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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第三章 オートロックシステム



     

「そう、そう、そう言えばね。住んでる人間なんか呼び出さずにさ、自分達で勝手に開けちまう泥棒連中も、うろついているよね」

 目の前にいる作業服姿の管理員が、まじめな表情を崩さず、声だけ低めて、新しい話題を差し出す。この世にいないブレザー姿の中年男の幻像が、しばし、スモック姿の律子の意識を離れる。

「ええ、ピッキング盗でしょう。もう、大変な社会問題になっていますよね」

「そう、そうだよ。ここと違ってさ、年数物のマンションや公団なんかだと、古い型の鍵を使っているからね。造りが単純だと、簡単に開けちまうらしいね。中へ入り込んで、留守の部屋も開けちまって、金目の物をごっそり持っていってしまう」

「ええ、そういう話ですね」

「何でも、鉤針みたいな、耳掻きみたいな、ピックとかいう鉄の棒を二本ばかり鍵穴に差し込んでさ、ガチャ、ガチャって出し入れして、こじ開けちまうらしいよね。早ければ五秒というから、すごい早業だ」

「プロの特殊技術らしいですね」

「そう、そのとおりだよ。そういう訓練を受けて日本に来た、外人の泥棒グループなんかも、うろついているんだね〜」

 ピック。ピッキング。組織的で、計画的な外国人窃盗団の暗躍。管理員が、近年、耳目を引くようになった言葉を連発する。

 あの侵入目的に謎を残したまま去った中年男とは、錠前を開ける手口が違い、所属する国籍も異なるようではあるが。

「中国人が一番多く来ていて、悪さの研究にも一番熱心らしいね。韓国とかフィリピンの泥棒連中も、来ていると言うし…」

「でも、ここのような新築マンションなら、ピッキングできない新製品が取り付けられていると、聞かされましたけど…」

「いや、違うよ、あんた」

 相手は弾かれたように帽子を左右にし、強い調子で話し続ける。「新しい型の錠だって、ピッキングできないとは言えないんだ。本当のところは、しにくいというだけなんだよ。連中が五分くらいかかっても開けられない複雑な造りになっているのは、そりゃ確かだろうけどね。中には、ゆっくり手間をかければ開けられてしまうものだってあるんだよ」

「新製品と言っても、必ずしも万全じゃないのですね」

「そう、決して安心しちゃいけないよ。泥棒連中には、訓練してくれる先生だって付いているんだからね。新しい型の鍵だって早業で破っちまう技術も、どんどん進んでいるらしいしね」

「あら、あら。本当なら、怖い話ですね」

「本当の話だよ。会社からも、いろいろ、情報が入ってくるんだ よ」

「マンションの管理会社から?」

「そう、そう。俺達は、そこに雇われてるんだから。あんた方は知らないだろうけどね、近頃は、マンションの管理人になるのも大変なんだよ。競争率が高くなって、間抜けでは雇ってもらえない時代なんだ」

「エリートなのですね」

「ハー、ハー、ハァ〜。それほどでもないけどね。ハー、ハー、ハァ〜」

 律子自身にも思い掛けず口走った冗談に、おおげさな反応が返ってきた。

 管理員には、お人好しの一面もあるらしい。語尾に力がこもらぬ、独特の高笑いが止むと、嗄れ声が引き続いて、狭いエレベーターホールに響く。

「まあ、外をうろついている泥棒についちゃ、防ぐ手もないわけじゃないよね。俺達のような管理人だっているんだし、人目ってものもあるからね」

「ええ、そ〜うですね」

「どうにも始末におえないのは、同じ建物の中に危ない奴が住んでることじゃないの。今の世の中、泥棒だけでも、本当に多いらしいよ。日本人の四百人か五百人に一人は泥棒だ、とか言うんだから ね」

 聞き手は耳を疑い、両目をしばたく。話し手には、独り善がりに悪い想像を膨らませ、人の恐怖心を煽る性向もあるのだろうか。野球帽のひさしに隈取られた表情を見詰めながら、探りを入れる。

「それも本当の話ですか」

「本当だよ〜、本当。それも、田舎の町での話だよ。いろいろのが集まっていて、外人も住んでる東京なんか、数え切れないほどいるんじゃないの。何せ、泥棒で捕まる連中が、一年で十六万人もいると言われていたんだよ、あんた」

「東京だけで、十六万人も捕まるのですか?」

「いや、それは日本中で、だけどね。ともかく、事件のほうは、一年で二百七十万、いや違う、一年で二百七十三万件も、起こっているらしいね」

 帽子の下の、したり顔が、解説を続ける。数値を言い立てるため、説得力が加わったように感じられる。

「二百七十三万件…。すごい数ですね。だけど、隣近所の人まで疑い出したら、きりがないですよね」

「まあ、もしもの事もあるって言ったまででね。そりゃ、世の中、あくせく働いている善人のほうが、ずっと多いよ」

「ちょっと、聞いていいですか」

「ああ、何なりと」

「管理人さんは、どうして、その方面に詳しいのですか」

「いや、親類にさ、泥棒を専門にしてきた刑事がいるんでね。いろいろ、聞かされてるから、自然にね」

 向かい合う相手は、今度は声を立てずに薄く笑った。

 短い沈黙を捕らえて、律子はようやく、本題を切り出し、二人は事後処理を話し合った。

 警察が指紋を採取した際の薬品痕は、九階の外廊下の手摺りからエレベーターを伝わって、一階部分にも残されていたはず。その共用部分に付着した痕跡についは、管理員がすでに洗い終えてくれていた玄関周りを含めて、すべて処理してくれるとの申し出を受け た。マンション管理会社への連絡も、行なってくれるとの約束を得た。

 彼の懇情には手放しで感謝したが、彼の弁舌がなお脱線して続くのには少々閉口した。

「ねえ、あんた。今の世の中、悪くなっていると思わない? 会社のために、子供のためにってね、あくせく働いても首になっちまう善人がいるかと思うと、政治家でも、役人でも、食品会社の重役でも、悪いこと、やりたい放題じゃないの。警官やガードマンなんかまで、悪いこと、やるじゃないの。そう、そう言えば、医者や弁護士の中にも悪い奴がいたし、野球選手にも税金をごまかした奴がいたじゃないの」

「ええ、そうでしたね」

「そう、そうなんだよね」

 先程来、エレベーターホールに出入りする人影は、全く見当たらない。大きなマンションでも、朝の通勤・通学、夕方からの帰宅の時間帯以外、人の動きが集中することは、めったにないのである。

 律子はしばし、世間話に自足する管理員の肩越しに、隣接するエントランスホールを見透かし、秋の陽光が溢れる屋外へと、目線を泳がせる。

 屋外との間にあるエントランスホールは、自動式の引き戸と手動式の開き戸、共に透明ガラス製の二枚の玄関ドアで前後を仕切ら れ、右手の奥に管理室が控えている。

 玄関前の敷地には、背の低いツツジ科やツバキ科の植え込み。幅広の歩道には、葉の大きいモミジバスズカケの街路樹。ガードレールの向こうの幹線道路には、昼日中の陽光を乱反射しながら行き交う車両の列。

 一瞬、聞き慣れた大都会の地響きが意識に上り、管理員のぼそぼそ声に、たちまち掻き消される。

「学校の先生や坊さんなんかでも、若い子を買ったりするじゃないの」

「え? ええ」

「いや、女を買うぐらい、まだいいのかもしれないね。保険金目当てに、親が子を、子が親を平気で殺しちまうんだからね」

「ええ、ええ」

「世の中が悪くなっちまった。大人が悪くなっちまった。だから、少年なんかもあちこちで、人騒がせな悪さを働くようになったん じゃないの」

「そうかもしれませんね」

「だから、俺が言いたいのはね、誰も信用しちゃいけない、潰れるかもしれない会社も信用しちゃいけない、自分の身は自分で守らなきゃ、ということなんだよね。食い物や、お茶、そう、それから酒とかね。こういうのに毒を盛る奴も、昔から、結構いるこったし ね」

「昔は、毒味役がいましたものね」

「そう、そう。話は戻るけどね、アメリカの大統領がさ、女で恥をさらしたのは、何年前だっけね?」

「さあ?」

「ともかくさ、日本でも、女で首相を辞めた奴がいたし、宗教の会長だか、名誉会長だかっていう奴も……」

 管理員は喉仏の動きを止めず、ぼそぼそと、掠れた声を繰り出し続ける。

 自分の日勤するマンションで起こったばかりの事件にあおられ、少し興奮しているのかもしれない。聞き役に徹する住人は、適当に相槌を打ちながら、角を立てずに辞去する間合いをみる。

 折しも、表からマンションに近寄ってくる人影が、五メートル先に認められた。プリーツスカートをはいた年配の婦人である。

 婦人は、オートロック式の自動ドアの先を閉ざす、両開きの玄関ドアを片手で押し開き、エントランスホールに入ってきた。

 ややあって、高い調子の電子音が響き出した。

「ピッ、ピッー、ピッ、ピッー、ピッ、ピッー」

 電子音に混じって、自動ドアを引き込む低い音が鳴り始め、ドアを背にしていた管理員が、口をつぐんで振り返る。

 今、無人の監視機能を負っている門が、全開されようとしていた。朝な夕な、繰り返されている光景にすぎないが、オートロックシステムを話題の的にしていた律子は、事新しく注視してしまう。

「今日は」

 ポリエチレンの袋を片手に提げた婦人が、等身大の姿をエレベーターホールに現し、居合わせた二人に向かって、笑顔を浮かべて会釈した。

「お帰りなさい」

律子は挨拶を返し、管理員は無言で帽子を上下させた。

 婦人の背後では、再び低い音を発して、自動ドアが閉まった。扉の開放時間は、十秒前後であろう。

 五十路見当の婦人の顔には、見覚えがあった。マンションの住人で、エレベーター内で二度ほど言葉を交わしていた。

 その婦人が通り過ぎると、律子は管理員に向き直して、意思表示をする。

「お仕事のじゃまになるでしょうから、私はこれで…。ご面倒でしょうが、後は、よろしくお願いしますね」

「いや、構わないよ」

 引き止めの言葉は出ず、長広舌に終止符が打たれた。老境を間近にした管理員は、物静かな顔を取り戻すと、どこか寂しさの漂う背中を向け、清掃作業を再開する。

 律子は集合ポストから朝刊を取り出すと、利用者を階上に降ろしたばかりのエレベーターを呼び戻した。

 毎日、晩酌を欠かさず、週に一、二度、競輪か競艇に熱中する。日本社会の不条理や日本人の退廃、外国人窃盗団の横行などを嘆きもするが、深刻に憤っているわけではなく、人生の楽しさをそれなりに味わってもいる。

 上昇するエレベーターの中で、そんなタイプの人物像を管理員に描きながら、律子は904号室に戻った。

 

 早速、住宅・家具用の合成洗剤を使って、部屋中に残された薬品痕の処理に掛かる。

 ひたすら、ぞうきんを洗っては絞り、汚れに当てる。思いの外、手間取りながら、警察の鑑識活動の入念さに感心する。

 それは片時のことで、作業を強いた元凶への憤懣と、誰へ向けようもない不安感が、抑えても繰り返し胸中を駆け巡る。午前中を費やしても洗浄は終わらず、昼食の用意に台所に立てたのは、午後一時を回っていた。

 住居は洗い清められても、住人の感情の淀みまでは到底、洗い流せない。

 

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