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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
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「本当ですか?」
疑問を表す相槌を打って、律子は話の先を促した。
「メーカーが力を入れて開発した新式の鍵だけあって、確かに精巧なんです。ところが、精巧すぎるのが災いして、鍵穴に埃がちょっと詰まっただけでも、故障を起こしてしまうのです。今、開錠で呼ばれていくと、大抵、その種の故障でして…」
「はあ、そういうこともあるのですか。人生と同じで、皮肉なものですね」
相手の真剣な顔に、職業的な微笑が戻った。
「高価な鍵なんですがね、在庫を抱えているから、メーカーは欠陥を隠して、どんどん安売りしているんです。だから、普及が進むに連れて、あちこちでトラブルも多くなって…」
関連業界の内幕に触れる話に、律子は興味を覚えながらも、それを口にする長髪氏の人柄を見抜こうとする。言わずもがなの秘密を他言しがちな軽薄者なのか。それとも、顧客を親身に思う正直者なのか。
いくら飾り立てても、どのように取り繕っても、人間性の高低、知性や感性の利鈍、修養や勉学の深浅、苦労の多寡は自然と、その人物の顔に刻まれ、声にも仕草にも出てくるもの。
改めて、初対面の相手に眼力を澄まし、彼の話に心耳を傾ける。
「羽田空港のロッカーにも全面的に採用された物なんですが、故障が多く起こりすぎて全部、取り換えられたんですよ。そういう種類の鍵なんです」
「そうなのですか」
話し手には、調子よく上辺をてらい、背伸びをする様子はない。誠実な話しぶり、目の内にある和やかな感じ、落ち着いた所作からは、素朴な人のよさが窺える。インスピレーションを信じる限り、彼は他人の立場に自分を置いてみて、公平な、片寄りのない判断ができる人物だろう。
「とにかく、こうしましょう。今、三種類の鍵をお見せしますので、その中から選んで下さい」
「はい、お願いします」
長髪氏はブルージーンの膝を折り曲げると、玄関脇に置かれた道具箱の握りに両手を掛け、金属製の細長い蓋を両開きにした。
三段に構えた収納スペース。底の段に置かれた大小の工具。上の二段に種類別に整理された雑多な金具。光り物の山に、律子はひととき目を奪われた。
その秘密めいた道具箱が元通りに閉め切られた後、黒く平たい蓋の上には、それぞれ二個組になっている三種類の鍵が並べられ、落ち着いた中音が説明を始める。
「こちらが今、玄関に使われているのと同じロータリー式のキー。こちらが磁石式キー。これは従来からあるディスクシリンダー錠に適合するキーです」
指さされた代替品の中では、真ん中に載っている『磁石式キー』と呼ばれた物が、外観の重厚さで目に留まった。大きさでも、意匠でも、左右の二つは見劣りしている。
律子もニットパンツに包まれた腰を屈めて、意中の二個組の鍵を持ち上げると、重さと感触を確かめる。
片一方の鍵の、凝ったデザインを施した取っ手部分をつまみ、鍵穴に差し込む板状に突出した部分に見入る。表の断面には、丸い窪みが三つ付けられている。従来品では、縦溝が刻まれているところ。左右の側面は、平たくなっている。従来品では、ギザギザの鍵山が刻まれているところ。
ひっくり返して、鍵の裏面に見入る。『48E216818』。取っ手部分に彫り込まれた製造番号を認めると、長い睫が目立つ長髪氏の横顔へ視線を移した。
「こちらの鍵も精巧なのですか」
「ええ、精巧ですよ」
言外に、自明の理という響きを含ませた声が、返ってきた。
「ロータリー式キーと、こちらの磁石式キーは、どう違うのです か」
律子は、さらに質問を重ねる。昨日の今日である。慎重の上にも慎重に構えなくてはならない。
「簡単に言えば、錠をロックする方法が違いますね。ロータリー式は、鍵の刻みを利用します。磁石式は、いわゆるマグネットの反発力を利用してロックしたり、リリースしたりします」
「共通点も、あるのでしょう?」
「鍵の様式は違いますが、錠そのものの構造については、基本的に同じ物ですね。それから、両方とも精巧だから、空き巣被害に強いですね。鍵穴が横になっていて、ピッキングに強いとされる代表的な物です、二つとも」
「ピッキング…ですか」
「ご存知ですよね」
長髪氏の目線が、律子の顔に固定された。
「ええ。昭和三十年代から、七千万個が普及している錠が、狙い撃ちされているとか…。でも、マンションなどのピッキング被害は、一時期より減っているらしいですね」
「詳しいのですね」
「詳しいというより、今度の事件で、詳しくさせられてしまったのです。さっき雑誌を読み返しましたしね」
「お気の毒に…」
長髪氏が、律子と同じ悲しげな表情をたたえてくれた。
「それでは、二度と被害に遭われないために、もう少し事細かく説明しておきましょうか。ピッキングについても、まだまだ、安心できる状況ではありません。地方に散っていた窃盗団が、また首都圏に戻ってきたと言いますしね」
頷く被害者の目に、防犯設備の専門家がより頼もしく、より大きく映った。
「ご存知のように、標的にされているのは、日本で一番普及しているディスクシリンダー錠です。これは、鍵穴が縦に開いていて、工具で引っ掛けやすいのです。ピッキングに強い二つとは、まず、そこが違いますね。
ほかにも、二つの錠について、開けるのが難しい点をいくつか挙げてみましょう。
こちらのロータリー式のほうは、鍵の両側にある切り込み、いわゆる刻みの深さを四段階に変化させてあることでも、耐ピッキング性能が高いのです。錠の内部にあるディスクタンブラーを、U字形の回転式にしてあるのも、強みですね」
「ディスクタンブラー?」
「ああ、ディスクタンブラーというのは、何枚もの小さな金属片のことでして、ロッキングバーと組み合わさり、ドアをロックする 閂 、専門用語で言うところのデッドボルトと連結している物で す」
最初は、道具箱の上に並べられている鍵。次には、玄関ドアに取り付けられているシリンダー錠。現物を指さしながらの丁寧な解説が、渓流の流れのように淀みなく進む。
「それから、こちらの磁石式キーのほうですが、電子式キーとも言われています。錠のシリンダーと鍵、それぞれの中に小さなマグネットが埋め込まれていましてね、両方の配列がプラスあるいはマイナスの同極にあることによって……。わかりますか? 説明が難しくないですか?」
「おおよそ、わかりますから。どうぞ、続けて下さい」
律子は手振りも加えて、先を促した。
「要するにですね、磁石が同極間で反発し合う力を利用して、錠内部のピンタンブラーを外筒側に飛ばし、鍵穴の付いた内筒を回す。そういう構造になっているのが、磁石式の錠であり、キーなのです。刻みの形や深さを利用して、錠の中のピンやディスクを持ち上げる従来のキーとは、その点が違っているわけでして。
電子式キーとか電子ロックと呼ばれる物には、もう一つ、ICチップを埋め込んだ物もあります。こちらは、錠の側に電池をセットする必要があって、まだ一般の家庭には高価すぎますね」
「う〜ん、大体、わかりました。磁石式キーについて、もう一つ、お聞きしますが、合い鍵も作りにくいのでしょうね」
「もちろんです」
「磁石式に、しましょうかしらね」
迷いつつ思惑を告げると、長髪氏が満足げに顔色を和らげた。
「実は、私がお勧めしたいのも、これだったんです。値段は高くなりますけど、精巧で、しかもロータリー式のように、ちょっとしたことでは故障を起こしませんからね」
もう迷う必要はなかった。期せずして、自分の選択と、防犯設備に関する専門家の自信に満ちた推薦が、磁石式キーで一致したのである。
リズミカルな所作、慣れた手さばき。代替品が決まると、鍵を扱う専門家は、ドアに嵌め込まれたシリンダー錠を素早く交換し終えた。
彼は取り外したロータリー・ディスクシリンダー錠を手渡し、律子は逆に、磁石式のピン・シリンダー、ピン・タンブラーなどと呼ばれる錠に適合する二個組のキーを手渡した。
「スペアキーも作ってもらえますよね」
「ええ、ちょっと待っていただければ、車の中で作ってきますか ら」
営業所に持ち帰らずとも、鍵の複製ができるという答えに、発注者は安堵の息を吐いた。なるほど、出張先に乗り付けた専用車で作業を済ますシステムなら、受注業者にとっても能率的である。
「では、後二つ、お願いします」
「十五分ほど、お待ち下さい」
素早く身を翻すと、黒いブルゾンの長髪氏は小走りになって、細長い外廊下を遠ざかり、あっという間にエレベーターの、かご内へと姿を消した。
九階の外廊下は、いつもの殺風景な表情を取り戻していた。コンクリートの灰色が支配する中で、消火器と非常警報灯に彩色された濃い紅が、常ならず目立って見えた。
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