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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第四章 防犯マニュアル検討中



     

 律子は2LDKの住戸に引き下がると、不燃ゴミの一つとして、黄金色のロータリー・ディスクシリンダー錠を収集袋に加えた。つい先刻まで防犯の要を担っていた錠前は、コンパクトながら頑丈な造りで、ずしりとした手応えのある代物ではあった。

 そのまま台所で用意したレギュラー・コーヒーを持って、ダイニングテーブルに落ち着く。

 朝から思い砕きながらも、会社や実家への電話連絡、管理人との話し合い、部屋の薬品痕の応急処理、玄関ドアの錠の取り換えと、昨夜の事件の善後策は、つつがなく終わろうとしている。

 静かに、コーヒーカップを傾ける。熱い液体が、味覚を刺激する。酸味、こく、苦味の程よい調和。渇いた喉が、潤っていく。肩の力が、いくらか抜けていく。今日、初めて得る小閑である。

<鍵…。謎を解く鍵…。事件の鍵を握る男、とも言うわね。英語ではキー…、キー・ホルダー、キー・ワード、キー・ポイント…、それからキー・ノートでしょう。…キー・ストーン、キー・カレンシー、キー局に、キー・ロック…。え、キー・ロックというのは、何だったかしら>

 因縁尽くの鍵にまつわる連想が、あれこれ浮かんで消えた。

 身近な現実に考えを巡らすと、今日からは、型式の異なる二つの鍵を使い分けなければならないことになる。

 取り換えてもらった磁石式キーは、個人で専有する904号室の開錠・施錠専用に、新しく使う。従前から使っているロータリー・ディスクシリンダー錠用のキーは、マンションの共用施設にも適合する物だから、オートロック式の館内玄関の開錠と、ゴミ置き場のドアの開閉に、引き続き使う。

 鍵の管理に関しては、慎重の上にも慎重にならなくてはいけないだろう。

 二個一セットを常用し、六個三セットを予備に回す。四個二セットを携帯し、同じく四個二セットを保管しておく。それが、鍵に割り振ることに決めた役回りだった。

 つまり、外出に際しては、常用と予備の二セットをハンドバッグに入れて持ち歩く。一セットは、他の鍵と一緒にキーホルダーの輪に通して、常に出し入れする物。もう一セットは、キーホルダーの紛失など万一の場合に備えて、財布に忍ばせておく物。

 保管専用の二セットは、ハンドバッグもろとも携帯用の二セットを紛失した場合の用心に、自宅マンションと実家に留め置くスペアキー。そのスペアキーも、鍵付きの家具に保管するに越したことはない。

 結果的に防犯対策が進んだのは、自分を慰める、せめてもの材料になった。常識的に考えれば、タイプの違う二つの鍵を持った人物しか、904号室に入り込めないわけである。万全のセキュリティーとは言い難いが、以前より安全性は高まったはず。

 我知らず、律子の頬の緊張が綻んだ。コーヒーを二口、三口と口に含ませた。

 試しに、より完璧な自衛を想定してみた。打つ手はまだ、いくらでも思い付いた。女性誌を開くと、目玉の記事として度々、特集されているところだからだ。

 まずは侵入口を開けにくくすることが、新たな犯罪から未然に逃れる第一歩。904号室の玄関に頑丈な、別タイプの補助錠も追加し、ワンドア・ツーロックにするのは、簡単で有効な工夫であろう。

 二つ以上の錠を備えたドアならば、たとえ一本の鍵が盗まれて合い鍵を作られようと、それだけで開かない点で一応、安心できる。玄関や窓からの侵入に五分以上の時間が掛かると、空き巣狙いなどの半分以上が犯行を諦め、十分以上掛かると、ほとんどが諦める、とも言われているところ。

 同じ意味で、バルコニーに面したサッシ窓を二重ロックにすれ ば、さらに安心感が増す。サッシ窓の内側に用いられている三日月型のクレセント錠は、周囲のガラスを破って手を入れられれば、容易に開かれてしまうのが泣き所。金物屋などで売っているサッシ用補助錠を窓枠の上や下にあてがって強化するに、越したことはな い。防災にはいいが、破るのは簡単な“金網入りガラス”を、フィルムが挟んであるために破られにくく、割れると大きな音がして防犯効果が高い“合わせガラス”に換えるのも、効果的であろう。

 玄関前には、人の動きを感知して自動的に点灯する人感センサー付き夜間照明。サッシ窓には、人の侵入に反応して音が鳴り響き、光が出る防犯センサー。泥棒などの弱みである光と音を発する装置を備えるのも、一案。センサーライトやブザー類なら、素人でも取り付けられるらしい。

 さらに慎重に構えて、警備保障会社と契約を結べば、手抜かりなし。そのホームセキュリティーなら、窓が破られたりすれば光や音が出る上、非常時には警備員が駆け付けてくれる。安全は“ただ”ではないと考え直せば、多少の出費は痛くないかもしれない。

 

 律子は、自宅マンションの留守中、在宅中の防犯対策に引き続き、外出中の我が身を守る自衛へと連想を広げていった。

 通勤電車に隣り合わせている、すり、痴漢、酔漢。雑踏に紛れ込んでいる、通り魔、ひったくり、付きまとい、尾行者。身近な市中に潜んでいる、暴漢、変質者、ストーカー。

 昼夜をおかず出没している迷惑で、恥知らずで、悪質で、懲りない人間に取り囲まれていながら、「私は安全。私だけは大丈夫」が、永遠のように続くはずはないのである。

 この際、自らの無防備を後悔しないため、出歩く際の行動を見直し、細心の注意を払うのは、大切なことかもしれない。錠と鍵に守られた自宅に居るより、無数の見知らぬ人々と通り合わせる外出時こそ、危険が差し迫っているとも言えるのである。

 例えば、中高年の男性さえ、金や暴力を目的にした“おやじ狩 り”の対象になっている。凶器を使った路上強盗なども頻発している。こういう時勢には、暴走する車ばかりでなく、暴漢、悪漢に対する用心も忘れてはならない。

 男性に比べると、瞬間的な暴力で劣る女性にとって、人けのない夜道や、薄暗い公園を一人で歩く時に頼りになるのは、交番の巡査でも、警ら中のパトロール隊員でもない。携帯電話で呼び出せるかもしれぬ、見掛け倒しの彼氏でもない。まして、たまたま通りすがるかもしれぬ、男気と腕力を兼備した好漢でもない。

 何より心強い味方は、我が身に携帯できる護身用グッズである。

 市販されている防犯ベル、防犯ブザー、ハンドベルなどと呼ばれている護身用具は、ほとんどが手のひらに乗るぐらいの大きさで、金具やキーを引っ張ったり、押したりすると、大きな音が出る仕掛けになっている。ブザーやサイレンの音で、尾行してきた不審な相手や、襲ってきた相手が怯む可能性もある。周囲に危機を知らせるのにも役立つ。

 防犯スプレー、撃退スプレー、催涙スプレーなどと呼ばれている、携帯用の噴霧器を持ち歩いてもいい。万一の際に少しでも時間を稼ぎ、逃げるための手段となる。『強盗撃退スプレー236』という名の商品を吹き付ければ、塗料が紐状につながって八メートル飛んで、接着剤を相手の体に絡み付かせ、動きを鈍らせてしまうらしい。

 一人暮らしの女性の場合、夜の危険地帯を横切り、無事、自宅へ帰り着こうと、手放しで油断するわけにはいかない。住宅街の死角から、音もなく追い掛けてきた偏執狂。戸締まりの盲点から、潜かに忍び込んでいた泥棒。彼等から受ける性被害が、待ち構えているかもしれない。

 ドアチェーンとガラス窓の閉め忘れを戒め、就寝時には、防犯ブザーや防犯スプレーを枕元に置いてもいいだろう。どうしても窓を開けておきたい蒸し暑い夏には、中間締めができるサッシ用補助錠を取り付ければ便利。

 より攻撃的な護身用具として、高圧電流が流れて、標的に電気ショックを与えるスタンガンを、用心棒代わりに備える手もある。

 もろもろの護身用具などに頼らず、道場に入門して護身術や空手を修得し、暴漢、悪漢、居直り強盗達に対抗できる体に鍛えるのも、一つの自衛手段だろう。最終的に身を守るのは、自分である。

 手の甲で、相手の顔面を払う。手のひらで、鼻や喉を突く。人差し指と中指、二本の指頭で、両目を突く。足の裏で、膝を蹴る。歯で、思いっきり耳や舌を噛む。後ろから抱き付かれた時は、後頭部で、顔面に頭突きを与える。

 襲ってきた大の男と戦い、ねじ伏せるのは無理としても、敵に衝撃を与え、その場を切り抜けて逃げる技を身に着ければ、自分に自信を持てるはず。自信がある人は、背筋を伸ばして堂々と歩ける。そういう人には、暴漢達も近付きづらいもの。

 いや、世の中、そう甘いはずはない。下手に護身術の技を覚えるのは、考え物かもしれない。自信は往々にして、過信を招く。力の強い男や複数の男に対して、中途半端に抵抗することが相手方の逆上をあおり、より悲惨な結果を招いたら最悪。

 

 律子は、ゆっくりと頭を振ってから、残り少なくなったコーヒーを飲み干した。

 考えすぎてはいけない。神経質に、悪い想像ばかり、たくましくしてはいけない。

 ここまで、戸締まりの徹底的強化から、我が身を素手で守る技の修得へと、頭の中に入っている知識を整理してみたが、寝ても覚めても防犯を意識し、必要以上に過敏に構えたなら、精神的な代償が大きいのではないか。

 第一に懸念されるのは、疑心を起こして幻の暗鬼を見るように、人間不信に陥る自分。次には、安全に金を掛けたために、かえって苦い体験を風化できず、物音一つにびくびくする自分。

 悲観に片寄らず冷静に考えれば、自宅が再び侵入被害に遭う公算は、低いのではないか。土足で日常生活に踏み込んだ当の相手は、すでに鬼籍に入っている。意想外の悪知恵を働かせて、新手の敵が迫ってきた際には、二種類の錠前が守ってくれるだろう。

 よくよく思い返せば、通勤の行き帰りのコースには、人通りのまばらな個所はない。その夜道で、予期せぬ出来事に遭ったなら、防犯ベルに代えて自らの声を張り上げ、深夜も明るいコンビニエンスストアに、避難すればいいだろう。

 スタンガンまで持つのは、明らかにゆきすぎている。機器ではなく、殺傷能力さえある武器で、相手に危害を与えては、正当防衛の域を越えて罪を問われかねない。

 結局、一番の護身術は、夜遅く人けのない道を歩かず、遭ってしまったら戦わず逃げることではないだろうか。

 律子は念のため、ある物だけ買い求めてくることを決意した。

 

 三十分近くが経過して、件の防犯設備士が、心頼みのスペアキーを届けに再来した。彼は、道具箱を携えていない。彼には、道具箱を持っているほうが似合っている。

「お待たせしました」

 にこやかな顔は、一仕事こなした安堵感を示しているようだっ た。『十五分ほど』と、彼自身が口にした予定よりやや遅れたのは、確かだった。

 依頼人は、前もって聞き出し、用意していた代金を手渡した。請求額の詳細は質さなかったが、錠前と二個の既製の鍵に、二個の合い鍵を足した製品代に、出張サービス料と工事料と複製技術料を加えて、和服の福沢諭吉翁が謹厳な顔を見せる日本銀行券三枚ほか が、手元から失せた。

 辞そうとする相手に、労いの言葉を掛ける。

「ご苦労様でした。また何かあったら、お願いしますね」

 思わず口を突いて出た言葉の矛盾に、自ら気付いて、笑いがこぼれる。

「また、お願いすることになったら、困りますよね」

「そうですね、こういうことは…。お気を付け下さい」

 爽やかな笑顔を残して、長髪の防犯設備士が、黒いブルゾンを翻した。玄関先には、ひとかどのプロの識見を備えた人物、という印象が残された。

 

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