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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥
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昼食は、今日のパートナーの佐久間が「うまいですよ」と勧める、出先近くの天ぷら屋で済ませることにした。
課員にとっては、都内の各所に出歩くのが主要な仕事だから、手頃な値段で味にも満足できる市井の飲食店や、安くて味にも納得できる官公庁の職員食堂については、皆、一家言を有している。
佐久間に案内された天ぷら屋は、雑踏を逃れた裏通り沿いに、一戸建てを構えて営業していた。
障子をあしらった店内は、サラリーマンや制服のOLで込み合っていて、白木のカウンター席の端に通された。目の前の板場では、白い割烹着を着た二人の料理番が、そつのない動作で揚げ物を調えている。見立てでは、老主人と息子。
「こちらのお客さん、天丼、二つ」
緑茶を運んできた女子店員が、注文を板場に伝え、傍らを離れた。
律子は一口、喉を潤してから、豊かな頬肉が目立つ、佐久間の横顔に問い掛けた。
「何か、悩みでもあるの? この頃、元気がないみたいだけど」
入社して二年半の佐久間とは、幾度もペアを組んで資料収集に赴いているため、おおよその人となりはわかっている。色白の丸顔に丸眼鏡、脂肪質の体。お寺の次男坊だという二十代前半の青年は、大声を出すことのない、おとなしい性格で、若鮎が飛び跳ねるような生新さには欠けていた。
それにしても、最近の彼は精彩がなさすぎる。朝礼中に上半身を屈め、こそこそ入室してくる遅刻を繰り返し、時々、欠勤している。
佐久間がおもむろに振り向いて、長くて薄い眉を上げた。
「坂本さんは、転職した経験ありますか」
「幸か不幸かわからないけど、私は、内の会社しか知らないのよ」
「僕のほうは、この会社でやっていく自信が、なくなってきたんですよね」
「そうなの。それで元気がないのね」
「正確に言えば、調査員に上がって、やっていく自信をなくしたのですけどね…」
調査員とは、民間の信用調査機関の主力で、本社の調査各課や全国の支店に所属する社員。新入社員が調査員を志す場合、まずは資料課などに配属されて、会社業務の基本、社会人の常識に通じることを義務付けられている。最初の部署で数年間、つつがなく過ごし、適性があると判断された者には、調査依頼を第一線に立ってこなす調査員への道が開かれる。
資料課では、同じ業務に長く携わっているのは、塚田課長や律子を含めて五人ほど。毎年四月、新たに配属される大卒の男性社員達や、不定期で採用するアルバイトで人員を補充しながら、適宜、数人ずつ、調査員の卵に登用された課員を、調査課や支店へと送り出している。
カウンター席に隣り合う、背広姿がやっと似合うようになった若者は、調査員の適性がないと自ら判断し、進路に悩んでいたわけだ。語尾が力なく下がる話し振りに、心の迷いが表れているようだ。
「僕は本が好きだから、校正の仕事のほうが向いているんじゃないかと思って…。通信教育で資格を取る勉強を、まじで始めたんですよ」
「佐久間君、データサプライを辞めて、出版社にでも入るつもりなの?」
「いや、違います」
「違うの?」
「フリーを目指しているんですよ。フリーの校正者を」
「どうして、また? 組織になじめないから?」
「それも、ありますね」
君の転職計画は、甘すぎないか。適職探しに挑戦する熱意は買うとして、独力で進む道を選ぶのは無分別というもの。実社会に数年、揉まれただけの青年は、わかっているのだろうか。
「大きな組織でも先を読み違えばガタガタになる、ご時世だけど ね。校正者で、しかもフリーランサーでよ、お金を稼いでいくのは大変でしょう? ボーナスだって入らないでしょう?校正の仕事は一文字当たり何円という世界、と聞いたことがあるけど」
「いや、違いますよ。何円じゃないんです」
佐久間がきっぱりと、言い切った。
「え?」
「一文字の校正料が何十銭、と計算する業界ですよ」
「それじゃ~、暮らしていくだけでも大変よね。よい手づるをつかまないと、企業倒産ならぬ自己破産まで、心配しなければならなくなるわね」
丸眼鏡の奥の目だけ笑わせ、二呼吸置くと、静かな青年が口元を引き締めた。
「覚悟はできているんですよ。今の収入の半分に減ろうと、合わない仕事に就くよりも、ましじゃないかと思って…。図太い神経を持っていないと、内の調査員は務まりませんからね」
「ある程度、そうかもしれないけどね。習うより慣れろ、とも言うし、調査員にならずに、別の部署で働き続けてもよいのよ」
「いや、肩身が狭いですよ。内の会社で、大卒の男が調査員にならなくては」
なるほど、興信業を営む東都データサプライでは、そういう暗黙の社内ランキングが存在している。調査員が花形なのだ。
肩に追う任務は、顧客から調査を発注された企業に対する、営業状態や財産の評価と、信用程度の格付け。調べた信用情報の提供を通じて、不況の陰で急増している整理屋、パクリ屋といった詐欺師から、取引先の企業を守ることに使命を感じ、誇りを持っている中堅社員もいる。
反面、その任務は、間者のように、犬のように、内々の事情を嗅ぎ回る宿命を帯びている。うだるような暑さを厭わず、あちこちの現場へ足を運んで、生データを得る体力もなければならない。吹き荒ぶ寒風を突き、歓迎してくれるとは限らぬ相手を求めて、次々と面会をこなしてゆく精神的タフさも、持ち合わせていなければならない。
佐久間が指摘するとおり、図太さ、押しの強さをも必要とするのが調査員の業務であり、他人に会うのが苦手な人間には、不向きな職種かもしれない。内気な若者にとっては、出版物の文字を相手にする校正者に転身するのが、正しい選択かもしれない。
しかしながら、組織を離れてフリーランサーになるのは、何百人を収容する大型フェリーの窮屈を嫌って、一人乗りの小舟に乗り換えるようなものだろう。大海から寄せる青いうねりに押し戻され、虚しくオールを操る青年の姿が、律子には見えてしまう。
「だけど、せっかく競争率の高い会社に入ったのでしょう。少なくとも三年、できれば五年くらいは辛抱しなければ、将来のためにならない。私は、そう思うけどね。どんな仕事に就いても長続きのしない、中途半端な人間になってしまうと、自分が惨めよ」
説得を試みながら、彼女は佐久間の白い顔に、弟の面差しをダブらせていた。
弟の忠は三十三歳になるが、大学を中退してから、ずっと肉体労働のフリーターを通している。決して、充実した人生など送ってはいない。
「僕も、それはわかってますけどね…」
「佐久間君」
白木のカウンターに視線を落としていた若手社員が、また振り向いた。
「私が言うのもおかしいかもしれないけどね、努力できるのも、我慢できるのも、人間の才能の内なのよ」
「今日は格好いいことばかり、連発しますね、坂本さん」
「今日も、でしょ?」
「え、え~。まあ、ハッハ、そういうことにしておきましょうか」
軽口のラリーに苦笑を漏らしながら、佐久間が続ける。
「それはともかく、頭ではわかっても、努力したりとか、我慢したりとか、凡人には続けていくのが、なかなか難しくて…。それにですよ、調査課に上がると、物事を裏から見たりとか、人を勘ぐったりとか。自分が疑り深い性格に変わってしまいそうで、嫌なんだ な」
「私も、仕事や地位が、その人の性格に影響するとは思うけど。どう~なのかしらね」
「性格的には、鶴岡みたいなタイプが、一番合っていると思いますよ。調査員にはね」
「ああ、鶴岡君ね。二人は仲が良いようだけど、彼は、あなたの一年後輩に当たるのでしょう」
「そうですけど、年のほうは、僕より二つ上ですよ。あいつ、三年ぐらい浪人して、大学を卒業したのが遅かったから」
「鶴岡君は、絵に描いたような唯我独尊タイプよね。敵か味方か、好きか嫌いか、はっきり分けているみたいだし……」
「強気な男ですからね。知ってますか?」
「何を?」
佐久間が声の質を変えて、付け加える。
「年上の先輩を、急に呼び捨てに、し始めたんですよ」
「先輩と言うと、誰を?」
「青柳さんですよ」
「どうして、また?」
「尊敬できない奴だとわかったから、もう『さん』付けはできない、と言うんですよ」
「あら、あら」
「大した男ですよ、鶴岡は。僕には、とてもできないな、あんなまね」
個性的な若手社員は、頼もしくもあり、危なっかしくもある。欠席裁判に律子が失笑した時、先刻の女子店員が天丼セットの盆を運んできた。
「大変、お待たせしました。お茶、お代わりしましょうか」
「はい、お願いします」
客への気配りに、手抜かりはなかった。料理の出来栄えも、客を招くプロの手並みだった。丼に盛られた温かい御飯、その上に並べられた揚げ立ての天ぷらと、味に一工夫された天つゆが程よく調和している。
割り箸を動かしながら見渡すと、昼食時の最大ピークを過ぎて も、店内は立て込んでいる。
「この店、特に垂れがいけるでしょう」
隣から得意気な声が掛かり、律子も快活な声で応じた。
「そう、おいしいわ。ほんのり甘くて、ね」
佐久間は、東都データサプライに、いつまでもいる人ではない。虫の知らせに抗うように、一言、足した。
「また、一緒に来ましょうよ」
自分に自信が持てずに苦しんでいる青年は、無言の笑顔を返してきただけだった。
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