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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖


第三章 オートロックシステム



     

 律子は、前向きに急いだ。手始めに、電話で三カ所へ連絡する。会社と実家と、もう一カ所へと。朝のメイクアップは必要最小限で、食事はコーヒーと果物の必要栄養価以下で済ませる。

 十月二十三日、火曜日、午前十時半過ぎ。下の階から呼び上げたロープ式エレベーターに乗り込み、マンションの最上階から一階へと向かう。通いの男性管理員を訪ねるためである。

 『用途・乗用、定員・9名、積載600kg』と表示された閉所から、エレベーターホールに出ると、折しも、目当ての相手が清掃に勤しんでいる最中だった。

 黒っぽい野球帽を目深に被った管理員は、細身の後ろ姿を見せ て、きびきびとモップを動かし続けている。ホールに降り立った住人に、注意を払おうともしない。

 タイル張りの床が、湿り気を帯びて清々しい。床の片隅には、水を八分目に張った四角いバケツが置かれている。

「管理人さん、九階の坂本ですが…」

歩み寄って呼び掛けた。グレーの作業服がようやく動きを止め て、振り向いた。

 肩を並べてみると、女では長身の律子より小柄である。新築されたマンションに入居して一年ほど経つが、面と向かって立ち話をするのは、初めてなのだ。

「ああ、坂本さん。昨日は大変だったそうで」

 五十五、六歳見当の管理員は、すでに事件を耳に入れていて、災難に遭った入居者に気持ちを重ねてくれた。続けて、

「前から、あんまり頼りにならないと思ってたんだよね」

 モップの長い柄の端を両手で包むようにしながら、嗄れた声で、意味不明のことを言い出した。

 律子の目には、老境を間近にした男の顔が、妙に間延びして映る。歯並びの悪さも、影響しているのかもしれない。彼が口を開くたび、上の二本の前歯が欠け落ちているのが、目に付いてしまう。

「何が、ですか?」

「それ、それ。それのことなんだよね」

管理員は左手でモップを支え、右手で対象を指し示す。

 突き出された人差し指の先にあるのは、エントランスホールへの行く手を遮る、強化ガラス製の自動ドア。察するところ、彼の意識作用が向けられた対象は、人でも、単一の物でもなく、システムらしい。

「オートロック設備が頼りにならない?」

「そう、そう。そのオートロックはね〜」

 手間取りながらも、呑気に構える人物との意思の疎通が果たされた。律子は胸を撫で下ろし、小さく息を吐く。

「それがあるからって、決して安心しちゃいけない。そんなもんで、内のマンションは大丈夫だと思っていると、何の役にも立たなくて、とんでもない目に遭っちまう」

「そうなのですか?」

「俺は前々から、そう思ってたんだ。気の毒なことだったけどね、あんたの所が、いい例になったんだよね」

「ええ、まあ」

 小声で調子を合わせる律子は、苦り笑うしかない。

「空き巣とかね、悪いこと、やらかそうって連中なら、わけなく中へ入ってきてしまうよ。なんせ、連中はプロ…、プロなんだから。玄関が閉まっていようが、建物の横に回れば階段だってあるじゃないの」

 管理員は抑揚のない口吻で、ぼそぼそと話し続ける。

 彼は確信しているらしい。犯罪防止のための有効な対策として、分譲マンションに続いて賃貸マンションへと、急速に普及してきたオートロックシステムは、悪意を抱く部外者の侵入を防げないの だ、と。惜しむらくは、口無調法な管理員の話は、漠然としていて説得力に乏しい。

 律子は、エレベーターホール内から外階段へ通じる鉄製ドアを見詰めた。管理員は、分厚いドアを見詰める入居者を上目遣いに見た。

 入居者は、管理員に視線を戻すと、異を差し挟んだ。

「だけど、管理人さん。階段の上がり口は、フェンスで囲まれてますよね。外からは入り込めないでしょう」

 相手はゆっくりと帽子を振り、頬骨の目立つ浅黒い顔に、薄笑いを浮かべた。

「いや、いや。ああいう連中なら、わけなく乗り越えちまうね。何せ、フェンスの高さは百八十ってところ、二メートルはないね。俺でも、よじ登れるよ」

「えー、そうなのですか」

「何とか言ってたな……。そう、そう、消防法というのがあって、それ以上、高くするわけにはいかないらしいよ」

「消防法ですか?」

「そう、確か消防法とか言ってたよ」

「火事に備えて、人の逃げ場を空けておくのですかね」

「いや、煙の逃げ場だよ、煙の…」

「とにかく、防災とのバランスを取るために、フェンスはあまり高くできないわけですね」

「そう、そう。だから、フェンスは何の役にも立たないわけだよ。何せ、身軽な泥棒なら、雨樋をよじ登ると言うじゃないの。屋上から垂らしたロープで高い階のベランダに下りて、窓ガラスを割っちまうのもいると言うじゃないの」

 約一年の間、軽い挨拶を交わすだけだった管理員に、物静かな印象を抱いていたが、根は話し好きである。思いの外、事情通でもある。

 律子の頬が強張り、相槌に真剣味が加わっていく。

「だいいち、そんな忍術使いみたいな荒っぽいまねなんか、しなくてもいいんだよな。その、何とかロック…」

「オートロック。日本語で言えば、自動施錠かな」

「そう、そのオートロックの玄関なんて、実のところ、泥棒だろうと誰だろうと出入り自由なんだからさ。このマンションにしろ、何十人、いや百か二百か知らないけど、ともかく、大勢の人間が住んでいるんだ」

「五十人くらいでしょうかね」

「そう、そう。その五十人の誰かが、朝っぱらから真夜中まで、しょっちゅう出入りしているわけだよね。用事で来る人間も、しょっちゅう出入りしている。だから、泥棒連中が入り込むのは、わけはないよ。ドアを通り抜ける人間を見付けて、その後に、くっつくだけでいい」

「それは、そうですよね。オートロックがあるから、訪問販売や宗教の勧誘に煩わされないけど、時々は、九階に上がってくるセールスマンもいますからね」

 オートロックシステムの設置された建物では、エントランスと呼ばれる館内玄関が、常時、閉め切られている。手続きを踏む外来者の場合、インターホンで来意を告げ、立ち入りを許可した入居者が遠隔操作で開錠しない限り、館内玄関を通過できない。キッチン用品の訪問販売員、保険のセールスレディ、新聞のセールススタッフ、宗教団体の布教師など、玄関払いを受ける者も多い。

 昼のマンション内を遊び場にして、共用廊下や外階段を無我夢中で駆け巡る近隣の幼児達。夜の屋上にたむろして騒いだり、階段に出没して煙草の吸い殻を残してゆく少年少女。夏の夜、ルーフバルコニーに集まって花火見物に興ずる中に、ござを敷く老女も交じ る、子連れの婦人連中。夜昼構わぬ徘徊ついでに廊下に排尿する、知的障害を持った女の浮浪者。羽を休める鳥や昆虫を除いて、困った人間達が無断で建物に立ち入るのも、確実に制限されている。

 従って、無人の監視機能を果たすオートロックを装備したマン ションは、出入り口を自由に通り抜けられるマンションに比べる と、防犯上の安全性が格段に高い。

 しかし、その開かずの門は、決して万能の防御壁ではない。管理員が指摘しているとおり、善人の仮面を被った悪人が、脇戸を兼ねる金属製フェンスを乗り越えて、外階段に入り込むことも可能。立派な背広に素性を隠した盗人が、エントランスを通り抜ける人物と一緒に、エレベーターホールに紛れ込むことも容易。前者の場合、夜陰に乗じたり、人目を避けたり、こっそりと行動する必要があるだろう。後者の場合、白昼に堂々と行動したほうが、むしろ怪しまれないだろう。

「それにつけちゃ、管理室に座っていて、思うんだよね。郵便配達とか出前持ちのおっさん、それから…そう、宅配の兄ちゃんなんかが、よく出入りしているけどね。そういう中に偽物が交じっていたら、どうなるんだろうかってね」

 管理員を務める人物がまた、突飛なことを切り出した。律子は黙って、欠け落ちた前歯が間断なく、見え隠れするのを見守る。

「呼び出されて、『速達です』とか、『お届け物です』と言われればさ、住んでる人間は玄関を開けちまうよね。声だけじゃ、本物か、偽物か、わからないもんね」

「そういう手口まで?」

「少しは頭の働く泥棒なら、考え付くと思うんだけどね〜」

「そういう悪賢い人間に狙われたら、テレビモニター付きのオートロックでないと、防げないですよね」

「だけどね〜、いくらテレビに映ろうと、制服なんか着て、それなりの格好をしてれば、見破れないだろうしな」

「それも、そう…ですね」

 オートロックの盲点を並べ立てる相手に、合いの手を入れなが ら、律子は片時、意識を飛ばす。

 ……あの男。侵入事件の渦中に彼女を引きずり込んだまま、眉間に深い皺を刻んで果てた、あの見知らぬ男。

 あの中年男にすれば、オートロックシステムの解除は、赤子の手をねじるように容易だったろう。

 宅配の業者などを装って、インターホンと液晶表示を備えた操作ボードの前に立つ。住戸番号を適当に押して、在宅する住人を探し当てる。嘘を並べて、エントランスを開錠させる。といった手練手管は、全く不要だったろう。

 前夜、刑事に聞かされたところでは、名も知らぬ男は、904号室の玄関扉に適合する複製鍵を持っていたのである。904号室に限らず、各住戸の錠前を開閉できる鍵ならば、そのままエントランスのロックを解く鍵としても使える。不正な複製鍵を持つ人物に対する時、オートロック式の関門は、防御壁の用をなさないのである。

 それにしても、どのような手段で合い鍵を手に入れたのだろう。なぜ彼女の住居を標的にしたのだろう。

 中年男の犯した最大の罪作りは、不気味な謎を残したまま、事切れたことだったのではなかろうか……。

 

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