健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾

∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第五章 厚化粧の隣人と男達



     

 誰にとっても、死人の出たばかりの家に帰るのは、気鬱なものである。どうしても、故人の生前にまつわる記憶が、あれこれと蘇る。

 まして、坂本律子の一人住まいで昨日、十月二十二日に発見された死人は、縁もゆかりもない人間であった。防犯のために錠前を取り換えたとはいえ、904号室に戻るのが、おぞましくもあった。

 平静を保つには、苦々しい厄難に襲われた住まいをしばらく空 け、平日も実家に身を寄せながら、通勤するほうがいいのかもしれない。

 が、東京都内の南青山にある会社から実家に辿り着くためには、地下鉄を二つ乗り継ぎ、池袋駅か成増駅で私鉄に乗り換え、埼玉県内の志木駅前から路線バスを利用しなければならない。毎日の往復に費やす時間の長さを思うと、億劫で、ためらわれた。揺れる満員電車で耐えねばならぬ痛苦、運行便が少なく、夜十一時頃で途絶えるバスの不便も、二の足を踏ませる大きな要因になった。

 律子は迷いながらも、ここ一年間通した習慣に従って、平日はマンションで生活する道を選んだ。警察の事件捜査を待って、死んだ男の身元や侵入手口が明らかにされるまでは、留守にしないほうが無難とも思えた。

 今夜は早めに就寝して体を休め、明朝は出勤しなければならな い。その心積もりで夜を過ごす彼女の脳裏に、ある疑惑が目覚め掛けている。

 疑惑の矛先が向かうのは、身近に住む一人の婦人。婦人と、婦人を取り巻く男達が、何らかの形で自室で起こった事件に関わっていた可能性を、検証し始めている。

 ずっと年上の婦人については、中年婦人と言うよりも、老婦人と称したほうが、ふさわしいのかもしれない。年齢的には、還暦を過ぎているかもしれない。人の妻である『夫人』を冠するべきなのかどうかは、はっきりわからない。夫と別居しているのは確かだが、熟年離婚の末の選択なのか、単なる一時的な別居なのか、詳細は不明なのだ。

 夕方までは、昨月曜日に突発した事件と後始末に忙殺され、婦人のことは念頭からすっかり消えていた。思い出させたのは、ラブホテルの門前で偶然、出会ったばかりの中年女性であった。

 行きずりの中年女性と身近に住む婦人は、ストレートボブ風の髪形が似ている。容貌は、まるで似通っていない。私生活に異性間の秘め事を持つ行状が、何よりも共通している。

 その婦人とは、マンションの隣室、903号室に一人住まいする人で、表札には『島田』と掲げられている。

 島田婦人は、律子と相前後して、新築のマンションに入居してきた。ほぼ一年の歳月が経って、隣室の人名札は変わらないが、住人の生活態度は一変している。薄化粧に自足していた平凡な女が、厚化粧で飾った淫奔な女へと変貌している。

 時に触れて、中高年者の乱脈交際を垣間見せられ、女盛りの三十代後半に至るまで独身を通す我が身に重ね合わせて、複雑な感情に見舞われたこともあった。

 律子はキッチンに立ちながら、記憶を手繰り寄せる。島田婦人の二つの顔が目に浮かび、彼女達と接した場面が、時空を超えて鮮明に蘇ってくる。

 

 確か、903号室の入居者が引っ越してきたのは、自分より一週間ほど後だった。

 翌夜、会社から帰ったばかりの律子を、チャイムの音が玄関へと急がせた。ドアを開けると、共用廊下の明かりを背に、普段着で薄化粧の婦人が、屈託のない笑顔を見せていた。

「隣に引っ越してきた、島田と申します」

「はい、そうですか。私、坂本と申します」

「これ、つまらない物ですけど、お近付きの印に」

 転居挨拶の決まり文句とともに、老舗デパートの包装紙に、くるまれた小箱が、差し出された。

「頂いて、よろしいのでしょうか。私のほうも、少し前に越してきたばかりですけれど」

「いえ、いえ、本当に、つまらない物ですから」

「それでは、遠慮なく」

 わずかに入居日が早いだけで、貰い物を受け取る立場になった 904号室の住人は、頭を下げた。

「これから、よろしく、お願いしますね」

「こちらこそ、よろしく、お願いします」

 初めて会った隣人は、実際の年齢より若々しい感じで、親近感の持てる、ほっそりした顔をしていた。受けた印象では、学歴もあり、良識も心得ているようだった。他人の生活に干渉してくるタイプでもないようだった。

 適度の距離を保って、気さくに付き合えそうな同性と隣同士に なったことに、律子は安心感を抱いたはずだった。

 当初の判断には、修正が必要な部分もあった。シニア世代の夫婦二人で暮らしているものと推測していたが、婦人の単身生活と気付くのに、時日を費やさなかった。

 他人の生活に厚かましく干渉はしないが、まるで無関心な人でもなかった。

 ある日の夕方、道路下の交差点から我がマンションを見上げた律子は、九階に四つ並ぶバルコニーの一つに、動く人影を認めた。その灰色のジャージーとおぼしき服装をし、遠目に女性とわかる人影は、隣戸への避難口を兼ねる隔壁越しに身を乗り出し、904号室を覗き込んでから、903号室のアルミサッシの向こうに姿を消したのだった。

 高所から転落しかねない、危険な振る舞いだった。同時に、他人のプライバシーを侵害する、不愉快な振る舞いだった。

 律子のほうは、隣近所の人達の私生活など興味はなかった。努めて島田婦人の行為に拘らないようにし、自由時間には趣味の追求や知識の習得といった自分の内的世界に、専ら関心を向けていた。

 歳暮を遣り取りする時期を迎えると、903号室に宛てた宅配便の小包を代わって預かり、持参したこともある。お届け先の氏名欄には、『島田美佐江』と記されていたはずだが、律子の記憶はすぐ曖昧になった。

 時折、子供らしき若夫婦のペア、夫か前夫と見なされる、痩せぎすで年寄り染みた人物と孫らしい男児の二人連れなど、婦人を訪ねてきた人達に、エレベーターや共同廊下で出会って、会釈を交わしたこともある。

 断片的な場面をつなげると、島田婦人の置かれた境遇が窺えた。彼女は長年連れ添った配偶者との別居、あるいは破鏡を余儀なくされ、単身、新しい生活に踏み出していたのである。高齢を迎えてからの分譲マンションへの入居は、資産には事欠かない身の上を想像させた。

 

前のページへ戻ります ページのトップへ戻ります 次のページへ進みます

ホームへ戻ります 二百七十三万…の目次へ戻ります ページのトップへ戻ります


Copyright 2003〜 kenkosozojuku Japan, Inc. All rights reserved.