変させた刑事に、凄まれることはなかった。

「この辺は、しゃれたブティックだらけなんですね~」

 古顔の刑事が、薄い笑みを浮かべながら、拍子抜けするほど、のんびりした口調で持ち出したのは、事件とは無関係な雑談だった。

「ええ、多いですね」

 ベージュ系ジャケットに包んだ肩の力が、ふっと抜ける。渡されていた名刺が思い起こされる。池永刑事。記憶が正しければ、刑事課の主任の地位にある巡査部長。

「この田村と」

 右隣の若々しく、ちょっと生意気そうで、少々頼りなくも映る刑事を顎で示し、

「昼飯を食べる所を探して、ぶらぶら歩いてみたんですがね。どのブティックを覗いても、数えるほどの客しか入っていない。商売になっているのか、心配してしまいましたよ。まあ、相手には余計な、お世話かもしれませんがね」

 そう続けた坊主頭の池永刑事は、一昨日の初対面と同じように、腫れぼったく、眠そうな目をしている。着ている茶色の上着も、完璧に同じである。観相するところ、他人との間に隔てを置かぬ躁鬱質の性格なのだろう。気安く、よくしゃべる。

「あまり、お店自体の売り上げは、気にしてないのかもしれませんね。デザイナーのアンテナ・ショップ、そういう意味合いもあるようです。物を売っているのではなく、ライフスタイルを提案している。そう宣言しているブティックさえ、あるくらいです」

 わずかに首をひねりながら、律子が受けた。

「なるほど、ア、アンテナ・ショップですか」

 理解しているのか、いないのか、はっきりせぬまま、相手が話題を変えた。

「今日は突然、お仕事中にお邪魔して申し訳ありませんでした。実は、我々二人が、事件の専従捜査員ということになりましたんで、その挨拶に…」

「そうですか。よろしく、お願いします」

 捜査側の本音を代弁すれば、住居侵入の被害者で、死体の第一発見者のアリバイを確認し、私生活に男の影はないかと探る意味も あって、会社を訪問してきたのだろう。

 一瞬、間を置いてから、律子は思い切って正してみた。

「私が本当に、月曜日に出勤していたのか。それも、お調べに見えたのではないですか」

 対面する眠そうな目が、細くなり、力が宿った。

「一応、それもありますよ。単純な物取りだったら、まあ十中八九、被害者には思い当たるところがないものです。しかし、まだ、怨恨やら痴情、異常者の線も捨てるわけにはいかない」

 参考人を制した池永刑事の厳しい目は、すぐさま和み、熱弁に手振りが加わる。

「坂本さん本人は気付いていなくても、もし、あなたを恨んでいたり、勝手に恋慕していた男だったとしたら、人間関係から身元が絞り込まれるかもしれない。まず何よりも、被害者から情報を聞き出すのが、我々の基本なんですよ。あなたの関係者やら、利害がつながる人間、そういった人達への聞き込みも、大切なんです。ゴホン、ゴホン……。いや失敬」

 顔を伏せて咳を払った池永刑事が、上体をソファーの背もたれに預けると、おもねるような、ほほ笑みを浮かべる。

「それに、今の警察は昔とは一味、二味、違ってきているんですよ。まだまだ世に知られてないが、被害者に寄り添う方向で、ちょっとした改革を試みている。例えば、お望みならば、あなたに一週間、援助班を付き添わせてもいいのです」

「援助…班ですか?」

「そう、被害者援助班員。初耳で?」

「ええ」

「我々みたいな捜査員と違って、被害者を支えるのが仕事という、まあ、新しく置かれるようになった専門職員ですよ。悩みの聞き役になったり、連絡役になったりしますよ。それから、病院やらへの送り迎え役にもなりますよ。どうですか?」

「私には、付き添っていただかなくても。もう落ち着いているつもりですから…」

「そうですか。それは何よりで」

 多弁家がしばし、沈黙した。上着の内ポケットを探って、黒いカバーの手帳を取り出す。眼鏡を顔に当てる。五十歳前後の年齢から推して、老視を補正する眼鏡なのだろう。

「ゴホン…。せっかく落ち着きを取り戻されているのに、言いにくいのですがね……」

 老眼鏡が、手元の手帳と律子の顔をためらうように行き来した。

「簡単に、その後の経過を説明します。思い起こすことがあったら、遠慮なく言って下さいよ」

「はい」

「えー、監察医の見立てによると、侵入した男は朝、そう十月二十二日、月曜日の朝、六時、ないし七時頃に亡くなっている、のです」

「朝ですか?」

 律子の心中が騒いだ。もしかすると、マンションの隣戸がらみの仮説は正しいのかもしれない。

「そして、ほぼ十二時間たった夕方六時十五分頃、帰宅した坂本さんに発見された。念のために聞きますが、あなたは土日を埼玉県は、志木市の実家で過ごし、月曜には実家から直接、ここ港区南青山にある東都データサプライに出勤した。夕方五時まで、資料を集め、整理する仕事に従事していた。それに、間違いはない?」

「はい、間違いありません」

呼び起こされた寒々とした光景が、律子の顔を青ざめさせた。

「豊島区にあるマンションに帰宅された時、住まいの電気が、つけっ放しだったことも、間違いない?」

 

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