健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾 小説 健康創造塾 病気 健康創造塾
‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
2
律子は、前向きに急いだ。手始めに、電話で三カ所へ連絡する。会社と実家と、もう一カ所へと。朝のメイクアップは必要最小限で、食事はコーヒーと果物の必要栄養価以下で済ませる。
十月二十三日、火曜日、午前十時半過ぎ。下の階から呼び上げたロープ式エレベーターに乗り込み、マンションの最上階から一階へと向かう。通いの男性管理員を訪ねるためである。
『用途・乗用、定員・9名、積載600kg』と表示された閉所から、エレベーターホールに出ると、折しも、目当ての相手が清掃に勤しんでいる最中だった。
黒っぽい野球帽を目深に被った管理員は、細身の後ろ姿を見せ て、きびきびとモップを動かし続けている。ホールに降り立った住人に、注意を払おうともしない。
タイル張りの床が、湿り気を帯びて清々しい。床の片隅には、水を八分目に張った四角いバケツが置かれている。
「管理人さん、九階の坂本ですが…」
歩み寄って呼び掛けた。グレーの作業服がようやく動きを止め て、振り向いた。
肩を並べてみると、女では長身の律子より小柄である。新築されたマンションに入居して一年ほど経つが、面と向かって立ち話をするのは、初めてなのだ。
「ああ、坂本さん。昨日は大変だったそうで」
五十五、六歳見当の管理員は、すでに事件を耳に入れていて、災難に遭った入居者に気持ちを重ねてくれた。続けて、
「前から、あんまり頼りにならないと思ってたんだよね」
モップの長い柄の端を両手で包むようにしながら、嗄れた声で、意味不明のことを言い出した。
律子の目には、老境を間近にした男の顔が、妙に間延びして映る。歯並びの悪さも、影響しているのかもしれない。彼が口を開くたび、上の二本の前歯が欠け落ちているのが、目に付いてしまう。
「何が、ですか?」
「それ、それ。それのことなんだよね」
管理員は左手でモップを支え、右手で対象を指し示す。
突き出された人差し指の先にあるのは、エントランスホールへの行く手を遮る、強化ガラス製の自動ドア。察するところ、彼の意識作用が向けられた対象は、人でも、単一の物でもなく、システムらしい。
「オートロック設備が頼りにならない?」
「そう、そう。そのオートロックはね〜」
手間取りながらも、呑気に構える人物との意思の疎通が果たされた。律子は胸を撫で下ろし、小さく息を吐く。
「それがあるからって、決して安心しちゃいけない。そんなもんで、内のマンションは大丈夫だと思っていると、何の役にも立たなくて、とんでもない目に遭っちまう」
「そうなのですか?」
「俺は前々から、そう思ってたんだ。気の毒なことだったけどね、あんたの所が、いい例になったんだよね」
「ええ、まあ」
小声で調子を合わせる律子は、苦り笑うしかない。
「空き巣とかね、悪いこと、やらかそうって連中なら、わけなく中へ入ってきてしまうよ。なんせ、連中はプロ…、プロなんだから。玄関が閉まっていようが、建物の横に回れば階段だってあるじゃないの」
管理員は抑揚のない口吻で、ぼそぼそと話し続ける。
彼は確信しているらしい。犯罪防止のための有効な対策として、分譲マンションに続いて賃貸マンションへと、急速に普及してきたオートロックシステムは、悪意を抱く部外者の侵入を防げないの だ、と。惜しむらくは、口無調法な管理員の話は、漠然としていて説得力に乏しい。
律子は、エレベーターホール内から外階段へ通じる鉄製ドアを見詰めた。管理員は、分厚いドアを見詰める入居者を上目遣いに見た。
入居者は、管理員に視線を戻すと、異を差し挟んだ。
「だけど、管理人さん。階段の上がり口は、フェンスで囲まれてますよね。外からは入り込めないでしょう」
相手はゆっくりと帽子を振り、頬骨の目立つ浅黒い顔に、薄笑いを浮かべた。
「いや、いや。ああいう連中なら、わけなく乗り越えちまうね。何せ、フェンスの高さは百八十ってところ、二メートルはないね。俺でも、よじ登れるよ」
「えー、そうなのですか」
「何とか言ってたな……。そう、そう、消防法というのがあって、それ以上、高くするわけにはいかないらしいよ」
「消防法ですか?」
「そう、確か消防法とか言ってたよ」
「火事に備えて、人の逃げ場を空けておくのですかね」
「いや、煙の逃げ場だよ、煙の…」
「とにかく、防災とのバランスを取るために、フェンスはあまり高くできないわけですね」
「そう、そう。だから、フェンスは何の役にも立たないわけだよ。何せ、身軽な泥棒なら、雨樋をよじ登ると言うじゃないの。屋上から垂らしたロープで高い階のベランダに下りて、窓ガラスを割っちまうのもいると言うじゃないの」
約一年の間、軽い挨拶を交わすだけだった管理員に、物静かな印象を抱いていたが、根は話し好きである。思いの外、事情通でもある。
律子の頬が強張り、相槌に真剣味が加わっていく。
「だいいち、そんな忍術使いみたいな荒っぽいまねなんか、しなくてもいいんだよな。その、何とかロック…」
「オートロック。日本語で言えば、自動施錠かな」
「そう、そのオートロックの玄関なんて、実のところ、泥棒だろうと誰だろうと出入り自由なんだからさ。このマンションにしろ、何十人、いや百か二百か知らないけど、ともかく、大勢の人間が住んでいるんだ」
「五十人くらいでしょうかね」
「そう、そう。その五十人の誰かが、朝っぱらから真夜中まで、しょっちゅう出入りしているわけだよね。用事で来る人間も、しょっちゅう出入りしている。だから、泥棒連中が入り込むのは、わけはないよ。ドアを通り抜ける人間を見付けて、その後に、くっつくだけでいい」
「それは、そうですよね。オートロックがあるから、訪問販売や宗教の勧誘に煩わされないけど、時々は、九階に上がってくるセールスマンもいますからね」
オートロックシステムの設置された建物では、エントランスと呼ばれる館内玄関が、常時、閉め切られている。手続きを踏む外来者の場合、インターホンで来意を告げ、立ち入りを許可した入居者が遠隔操作で開錠しない限り、館内玄関を通過できない。キッチン用品の訪問販売員、保険のセールスレディ、新聞のセールススタッフ、宗教団体の布教師など、玄関払いを受ける者も多い。
昼のマンション内を遊び場にして、共用廊下や外階段を無我夢中で駆け巡る近隣の幼児達。夜の屋上にたむろして騒いだり、階段に出没して煙草の吸い殻を残してゆく少年少女。夏の夜、ルーフバルコニーに集まって花火見物に興ずる中に、ござを敷く老女も交じ る、子連れの婦人連中。夜昼構わぬ徘徊ついでに廊下に排尿する、知的障害を持った女の浮浪者。羽を休める鳥や昆虫を除いて、困った人間達が無断で建物に立ち入るのも、確実に制限されている。
従って、無人の監視機能を果たすオートロックを装備したマン ションは、出入り口を自由に通り抜けられるマンションに比べる と、防犯上の安全性が格段に高い。
しかし、その開かずの門は、決して万能の防御壁ではない。管理員が指摘しているとおり、善人の仮面を被った悪人が、脇戸を兼ねる金属製フェンスを乗り越えて、外階段に入り込むことも可能。立派な背広に素性を隠した盗人が、エントランスを通り抜ける人物と一緒に、エレベーターホールに紛れ込むことも容易。前者の場合、夜陰に乗じたり、人目を避けたり、こっそりと行動する必要があるだろう。後者の場合、白昼に堂々と行動したほうが、むしろ怪しまれないだろう。
「それにつけちゃ、管理室に座っていて、思うんだよね。郵便配達とか出前持ちのおっさん、それから…そう、宅配の兄ちゃんなんかが、よく出入りしているけどね。そういう中に偽物が交じっていたら、どうなるんだろうかってね」
管理員を務める人物がまた、突飛なことを切り出した。律子は黙って、欠け落ちた前歯が間断なく、見え隠れするのを見守る。
「呼び出されて、『速達です』とか、『お届け物です』と言われればさ、住んでる人間は玄関を開けちまうよね。声だけじゃ、本物か、偽物か、わからないもんね」
「そういう手口まで?」
「少しは頭の働く泥棒なら、考え付くと思うんだけどね〜」
「そういう悪賢い人間に狙われたら、テレビモニター付きのオートロックでないと、防げないですよね」
「だけどね〜、いくらテレビに映ろうと、制服なんか着て、それなりの格好をしてれば、見破れないだろうしな」
「それも、そう…ですね」
オートロックの盲点を並べ立てる相手に、合いの手を入れなが ら、律子は片時、意識を飛ばす。
……あの男。侵入事件の渦中に彼女を引きずり込んだまま、眉間に深い皺を刻んで果てた、あの見知らぬ男。
あの中年男にすれば、オートロックシステムの解除は、赤子の手をねじるように容易だったろう。
宅配の業者などを装って、インターホンと液晶表示を備えた操作ボードの前に立つ。住戸番号を適当に押して、在宅する住人を探し当てる。嘘を並べて、エントランスを開錠させる。といった手練手管は、全く不要だったろう。
前夜、刑事に聞かされたところでは、名も知らぬ男は、904号室の玄関扉に適合する複製鍵を持っていたのである。904号室に限らず、各住戸の錠前を開閉できる鍵ならば、そのままエントランスのロックを解く鍵としても使える。不正な複製鍵を持つ人物に対する時、オートロック式の関門は、防御壁の用をなさないのである。
それにしても、どのような手段で合い鍵を手に入れたのだろう。なぜ彼女の住居を標的にしたのだろう。
中年男の犯した最大の罪作りは、不気味な謎を残したまま、事切れたことだったのではなかろうか……。
ホームへ戻ります 二百七十三万…の目次へ戻ります ページのトップへ戻ります
|