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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第五章 厚化粧の隣人と男達



     

 律子は夕食の箸をゆっくり動かしながら、冬のある日、島田婦人とエレベーターに乗り合わせ、声を掛けられた情景を目の先に映している。

 

「904号室の方じゃないですか」

「はい、そうですけど…」

 エレベーターホールから二人で乗り込み、間近に立ったのが島田婦人と見定め、急いで言葉を足す。

「引っ越してこられた折は、すてきなタオルセットをいただきまして」

 面と向かって話をするのは、三度目だった。婦人は黒い毛皮のコートで着飾り、頬紅を際立たせ、別人のように華やいでいた。

「あー、いいえ〜。こちらこそ、荷物を預かっていただいたり、お世話になっておりまして。…あの、うるさくないですか?」

 唐突な質問が返されたが、律子は意味を理解した。幼児を含めて人の出入りが多い自室の音が、隣室に響かぬものかと、気遣っているらしい。

「いえ、うるさくないですよ。音は全く聞こえませんから」

「そうですか」

 こちらの顔を覗き込んでいた婦人が、若作りの眉を広げた。

「鉄筋コンクリートのマンションですから、横の防音はしっかりしているみたいですね。上下階の生活音のほうが、伝わりやすいと思いますけど」

「はあ、そうなんですか」

 エレベーターは、微かな振動を伝えてから停止し、最上階に着いたことを知らせた。開いた扉に廊下へと誘われ、二人は丁寧な挨拶を交わして、それぞれの住居に別れた。

 

 今になって思い返せば、化粧法を変えた人の妙な質問には、別の思惑も含まれていたようだった。

 

 しばらく経つと、会社帰りの律子がマンション九階の共同廊下を過ぎる際、石鹸・シャンプー類の匂いを度々、嗅ぐようになった。

 浴室から換気口を伝わって漂い出てくる一種、心地よい香りは、源を903号室に発していた。住人の生活時間が変わったことが、想像された。当時の律子が帰宅していた午後七時前後が、入浴に割り当てられるようになったのだ。

 しかし、たまに午後八時頃に帰っても、廊下の空気は香料混じりだった。一人住まいの島田婦人が風呂好きだとしても、長湯にすぎよう。

 律子は、好意的に解釈した。覆水が盆に返った結果なのではないか。たぶん、婦人は長年、夫婦として暮らしてきた男性と和解し、再び同居する道を選んだのだ。心の中に浮かんだ笑顔に、エールを送ることにした。

<何よりでしたね、お隣さん>

 それが傍観者の単純で、お門違いな推量だったと教えてくれたのは、新たに隣戸を訪れるようになっていた男達だった。婦人の親族と違って、実に物静かな人達だった。

 最初に目撃した夜の訪客は、903号室の前に一人で佇んでい た。エレベーターから901号室の前に出た律子は、廊下の中程から向けられた視線を感じて、瞳孔を広げた。

 ブレザー姿の中年男の、ノーネクタイが目を引いた。月日は流れ、オーバーコート一枚分、身軽になれる時節を迎えていたわけである。

 見掛けたことのない顔で、思わず、ほほ笑み掛けたくなるような渋い趣を持つ紳士では、まるでなかった。髪は豊かで、白髪も目立たぬが、五十五歳は超えているようだった。律子は一瞬、全身を竦ませ、不審の目を返しながら進んで行った。

 相手は癖のある、気難しそうな奥目を伏せて、身を捩りながら、なおドアの前から離れなかった。島田婦人が不在なのか、出てくるのに手間取っているだけなのかは、知る由もなかった。

 律子は男の背中を擦り抜け、自室の前に立った。玄関の錠前を開ける一連の動作が、なぜか、もどかしく感じられた。

 次に目撃した訪問客は、細身の体にジャンパーを着込み、眼鏡を掛けた中年男で、共同廊下の淡い明かりを頼りに、自ら903号室の玄関扉を開錠しようとしていた。不案内な場所で、意のままに回転しない鍵を持て余し、焦っている様子が窺えた。靴音を立てて通り過ぎる律子に、視線を上げようともしない。

 『空き巣狙い』という言葉が頭に浮かんだが、おどおどした男の背後に、住居の防音を気にしていた島田婦人の思惑を感じて、誰何する気が萎えた。婦人と年下の男は、合意の上でスペアキーの遣り取りをした、とみて間違いないようだった。

 細長い横顔から、四十歳代後半と読めた。最初のブレザー姿の男を見掛けてから、十日と日数を経ていない夜の出来事だった。

 二人の男に共通していたのは、律子に儀礼的な会釈や、エチケットとしての挨拶をする意思がないばかりか、彼等の体を包む空気が淀んで、他人の介入を拒んでいたこと。

「俺に構うな。早く行ってくれ」

 二人のボディランゲージは、そう発信していた。

 以来、入浴洗剤の匂いだけは相変わらず定刻に漂い出し、密室内の放逸な生活ぶりを連想させたが、隣室の女性目当ての訪問者と律子が出くわすことは、途絶えた。

 物静かな男達が登場するようになった頃から、近親者が出入りする姿は、全く見掛けなくなっていった。

 何カ月ぶりかで、島田婦人と出会った際には、律子のほうから笑みを浮かべて、お辞儀をした。

「今晩は」

 スーパーの大きな袋を両手に持ち、自室に入ろうとしていた婦人は、戸惑った様子で振り向いた。

「……今晩は」

 微かに動いた朱唇と硬い表情が、隣人との出会いを避けたい気持ちを伝えてきた。

 入居当初の彼女とは、別人の印象が残った。屈託のなさそうな笑顔と、年相応に整えた化粧は、すでに消え去っていた。よそよそしい態度と、水商売に携わる女のような、けばけばしい身仕舞いは、生活スタイルの変化を暗示していた。

 年を重ねたシニア世代なりの、思慮分別を弁えたはずの、もう一つの青春には、後ろめたさも付きまとうようだった。

 

 しばし、島田婦人にまつわる記憶を手繰った律子は、改めて、婦人の境遇に思いを馳せる。

 よそ目にも急な変化は、家族との不和による自暴自棄がもたらしたのかもしれない。生来の多情な性格が、不品行を促したのかもしれない。第三者の立場で断言できるのは、ただ一つ。大都会という生活環境が、要因の一つになっていることのみである。

 田舎に生活の場を得れば、隣近所が皆、親戚や顔見知りで相互監視、相互抑止の作用が働いて、節度を守らざるを得ない。血気盛りの若者には息苦しくもあるが、ちょっとした外出には戸締まり無用の気楽さも、夜に無数の星が輝く広い天空も、山川草木を配した大地もある。

 都会、まして大都会に暮らせば、隣近所にはマンションやアパート、団地、社宅などの集合住宅が林立し、見知らぬ人々に囲まれている。夜働く大勢の女も、女装する男も、目に凄味のある、やくざ者も、肺病持ちの浮浪者も、黒い肌を持つ外国人も、街角の光景の中に溶け込んでいる。戸締まりを怠るわけにはいかないが、周囲の噂を意識して窮屈に生きる必要はない。自由奔放にも、野放図にも、無軌道にも生きられる。

 直線的な人工物が密集する土地に、互いに名も知らぬ人々が群生する大都会という環境が、そこに生きる一部の女性を突出した性行動に走らせるのも、珍しいことではない。女子学生の援助交際。十代、二十代の性風俗稼業。二十代から四十代の人妻売春。女性達の性的暴走は、スキャンダル好きのマスメディアに話題を提供し続けている。

 しかし、いかに大都会といえど、性意識の開放が進む若い娘や、子供の世話に手が掛からなくなった女盛りならともかく、高年層に差し掛かった女性が老いらくの恋ならぬ、老いらくのフリーセックスに嵌り込む話は、聞こえてこない。

 彼等はいったい、どこで出会ったのだろう。若作りをした女がナイトクラブへ勤めに出て、月光のような淡い照明に惑わされ、男達に口説かれてしまったのだろうか。互いに客としてカラオケパブを訪れて、ほろ酔い機嫌に後押しされ、妖粧をした年上の女のほうから自宅に誘ったのだろうか。

 女の火遊び相手は、二人だけに止まるのだろうか。律子以外の住人や管理人の間で、噂話や顰 蹙の対象になってはいないのだろう か。

 到底、隣人の生活の細部までは窺い知れないが、いろいろ想像された。

 新居に移って一年の間、律子の生活は何も変わらなかった。マンションと会社と実家の間を往復する毎日。刺激には乏しいが、気楽な毎日。浮いた話には縁がなかった。我を忘れるほどの魅力を感ずる男性にも出会わなかった。一人の気楽な生活に慣れ、無理に変えようとも思わなかった。

 年上の島田婦人の奔放さを心の片隅で羨みながら、近親者と疎遠になって、セックスに狂い咲いた初老の女を、見下げる気持ちのほうが数等、大きかった。

 

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