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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第四章 防犯マニュアル検討中



     

 マンションの外へ出ると、青く晴れた空に綿雲が浮かび、秋の日差しが肌に心地よい。

 坂本律子は、騒がしい幹線道路を左に折れ、裏通りに入った。住宅街から公園を抜けて、JR山手線の大塚駅前に足を延ばすつもりである。

 普段の通勤には、一日に二百六十万人が乗り降りする、巨大ターミナルステーションの池袋駅を利用している。懸案を抱えている 今、デパートや家電、書籍などの大店舗が立ち並び、溢れんばかりの人が行き交う繁華街に、足を向ける気分にはなれない。

 池袋駅と隣り合う大塚駅も、彼女のマンションから徒歩圏内に位置している。日本を代表する観光スポット、参拝者の絶えない神社仏閣、名前の知れ渡った大学、大勢の若者が繰り出す繁華街といった、地域のシンボル的な存在は持たないが、駅前広場には鳩が群れ、家族経営の店が軒を連ねる商店街や、小ぶりの歓楽街は適度な賑いを見せ、周辺は落ち着いた雰囲気を作り出している。

 幾つかの角を曲がった住宅街の抜け道には、子供の遊び声が響いていた。その甲高い声に向かって、律子は進んでいく。二トントラックがようやく通れるほどの幅で、侵入してくる車がほとんどない小道ゆえに、少年少女の遊び場に早変わりする格好の条件を揃えているのだろう。

 行く手では、背中を見せた一人の少年が、両の手を叩いたり、右手を上げたりしながら叫んでいた。

「こっち、こっち」

 右側には煉瓦塀を巡らす民家、左側には合成樹脂製のブラインドで駐車場を目隠しする、連れ込みホテル。通りのどこにも、少年の遊び友達の姿は見当たらない。

 事態が、飲み込めない。数歩進む間に、解き明かすヒントを与えてくれたのは、白いスポンジボールだった。

 その軟式野球用のゴムまりは突如、宙に現れると、なだらかな放物線を描きながら、民家の煉瓦塀の一角を斜めに横切り、後ろ姿の少年に迫ってきた。小さい両手に収まると予想されたスローボールは、気抜けしたジャンプを逃れ、律子の胸を直撃した。

 キャッチボールに興じる少年達が、送球ミスとボーンヘッドの応酬に右往左往し、騒いでいる最中だったのである。

 逸れてきたスポンジボールには、痛みを受けるほどの威力もな かった。ボールは舗装された地面に柔らかくバウンドし、次にバウンドする前に、彼女の手のひらに掬い上げられた。

 目の前には、暴投を受け止められなかった少年が走ってきてい た。スポーツ刈りにした、痩せぎすの、ふらふらした男の子。

「当たったわよ」

 いたずらっぽく笑いながら、利き手を使った軽いアンダースローで、斜め上にボールを浮かした。少年は、顔中くしゃくしゃにして笑いながらも、後逸を繰り返すことはなかった。返球を握ると、声を立てて笑い出す。

 律子はボールの当たった、しじら織スモックの胸を払いながら、丁字路を右折し、暴投の主と擦れ違う。先の遊び仲間と比べると、こちらの髪を伸ばした少年は、しっかりした目鼻立ちをしている。

 ともかく、小学四年生くらいに見える二人のコントロールは、快適なキャッチボールを楽しむ域に達していないようである。

 後にした通りから、呂律の定まり切らぬ話し声が、はっきりと耳に届いてくる。

「ハッ、ハッ、おばさんに当たったよ。ハッ、ハッ、ハ」

「え〜?」

 現場を目撃していない暴投少年には、意味が通じないらしい。

「ハッ、ハ、ハ…。ボールがね、おばさんに当たったんだよ」

「そうなの」

 一人の少年は感情の、こもらない声で応じ、一人の少年は飽きもせずに笑い続け、一人の昔の少女は考え込みつつ遠ざかる。

 女心地に波紋を広げるとは知らずに、痩せぎすの少年は無邪気な物言いで、その代名詞を二度、口にした。

<おばさん…、か>

 十歳前後の少年にすれば、三十代後半の女は当然、『おばさん』と呼ぶべき対象だろう。頭ではわかっても、自分を指して久し振りに投げ掛けられた呼称は、心にわだかまる。

 多く見積もっても、『女の子』と呼ばれるのは、二十代後半まで。三十歳を過ぎた大人の女性なら、ベターハーフや子宝の有無にかかわらず、『おばさん』と呼ばれ、それが三十年近くも続く。女性の人生で一番長い時期を美しく、輝いて過ごしたいと、誰でも願うだろう。上辺の美しさを飾り続けるのは、誰にもできる。花実を兼備し、内面から輝き続けるのは、誰にでもできることではない。

三十八歳を迎えた律子にとって、『おばさん』と呼ばれるのが腹立たしく、一抹の侘しさを催されるのと同様、『お姉さん』と呼ばれるのも、不自然に感じられて、抵抗を覚える。

 中規模の公園に展示されている、古びた蒸気機関車の傍らを通り抜けながら、先週の会社帰りの出来事が思い出された。

「はい、きれいな、お姉さん」

 そう言いながら、今風の若者が池袋駅前の雑踏を縫う律子に、細長い紙片を差し出したのであった。

 受け取った美容室の割引券付きチラシには、何の変哲もなく、空間に漂った言の葉には、取って付けたような違和感があった。人波の中に立ち続ける若者を離れて、彼の起こした波紋は、家路に就く彼女を執拗に追い掛けてきたのであった。

 

 先週の出来事を反芻している間に、律子は公園を抜け出て、路面電車の軌道が併設された広小路を、大塚駅方面へ下った。

 行く手の右側には、神社の鳥居を模した大きな看板が認められ る。その看板を入り口に掲げた駅前商店街のどこかに、最初に立ち寄ろうとしている店があるはずだった。買い求めるのは、スポーツ用具であり、護身用具にも早変わりする頼もしい物。

 ビルの間に立つ、コンクリート製の大鳥居を潜って三分後、目当てのスポーツ用品店が見付かり、煙草売り場を兼ねたカウンターに座った老店主が、気のない挨拶で迎えてくれた。

「ああ、いらっしゃい」

 店内の正面には、サッカー用具のコーナーが陣取っていて、頼みの物を揃える野球用具のコーナーは、左奥に設けられていた。

 木製。金属製。プラスチック製。大人用。中人用。小人用。壁際の陳列棚に立て掛けられた品々の前に立つと、律子は金属製の一群れから、手頃な長さで、黒光りする一本を抜き出した。

 高校時代に受けた体育の授業以来、久方振りに、そのグリップを握ったのは、野球やソフトボールに使うバットだった。ボールを打つ芯の部分で、直径七センチくらいの太さ。意外なほど軽く、一キログラムくらいの重さだろうか。

 彼女は、店内を見回した。折よく、ほかの客の姿はなく、眼鏡の似合わぬ老店主の姿も死角に入っていた。

 眠っていた運動意欲が、兆した。灰色の滑り止めテープが巻かれたグリップを両手で握り直し、高く掲げると、野球の右バッターの構えをして、遠慮がちなハーフスイングを二回。剣道の中段の構えに変えて、軽く踏み込んでの打ち下ろしを二回。合計四回の素振りをしてみた。

 感触を確かめた限りでは、金属バットが護身用具として、立派に通用することを信じて疑わなかった。髪を逆立てた鬼神のような顔をして、黒バットを振り回し、振り下ろす自分の姿は、全く想像できなかったが…。

 

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