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∥二百七十三万分の一の刑法犯罪∥


第三章 オートロックシステム



     

 誰かが呼んでいる。いや、違う。誰かが語り掛けている。

「……していては、何も変わりません。……していては、何も……ません」

 繰り返し、語り掛けてくる。遠くから。次第に近くから。女の声で。母親だろうか。いやいや、もっとずっと年弱。

「女性党! 女性党! 女性党でございます! 女性党は、母なる優しさで政治を変えます」

 坂本律子は、慈母のようなベッドの温もりの中で、はっきりと目覚め、ようやくにして悟った。

 街は、最も賑やかな期間に入ったのだ。つまり、その耳を揺すぶる若い女の声は、マンション直下の道路を移動する街宣車から発せられ、同時に、選挙運動の始まりを告げている。

 察するところ、うぐいす嬢は、その分野におけるプロではない。やや危なっかしい語り口で、当たりの柔らかい声を、数台の拡声器に乗せ、朝の街筋へと鳴り響かせている。

 地表で起こった騒音は、温度の低い上空へ伝わりながら増幅されてくる。鉄筋コンクリートで造られた中高層ビルの中にも、容赦なく入り込む。遮音性能を持つガラス窓が嵌め込まれていようと、二重サッシでなければ、あまり効果を発揮しない。

「今のままの政治で、いいのですか? 変わらなくて、いいのですか? 諦めていませんか? 諦めていては、何も変わりません。逃げていては、何も変わりません。国会議員の半数を女性が占めることで、政治は変わります。女性党! 女性党! 女性党でございます!」

 眠りを破った窓外の大音声が、そろり、そろりと遠ざかってゆく。連呼されている政党名は、全く耳慣れない。

 律子は、まだ、温もりから離れる気になれない。仰向けに体を横たえたままで、寝室内を見回してみる。

 カーテンを貫く光で十分に明るんでいて、天井や側壁に張り巡らされたビニールクロスが、白さを際立たせている。同じ白でも、ベッドの先に、普段にはない白を認めると、一挙に気分が萎えてしまった。罪作りな白色は、シックなグレーで統一されたクローゼットとドアに付着した、アルミ粉末の色であった。

 嫌な予感が兆した。目覚まし時計を求めて、ベッド脇のナイトテーブルに目線を回した。

 いささか頭が混乱し、腕枕の姿勢になって、文字盤を凝視する。示されている時刻は、午前九時三十九分。息を詰めて見守っても、時計は淡々と、その秒針を右回りに刻むだけで、逆行する気配を示さない。

 勤務先が始業時間に定めた八時三十分は、とうに過ぎ去ってい る。宇宙規模で展開する時の進行は、会社内で実務能力を評価されているだけのOLには、いっかな動かし得ない。

「あら、あら」

 漏れた溜め息とともに、東都データサプライで所属する資料課の光景が、ありありと思い起こされた。

 

 幻影の中の、紅をさし眉を整えた坂本律子は、本社ビルの正面玄関に踏み入れる。ロビーの奥に構える二基のエレベーターを横目にして、廊下を進み、階段を巡って三階へ上がる。

 広いフロアには、図書館のような一種厳かな雰囲気が立ち込めている。初めて足を踏み入れた人物なら、興味を引かれて、辺りを見回すことだろう。数百個のスチール製ラックやロッカーが整然と並べられ、階のスペースの半ばを占めている。そこに整理された調査資料を求める社員の姿も、垣間見られる。

 奥向きへと続く廊下を抜ける。資料課の事務室が現れる。壁周りに、社用のデータを詰めたロッカーや、私用の持ち物を納めたロッカーが配置され、中央フロアに、四十脚ほどのデスクが三列に並べられている。

 この時刻では、大方の課員は、出払っている。居残っている数名は、机上の書類やパソコン画面に向かっている。課員達が資料収集に赴いた法務局、区役所といった出先から戻り始める午後一、二時過ぎまで、事務室はこのまま、静まり返っていることだろう。

 課内を一望する席には、禿頭の人物が、小太りの体を落ち着かせている。上司の塚田課長である。

 四十代後半の課長は、地道な人物でバランス感覚にも富む。長年、同じ課内で執務していても、彼が管理下に置く三十数人の社員や、補充のアルバイト達に対して、声を荒立てるのを目撃したことはない。

 端正で心優しい上司は、遅ればせに欠勤を申し出ようと、決して不用意に責めたりしないだろう。電話口で、部下の立場を案じてくれることだろう。

 

 律子は目をぱちぱちさせたのを潮に、勤務先に飛ばしていた意識を、ベッド脇の置き時計に戻した。

 間違いはない。始業前に電話連絡ができるようにと、目覚ましは午前八時ちょうどにセットされてある。通常は六時半にセットし、装置の世話にならずに起床するのが、朝の習性になっている。

 理不尽な突発事件で夜更かしを強いられ、体を横たえても容易に寝付けず、空が赤らまんとする未明に深い眠りに入ったため、激しく鳴ったはずのベルを無意識のうちに止めてしまったようだ。

 遅寝遅起きは、爽快感と程遠い休息しか恵んでくれていない。

「あー、あ」

 二度目の溜め息を吐くと、もう一つのことに思い当たった。

 昨夜から、ゲストを迎えていたのである。押っ取り刀で駆け付けてくれたゲスト。姉の身を心配して泊まってくれた次弟の忠。

 彼はまだ、ダイニングキッチンに敷いた布団の中で、眠っているのだろうか。早くに目を覚まして、アルバイト先に出掛けたのなら、朝食を用意しなかった怠慢を詫びなければならない。

 慌てて、体を起こしてベッドの縁に腰掛け、ナイトウエアを脱ぎに掛かる。

 体の異状に気付くのに、二十秒と必要としなかった。右脚の膝頭の下に生じた、青黒い痣。両手で労るように押すと、わずかに痛む。

 非運の後遺症に、ほかならない。和室で目の当たりにした死体に動転し、夢中で逃れた、あの折、ダイニングテーブルに向こうずねを打ち当ててしまった。ひどい痛みはすぐ消え、就寝中にも疼かなかったため、意識に上らなかったのだが、皮下出血の跡は歴然と残っていた。

 不幸中の幸いと言えるのか、医者に診てもらうほどの打撲傷ではない。この体に受けた傷跡は、早晩、消えそうである。癒えるまでは、色の濃いストッキングで隠すよりも、スカート姿での外出を差し控えるのが無難だろう。律子は、迷わず選択した。

 心に受けた衝撃の波紋のほうは、果たして消え去るのだろうか。律子は、まるで確信が持てなかった。

 ニットパンツに、しじら織スモック。ホームウエアに着替えると、カーテンを引き開け、マンション九階の共用廊下に面したガラス窓も三十センチほど、換気のために開いた。

 網戸と金属製の面格子の先には、天空に彩雲が浮かぶ秋晴れの 下、日の光を反射する町並みが広がっている。そのかなたで起こった向かい風が室内に吹き込み、髪をわずかに揺るがせた。肌に心地よい清風は、束の間だけ、胸の霧を晴れ渡らせた。

 寝乱れた髪に手を当てながら中廊下に出ると、内玄関を確認す る。三和土に、忠の履き古したスニーカーはない。奥の部屋にも、人の気配は感じられない。

 曇りガラスを嵌め込んだドアを押し開いて、ダイニングキッチンに通る。テーブルの上に置かれていた煙草やライターは消え、無造作に畳まれて、部屋の片隅に積み上げられている寝具一式が、一抹の侘しさを誘う。室内を見回しても、書き置きは残されていない。

 忠が、いつ頃、出掛けたのかわからない。何という会社に勤めているのかもわからない。世渡り下手で、自分をあまり語りたがらない彼から聞いているのは、東京郊外のトラックターミナルで、荷物を運搬するフォークリフトを扱っているということだけ。

 久方振りに会った弟の近況をゆっくり聞き出せる時間も、朝食の世話をする余裕もなかったのは、本当に心苦しい。けれど、慌ただしい状況の中では、やむを得なかった。

 姉は、自らを納得させる材料を求めた。落ち度を自責するばかりでは、どこまで気分が落ち込むかわからない。

ふっと、思い起こされたのは、忠が言い残した助言だった。

「玄関の鍵だけど、新しいのに換えたほうがいいんじゃないの。また、空き巣とか強盗とか変なのに狙われたんじゃ、たまったもんじゃないよ」

 

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