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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
5
商店街を往復し、金属製の黒バットに続いて、夕食の材料を見繕った律子は、大塚駅南口に構える大鳥居を背にした。
「ゴトーン、ゴトーン…、カン、カン、カン…、ゴトン、ゴトン、ゴー…」
目の前を見渡すと、花壇で彩られた駅前ロータリーを半周してきた路面電車が、警笛を鳴らしながら、学習院・早稲田方面へと走り抜けようとしている。一両編成の、ガラス張りの車内では、私服の乗客に、学校帰りの制服が交じっている。
その都電の後を追う形で、律子も緩やかに傾斜した広小路を上り始めた。ビルに区切られた空を見上げれば、白い綿雲が浮かぶ青天井に、赤みが加わろうとしている。
片時、坂道を進み、石段を上がる。行き着いたのは、木立の緑に包まれた中央広場に、蒸気機関車を展示した公園。そぞろ歩く。パンプスの底を通して、土の、軟らかい感触が伝わってくる。この大都会では、公道はもちろん、私道の隅々に至るまでアスファルトが張り巡らされ、土を踏みしめる機会は、めったにないのである。
しばしの逍遙を楽しむと、反対側の出入り口を抜け、律子はまた、硬い舗装路へと歩を進める。
とはいえ、中古の家屋が立て込む狭い路地などを通ると、庭や生け垣に配された草木、玄関周りや軒先・ベランダ・窓辺に置かれた植木鉢と、案外に自然の色彩が整えられている。ベゴニア、べにばなサルビアなどの花も、目に飛び込んでくる。塀に、屋根にと動き回る雀の姿も、認められる。
裏通りを十分ほど歩いて、前を行く老夫婦らしき二人の後ろに付く形で、四つ辻を右に折れた。
「昔は、ここらは原っぱだったんだよ」
「ふ〜ん、そう」
「今はすっかり変わって、家やアパートばかりだ」
「しょう〜がないよ」
夫が辺りを見回しながら、掠れ声で声高に説明している。妻が、がらっぱちな物言いで応答している。共に白髪が目立つ夫婦の歩調に合わせて、律子もゆっくり足を運んでいく。
小道は、往路でも通っている。二人の少年がボール遊びをしていた場所であり、三階建てのラブホテルが間近だ。
住宅街の中に一軒だけ交じっている白亜のホテルは、否応なく異質な感じを与えてくる。カップルが寡黙に寄り添って出入りする門と、隣接する、こじんまりとした来客用駐車場とに、垂れ下げられている目隠しが、場違いな建物という印象を強めている。
そのホテルの門前で、小道は左右に走る道と直角に接する。進行方向の真っ正面には、焦げ茶色の煉瓦を積んだ門構えが認められ、アーチ形に穿たれた出入り口には、丈のある濃紺の暖簾が吊されている。
律子は不意に、暖簾の向こうで動く人の気配を感じた。果たして、前進してくるズボンの裾が透き見され、次の瞬間には、長い垂れ幕が中央から押し広げられ、若い男が路上に潜り出てきた。
出会い頭、そのブルーデニムを穿いた男は、小道を進んでくる老夫婦と律子の三人に視線を上げる。互いに見詰め合う隔たりは、三メートル。
男が次に取った行動は、不可解だった。出入り口の傍らで、門を背にして足を止めたまま、立ち去ろうとしないのである。
同伴者を待つにしても、すぐ追い付いてもらえるような歩調で、ゆっくりと動き出せばよいだろうに。見たくもない顔に歩一歩、近寄っていかねばならない第三者のほうが、面映ゆい。
察するところ、幼さが拭い取れない二十歳そこそこ。五分刈りの頭に、ギョロリとした目が特徴的な男だ。鋭さが露骨に出すぎているような目から判断すると、あまり好人物ではない。
<労務者じゃないかしら?>
律子の勝手な推測も、通行人達の無遠慮な視線も、平静を装って佇む若い男にすれば迷惑なだけだろう。
ややあって、濃紺の垂れ幕が再び揺れた。目隠しされた空間から、どんな女の子が現れるのか。律子も好奇心に駆られて、老夫婦の背中越しに注視しつつ、歩を進めていく。
<あ、あれ?>
彼女の予断は、見事に外れた。
まるで歓迎できない観客三人に出くわし、驚きの表情を露にしている連れは、同じ年格好の小娘ではなく、中年の女性。水商売の色に染まっていない、普通の家庭の主婦。しかも、肉欲に溺れて浮気に走るタイプには、見受けられない。薄化粧の顔、ほっそりした肢体、こぎれいな淡い色の服装は、上品で、控えめで、清楚な雰囲気を醸し出している。
二十歳見当で目付きの険しい青年と、四十代前半で良識を弁えた奥さん風。年齢差を含めて、全く釣り合わない男女だ。
「あ、若い子を連れ込んでる」
老婦人が、二メートル先の中年女性を蔑むように、あけすけな言葉を投げた。肩を並べて歩く老主人は、カップルから目を逸らして押し黙る。
律子は、中年女性の不運に同情を覚えている。自業自得ではあろうが、同性から不倫を当て擦られた中年女性の姿は、見るに忍びない。
無表情を装い、無言を通していた若い男が、向かって右側へ足早に踏み出し、中年女性も気後れした様子で顔を伏せ、若い背中を追う。
彼女にしても、同伴専門のホテルを出た途端、六つの目に真ん前から注視され、面罵を受ける不運に遭うとは、予想もしなかったであろう。晴れた日の日暮れ前という時刻は、密会した身を隠す闇も、傘も用意してくれていなかった。
律子は、スローなペースで歩み続ける老夫婦を追い抜いて、三叉路を左折する。
門構えに宿泊料金プレートが嵌め込まれた現場を、一刻も早く離れたかった。見てはいけないものを心ならずも目にしたようで、未知の二人だけで共有する秘密を目撃してしまった自分のほうも、気恥ずかしさを感じるのである。
道すがら、二人の曰く因縁を、あれこれ推し量ってしまう。組み合わせが、いかにも不自然だった。
あの年上の女性は、どういう素性の人なのだろう。俗に言うホテトル業界の事情は知らないが、アルバイトで春をひさぐ有閑夫人にしては、年齢が行きすぎているのではないか。従来からのテレホンクラブや、新参のパソコン通信をツールにした火遊びで、欲求不満を解消し、性欲を満たすタイプの女性とも思えない。
見知らぬ男との、束の間のセックスを享楽するタイプならば、老婦人の面当てに言い返す、気の強さも、持ち合わせているのではないか。奔放な人妻は、「失礼な」とか、「うるさい、ばあさん。お前には関係ないだろうが」とでも、男言葉の捨てぜりふを残しそうである。
よいほうに解釈すれば、性交不能症状の夫との結婚生活を破綻させないための方便で、工務店の事務を執る社長夫人が、年少の社員を若い燕に選んだのかもしれない。若い男には相手を気遣う素振りも感じられたため、金銭トラブルなどの要因が介在しているとは、考えにくい。
では、彼等は、どこから来たのだろう。近隣の住人ではないだろう。住宅街の只中に立地するラブホテルを利用するのは、知った顔に出会う危険性が高すぎる。徒歩圏内の、そう遠くない所、駅の反対側にでも会社か家がある人達、と考えるのが妥当ではないか。ある程度の土地勘がなければ、目立つようなネオンも掲げず、一軒だけ、ひっそりと控えるラブホテルの所在など知らないはずだ。
すべては、律子の憶測にすぎない。確信を持って想像できるのは、今日の不運が二人を動揺させ、関係に水を差したことぐらいだろうか。世間の目から見ると、全く不自然なカップルであった。老婦人から投げ掛けられた憎まれ口に懲りて、枕を重ねる間柄を解消する可能性も高いのではないか。
首を仰向けて大空を見渡すと、低い所に居並ぶ千切れ雲の赤みが増し、日が急激に西へ傾いていることを知らせている。秋の火点し頃は、早く来る。
両腕を大きく振って、帰宅の歩度を速める。片や総菜、片や金属バット。異質な品を収めた二つのポリエチレン製の袋が、カサカサと音を立てた。
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