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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第四章 防犯マニュアル検討中



     

 十月二十三日、火曜日、午後二時前。坂本律子が防犯設備士の来訪を受けたのは、指定の時刻より、いくらか早めだった。

 弟の忠の意見に付き、玄関ドアの錠前と鍵を取り換えてもらうため、ロックサービス会社に電話を入れ、技術者の派遣を依頼しておいたのである。

 午前中、職業別のタウンページを開いた彼女は、数多い業者の中から一社を選ぶのに、さして迷わなかった。

 最も大きな一ページ広告を載せ、営業所網を整える数社に絞り込み、最終的には、コピーで決めたのであった。目に留まった触れ込みは、『すべての鍵のトラブルを解決する、すぐれた技術集団です。鍵の救急車で、すぐ飛んで行きます! 24時間 年中無休』。

 今し、金属製で黒く、いかにも重そうな道具箱を足元に置き、904号室の門戸に立っている防犯設備士は、三十歳代前半と思われる優男であった。

 光沢のある長髪。二重瞼の大きな目。彫りの深い顔立ち。ブルージーンに合わせた黒いブルゾン姿。外見からすれば、二つを除いて、女の望むものはおおよそ持っている男性と言えよう。一つは上背、もう一つは野性味である。

 その優男の肩まで届く髪とラフなスタイルは、さっぱりと整髪して制服を着用しているという、依頼人が描いていた技術者像を裏 切っていたが、彼の面差しには、信頼の置ける人物の特徴が備わっているようだ。

 まずは、錠前と鍵に関する専門家、昔風に称する鍵師に、複製鍵を所持した赤の他人が侵入し、突然死したいきさつを手短に説明 し、疑問をぶつけてみる。

「少し知識があれば、簡単に合い鍵を作れるものですか」

「鍵によりますけどね…。ちょっと、拝見」

 長髪の優男は即答せず、律子が右手で支えるドアを内側に押し戻して、半開きの状態にすると、反対側の共同廊下に百六十五センチ内外の体を隠した。

 律子もドアストッパーを下ろして、鉄扉を四十五度に開いた状態に固定してから、身を滑らして廊下に出た。

「これはー、これはー、これは……」

 後ろ姿の長髪氏は、上体を折って錠前の鍵穴を点検しつつ、首を振る。さらに二度、首を振る。

 ようやく背筋を伸ばして付け加えたのは、依頼人が自分の人間を見る目に、首を傾げようとする寸前だった。

「これの複製を持っていた人間がいたなんて、ちょっと考えられないですね。何しろ、ロータリー・ディスクシリンダー錠と言いまして、新式の、非常に精巧な物なんですよ」

 声を改めて、長髪氏が続ける。

「もし外出中に、この種類のロータリー式キーをなくされたら、大変なことになります。メーカーが力を入れて開発した物で、我々プロでも、開けることができないのです。鍵穴から鍵を作ることも、できないですしね」

 意外な答えが、依頼人の頭を混乱させた。タウンページの広告では、すべてのトラブルに対応する、鍵がなくても開錠できる、紛失した鍵も作り直せる、と大見えを切っていたはずではないか。

「…ということは、鍵をなくしてしまったら、もう部屋に入れないわけですか」

「うーん、入るには入れますけどね。その場合は、錠を枠ごと焼き切るしか、方法はないですね」

 一言一言考えるように答える技術者に、質問を重ねる。

「どうやって?」

「電気ドリルを使って、この金属のシリンダーを壊すわけですよ」

 指さされたのは、ノブの上に取り付けられている円筒形の小突起で、中心部にある横向きの裂け目が、鍵穴に当たる。そのクロム・イエローのシリンダー錠と、同色のノブに、戸外の光が跳ね返った。

「つまり、ドアに穴を開ける、厄介な作業なんですよ」

 鍵を紛失すると、ロックサービス会社の技術者でも、鍵作りができず、鍵開けに難儀する種類の戸締まり用金具。それがロータリー・ディスクシリンダー式の錠前であり、鍵であることは、ようやく、のみ込めた。その合い鍵を見知らぬ他人が所持していたのは、ますます不可解。

「ロータリー式キーでも、元の鍵があれば複製できるのですか」

「それは、問題ないですね」

 一つの回答は、重苦しい気分を誘発した。律子が所持している二個のキー、ないし、埼玉の実家に預けてある一個のキーを基にして、あの中年男が四個目のスペアキーを作ったという疑惑が、にわかに生じてきたからである。

「何はともあれ、新しい鍵に取り換えていただかないと…。やはり、このロータリー式の物が一番進んでいて、安全なのですか」

「そうですね。一般的なシリンダー錠では、、この種類の物が優れていますね」

「最近は、カード式キーを取り付けているマンションもあるようですよね」

「ええ、ありますね」

「それから、指紋照合システム…でしたかしら」

「ええ、一階玄関に、指紋照合式の解錠システムを採用しているマンションもあります。暗証番号を入力してから、指を触れてオートロックを解くタイプです」

「そのほかにも、いろいろ出回っているようですよね」

「そうですね。鍵に裏表がなく、両差しできるリバーシブル・キーもあります。鍵を差し込まない非接触製キーもあります。声紋で本人を識別してドアを開くタイプ、それから、顔や瞳孔、手の静脈パターンを利用するタイプも、実用化されてますね」

 長髪氏が初めて、明るい表情を見せて説明した。

「そういう新しい方式の鍵に取り換えることは、できないのです か」

「できないことはないですが、まだ値段が高すぎます。一般の家庭向きではありませんね」

「高いと言うと、いかほど?」

「確か、指紋照合式が二十万から四十万ほど、静脈パターン認証システムだと、そ~う、四十五万円はしているはずです」

 表情が記憶を辿るものに変わると、その口の端に法外な数詞が掛けられた。

「あら、あら。ボーナスが出なければ、とても……」

 律子はしばし絶句してから、言い継ぐ。

「では、手頃なところで、今と同じロータリー式の鍵で、新しい物に取り換えてもらえませんか」

「うーん、それでもよろしいのですが…」

 なぜか、専門家の応答が曖昧になった。律子は目を見張って、相手の説明を待つ。

「実は、ロータリー式キーには欠陥がありましてね。あまり、お勧めできないのですよ」

 

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