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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
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夕食を終えた律子は、キッチンに立って給湯器を使っている。脳裏から中年男二人の面影が消え去らず、皿洗いに動かす手を鈍らせる。
二人とは、かつて、九階の共同廊下で擦れ違った隣室の客人。わけても、年長の人物の容姿が、気に掛かる。
一度ならず二度、巡り合っているのではないか。一回目は903号室の玄関前で、二回目はこの904号室の和室の中で。最初は生き身に、最後は死に身に。
胸苦しさに耐えながら、慎重に記憶のページをめくっていく。
彫りの深い顔。縦皺を刻んだ眉間。がっしりした顎。黒みを帯びた皮膚。白い物が目立たぬ黒髪。全体の面相から受ける、がさつで、気難しいイメージ。それが昨夜、自宅の炬燵に足を突っ込ん で、事切れていた中年男だった。
身長百七十センチ台前半。骨張った四角の顔。一癖ありげで、横柄そうな奥目。五十五歳格好なのに、染めているのか、かつらを被っているのか、霜を置かぬ頭髪。それが春先、隣戸の前で見掛けた中年男だった。
両者は四角張った顔形、ふさふさとした黒髪、周囲から敬遠されそうな雰囲気が類似し、ノーネクタイのラフな服装が共通してい た。
生き顔を一度目撃しただけの男と、横たわったままの死に顔で再会したために、同一人物と見抜けなかったのではないか。すでに活力をなくした不帰の客の表情は、生きている時の張りを失っているものだ。
動転。慨嘆。傷心。不幸な発見に、感情の起伏を余儀なくされてから、すでに二十四時間以上が経過している。自分自身では、冷静に回想できる落ち着きを取り戻しているつもりだった。
胸の疑惑が、増幅していく。悪い想像が、確信に変わっていく。同じ男だった場合、間違いなく島田婦人が関与していることにな る。
隣り合って暮らす婦人なら、律子の住居の合い鍵を暗々裏に作ることも、一人住まいの不在を確認した上、愛人を忍び込ませることも、決して不可能ではなかっただろう。生活パターンを知られている婦人が、悪意の企ての張本人だとしたら、完全に防ぐ手立てはなかったのかもしれない。
というのも、防犯の要である玄関の鍵に関して、一回だけ不手際を犯した記憶も、蘇ってきていたのである。
常になく気忙しい早朝の出来事であった。シリンダー錠をロックした鍵を鍵穴から抜き忘れたまま出勤し、日暮れてマンションに帰り着くまで、不注意な行為自体をすっぽりと半日、忘れ去っていたのである。
善意を持たない他人に付け込まれても、何の不思議もない重大ミス。災いしたのは、自己の集中力の欠けた体調と、決算期を控えた会社業務の忙しさ。加えて、両親の在宅する実家に居着いていた際、出勤時に鍵を掛ける習慣がなかったこと。
共同玄関のオートロックは、万一に備えて財布のインサイドポ ケットに入れていた予備の鍵で解除し、自室の玄関扉に放置されたままの貴重品を発見した。最悪の事態を覚悟していた、うっかり者は、胸を撫で下ろして長大息し、外部の者の出入りを制限する、いわば門番の役割を果たす、オートロックの安全性を大いに評価し た。住居内でも、目に見える実害は認められなかった。
当時は、自分の散漫さを戒めるだけですんだが、誰かに乗じられていた可能性も、なかったわけではない。
真っ昼間、黒いドアに差し込まれたまま、クロム・イエローの光沢を放つ金属は、十分に人目を引くだろう。ふと目にした何者かの心に、ある意思が芽を吹いたとしてもおかしくはない。細長い廊下に人影はない。五歩、足を進めるだけで手が届く。煩悩の犬は、いよいよ抑え難い。
<さあ、捨て置くことはない。さあ、チャンス。さあ、さあ>
軽い悪戯心が動いて、素早く近寄る。魔の手が伸び、持ち主にとっての命綱が、鍵穴からあっけなく抜き取られた。彼か彼女が代償に払ったのは、ほんの少し激しくなった鼓動だけだった。顔には含み笑いが浮かび、発想は危険な方向へと膨らんでいく。
近所の商店街への買い物ついでに、金物店に立ち寄り、他人の鍵の複製を依頼する。『合いかぎ三分』と掲げられていた立て看板に偽りがあって、十分近く待たされても、依頼主は頓着しない。
帰宅の直前、人の気配を窺いながら五指をすぼめて、寸借した鍵を原状に差し戻す。
<これで、小さな秘密が、ばれる心配はない。この私に限って、人様の鍵を使うつもりなど、あるわけはない。ほんのお遊び、お遊び>
自宅に戻った何者かは、複製した鍵をコレクションの一つとし て、キャビネットの引き出しの中へ保管する。
何しろ、マンションの共同廊下というパブリックな空間に長時 間、悠長にさらされていた鍵である。不届き者が誰であっても、戯れ事をしおおせるのに、十分すぎるほどの時間的余裕があっただろう。不届き者が隣戸の島田婦人であったなら、少しのスリルを味わうのに、毛の末ほどの手数しか要しなかっただろう。
律子には、午前中に会ったばかりの管理員の指摘が、真に迫って思い返される。
「まあ、外をうろついている泥棒についちゃ、防ぐ手もないわけじゃないよね。俺達のような管理人だっているんだし、人目ってものもあるからね」
「どうにも始末におえないのは、建物の中に危ない奴が住んでることじゃないの。今の世の中、泥棒だけでも、本当に多いらしいよ。日本人の四百人か五百人に一人は泥棒だ、とか言うんだからね」
「何せ、泥棒で捕まる連中が、一年で十六万人もいると言われていたんだよ、あんた。……それは日本中で、だけどね。ともかく、事件のほうは、一年で二百七十万、いや違う、一年で二百七十三万件も、起こっているらしいね」
蘇った管理員の言葉に煽られて、同じ建物内の危険人物への不信感が募っていく。
古来、素行不良の人物は、周囲から必要以上に警戒され、あらぬ嫌疑さえ掛けられる宿命から免れ得ないもの。
しかし、島田婦人への嫌疑は、突飛なものではない。邪推でもない。手掛かりとなるのは、合い鍵とノーネクタイの中年男。変死した男の身元が判明し、鍵の複製が裏付けられれば、彼女の関与が発覚するはずだ。
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