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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第五章 厚化粧の隣人と男達



     

 律子はダイニングテーブルに取り合わせた椅子に腰掛け、レースのカーテンを透かして、大都会の夜景を遠望している。彼女の視神経は、意味を持つ光刺激を何も伝えてこない。大脳の新皮質はただ、推理の整合性を求めて、休むことなく働いている。

 やはり、鍵が事件の急所を握っているのだろう。他人の命綱である鍵を島田婦人がかつて、不正に所持した上、数日前、その鍵を持ち出したと仮定すると、自身が巻き添えを食った事件が、あっさり解き明かせるのである。

 封印されていた複製鍵が使われた場面を、律子は思い描いてみ る。たぶん、関係者の善悪の判断を狂わせるような、切迫した状況があったのだ。

 

 一昨日の日曜日……。島田婦人の自宅には、男の訪客があった。訪客は、共にシニア世代なりの青春を楽しむ同士の一人。

 例によって、二人だけの盲目的で、刺激的な一夜を明かす目算に、予定外の訪れを告げるインターホンの音が、水を差した。

 久しく不音を通していた婦人の娘が、電話連絡を省いて直接、マンションに出向いてきたのである。

 不測の事態に、居室の空気が張り詰めた。親の爛れた男女関係を、子供に知られてはまずい。愛人に急いで帰ってもらうにしても、建物内で娘と鉢合わせする危険性が高い。別室やバルコニーに身を隠してもらうにしても、微かな物音や、ちょっとした気配で察知される恐れが大きい。

「俺、ベランダへ出てようか」

 同憂の士の、どら声が、提案した。

「駄目よ〜。気付かれるに決まってる」

「それなら、隣のベランダへ移れば、気付かれないさ」

「何階だと思っているの。落ちたら、すぐ夢の中よ。…そう、そうだわ。ちょっと、待ってて」

 相方が口走った窮余の一策に触発されて、婦人は慌てふためきながらも、隣の住居を表から開ける鍵の存在に気付いた。

 もう一刻の猶予もならない。娘を乗せたエレベーターが、すぐ九階に上がってきてしまう。間もなく、玄関のチャイムが鳴らされてしまう。愛人を隣戸に緊急避難させるしかない。

 婦人は覚悟を決めて、キャビネットの引き出しから複製鍵を持ち出し、男の汗ばんだ手のひらに握らせた。

「これを使って、隣の部屋へ入っていて」

「隣?」

「廊下の一番奥の部屋よ。隣の彼女、いつも週末は、留守なのよ」

「大丈夫か。ばれたら、大変だぞ」

「月曜の夜まで帰ってこないから、大丈夫よ。早く、早くしてよ」

 女の手が、男の厚い肩を押しやる。

「わかった、わかった。だけど、あんたがどうして、こんな物を持ってるんだ?鍵を預かるほど、親しくしてないだろうが」

「訳は後で話すから」

「あんたも、相当な悪だな」

 女の声が、金切る。

「早く、行ってたら!」

 

 今、そんな会話を想像する律子当人にすれば、伏流のように潜っていた災いが、ついに地表に浮上する時がきてしまったのだ。

 隣人同士の生活パターンなど、強いて知ろうとしなくても、おのずからわかる。週末に坂本律子が不在がちなのは、エレベーターホールの集合郵便受けに溜まっている新聞や郵便物、日が沈んでも灯らない窓明かりで、容易に知られてしまう。

 

 さて、曰く付きの合い鍵を渡され、急かされた中年男は、まだ幸運に見放されていなかった。

 恐る恐る出た外廊下は淡い蛍光灯の下にひっそりと横たわっていて、誰にも見咎められずに904号室のドアを開錠し、闇の中に身を滑り込ませることができたのだ。

 確かに、室内に人の気配はない。愛人宅と同じ二LDKの構造のお陰で、スイッチ操作などの見当は付いた。一坪ほどの沓脱ぎと、細長い廊下に点灯し、しかめっ面をしながら、シリンダー錠をロックし、黒い革靴を脱ぐ。靴下のままカーペットを踏み、奥の部屋に向かって進む。

 誤算は、体の内部から突然、襲ってきた。頭が痛い。物が二重に見える。息が荒い。足取りがふらふらする。

 奥の二部屋に照明を入れると、男は和室に置かれた炬燵の中に、倒れ込むようにして体を投げ出した。

 頭にのし掛る、ずっしりとした重み。めまい。

<ただごとではない。体の調子が、ただごとではない>

 次第に意識が薄れていく。ぼんやりとして眠り出し、人事不省に陥る……。

 中年男と彼の愛人である島田婦人にとっての不運は、二つあっ た。一つは、男が数日前から過労気味だったこと。一つは、切羽詰まった末に愛人宅から逃避し、他人の住居に無断で侵入し、住人の思い掛けぬ帰宅を恐れるという、混乱と緊張と憂慮の連続が、意想外のストレスとなったこと。

 二つの不運が重なって、中年男は赤の他人の家で、脳卒中か心臓病の発作で突然、果ててしまった。還暦を前に、余生を送ることのなかった若死にである。

 元々、男は内柔外剛。強面の外見と、横柄な言葉遣いは、気の弱い性格の隠れ簑であったのだ。

 

 昨日の月曜日、今日の火曜日……。島田婦人は、ここ数日、留守にしているらしい。

 察するところ、急用で訪れた娘に請われて外出したまま、彼女が帰ってこないのだとしたら、月曜日の904号室で、愛人が変わり果てた姿で発見され、騒ぎになった顛末を知らないのではないか。

 一方、日曜日の夜、娘が長居したか宿泊し婦人が在宅していたとしたら、隣戸に避難させた愛人に対しては、日付が改まる前に帰宅することを、暗黙の内に望んだであろう。

 その場合、月曜日の夜に至って、マンションの緊迫した出入りに驚いた婦人は、不正な企みが露見するのを恐れ、取るべきものも取らずに姿をくらましたのではないか。

 律子には、島田婦人の不在の理由までは、特定できない。しかし、家宅侵入を企んだ張本人が彼女で、共謀者の素性を知っているのも彼女という一連の見立てには、綻びはないはずだ。侵入して死亡した中年男が室内を物色したり、貴重品を盗んだ形跡がないのも、島田婦人の愛人説でつじつまが合う。

 念のため、飛躍した推理だと半ば否定しつつ、律子は別の角度から、複製鍵が使われた場面を思い描いてみる。

 904号室の鍵を開けたのは、中年男ではなく、実は島田婦人。彼女の目的は、死体の遺棄。自室の903号室を訪れていた密通相手が急逝し、処置に困って潜かに作ってあった他人の鍵に頼り、無人の隣戸に運び入れた。

 老けた女の細腕であるから、手助けした第三者が介在しただろ う。忠実な協力者は、もう一人の愛人。あの、夜の外廊下で、開錠に苦戦していた眼鏡の中年男。

 死者と隣人を汚す厚顔無恥な振る舞いであるが、しかし、矛盾が生じる。

 警察からの伝え聞きでは、904号室の合い鍵は、死者が所持していたのである。律子が月曜日に帰宅した時には、玄関ドアを始めとして、すべてのガラス窓が施錠されていた。室内に合い鍵が残されている限り、死体を運び入れた人間達が退出する際に、施錠していくことは不可能。

 その死体を遺棄した中心人物が、904号室の鍵を二つ以上、複製していたなら可能だが、そこまで用意周到に構えるのは不自然にすぎる。 

 結局、島田婦人に唆された中年男が、自らの足で他人の住居に逃げ込み、過労とストレスから不慮の死を遂げたと考えるのが、妥当なのではないか。

 導き出された結論は、律子に人間への不信感を募らせると同時 に、いくばくかの光明も与えた。事件の解決が、意外に早いかもしれないのだ。

 

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