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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
6
レストランでの遅い夕食をすませて、薄ピンクの外観で構える自宅マンションへ、姉弟が戻ってきたのは、午後十時を過ぎていた。一階のレンタルビデオ店は、闇の中にあった。九階の角部屋は、依然として、照明器具すべての光源体が赤々と灯され、警察の鑑識作業が続行されていた。
二人は玄関で足カバーを履き直し、男達の体臭に、薬品の異臭が混じる904号室へ上がった。制服や私服の警察官の間を遠慮がちに抜け、リビングキッチンの定席に納まる。
律子には、隣の和室で起こった、おぞましい光景が、いやおうなしに蘇り、たちまち脳裏を占領してしまう。無理やり、窓の外へ目を向けてみた。
バルコニー越しに見渡す大都会の光の渦は、初夜、すなわち午後八時頃と比べて、その明度をはっきり落としている。夜空に屹立している超高層ビルも、六十層に高く重なっていた窓明かりの数を半減させ、どこか物寂しい風情さえ漂わせている。ビル内のオフィスやショッピングセンターなどで働く老若男女のおおかたが、週初めの仕事を終わらせて、それぞれの帰路に就いたのであろう。
影が薄くなった窓明かりに代わって、建物の上部や屋上の高み で、ゆっくりとした明滅を繰り返している真っ赤な灯が、目立って見える。
あの赤い発光体はヘリコプターなどの衝突事故を未然に防ぐための航空障害灯だ、と話してくれたのは、誰だったろうか。間近に望む超高層ビルを仰ぎながら、ぼんやりと記憶を手繰ってみる。
誰と思い出せぬまま、かつてアメリカで起こった同時多発テロのテレビ映像が、心中に再生されようとする。朝方の空を背にした摩天楼の後ろから、大型旅客機が機首を現し、回り込むようにして、ビルの側面に突進していこうと……。
「坂本さん。…坂本さん」
しばし放心していた律子は、横顔に野太い声を浴びせられて、はっとした。
一拍、遅れて、女性に与えられた化粧という特権を施していない素顔を、声の主へ振り向ける。
「……九時半頃でしたがね、実家のお母さんから、電話がありましたよ」
目線の先に認めたのは、ダイニングテーブルを隔てて自分を見下ろしている、背広姿の中年男。オールバックの頭髪。抜け上がった額。金縁眼鏡を通す鋭い目付き。いらだちながら指図を出している人物で、他の捜査員を指揮する立場にある警察幹部と見て間違いないだろう。
その巣鴨警察署に所属する刑事課の課長・彼ノ矢警部の攻撃的な視線から逃れるように、律子は端正な身のこなしで立ち上がっ た。隣に座っている忠は、そっぽを向いたまま、煙草を吹かし続けている。
「それは、お手数を掛けました」
「とんでもない」
捜査課長はそれきり黙り、テーブルを挟んで一瞬、沈黙が降りた。居心地の悪さに耐えられなかったのは、住人のほうだった。
「母は、何か言っていたでしょうか」
「いえ、何も。ただ電話をくれるようにとの伝言でしたよ」
「そうですか…。あの、失礼ですけど」
「何か?」
「そちらのお仕事は、いつまで掛かるのでしょう」
ふと浮かんだ疑問を口にした。
「朝までは掛かりませんよ。後、数時間で終わりますから」
意想外にソフトな声で答えると、彼ノ矢警部が、弾かれたように背中を向けた。彼の態度に、部下に対する時のような、ふてぶてしさは、微塵も感じられなかった。
現場指揮官の言明に、間違いはなかった。904号室の検証は、日付が改まった深更の二時過ぎに及んで、ようやく終わった。
闖入者の亡骸は、警察官の手で運び去られ、居住者を安堵させた。律子にとって、圧倒的に憎く、いささか哀れむ存在が消え失せたのだ。しかし、霊安室が形の上では私室に戻っても、胸奥に巣くってしまった気味悪さまでは、簡単に抜け去らない。
亡骸と入れ替わりに、警察が残していった物もあった。指紋を採取した際の、おびただしい薬品痕である。壁やドアや調度に振り掛けられたアルミ粉末の洪水が、住居内を真っ白に様変わりさせてしまった。タンスから引き出され、元へ返された衣類なども、無造作に放り込まれているだけ。
異様な状況は、改めて事件の重さを想起させ、気分をめいらせる。
薬品痕の処理方法については、疲れた顔の佐藤鑑識主任が、おどおどしながら、くぐもり声で言い残してくれた。
「スーパーなんかで売っている洗浄液、知ってるよね」
「ええ、家にもありますよ」
「それで拭き取れば、きれいになるからさ。早くしたほうがいいよ。早くしないと、跡が黒くなって、薄汚れてしまうから……」
「そうですか、わかりました」
「あ、そうそう、保健所に頼んで洗浄してもらってもいいんだけどね。香り入りの薬で洗ってくれるよ」
「すぐ来てくれますかしら」
「う〜ん、無理じゃないかな。まあ、自分で後始末するこったね」
その神経質そうだった鑑識係の助言に従うと、今日、十月二十三日、火曜日の出勤は、見合わせなくてはいけない。すでに、心身の疲れは耐え得る限界に近い。寝不足のまま、あたふたと朝八時半に出社したところで、集中力に欠けて仕事も手に着かないだろう。
白い粉が幅を利かせる、荒んだ雰囲気の中で、律子は弟を休ませるために、ダイニングキッチンにスペースを作り、カーペットの上に布団を敷いた。和室を隔てる白い襖は、閉め切ったままにしてある。死体の横たわっていた隣室には、当分の間、足を踏み入れない心積もりなのである。
「律姉ちゃん、玄関の鍵だけど、新しいのに換えたほうがいいんじゃないの。また、空き巣とか強盗とか変なのに狙われたんじゃ、たまったもんじゃないよ」
寝室へ引き取る間際に、忠が提案した。
「そうねえ。確かに、そうしなければ…」
「ワンドア・ツーロックにして、警報ブザーも付けるとか、いろいろあるんじゃないの」
精いっぱい張りを込めた声に、律子は目だけで笑って応えると、ゆっくりとした足取りで寝室へ向かった。
何も考えずに眠るほか、何をするにも、もう遅すぎる。両肩には、疲労感がどっと伸し掛かっている。体調にも精神状態にも、今から防犯対策を講じていられる、ゆとりはなかった。
寝室の照明を落とし、シングルベッドの中に四肢を伸ばした。長い、長い、とてつもなく長い夜を過ごしたように感じられる。心理的な時間感覚では、初めての体験が凝縮された一夜で、一週間が経ってしまったように感じられる。
瞼を静かに閉じ、深い息を吐いた。視界が闇に覆われると、日没後の一部始終が、脳裏に再生された。帰宅前から動揺を余儀なくされた、降って湧いた災難。立ち会って当惑させられた、警察の初動捜査。心に浮かぶ情景には、自宅マンションに出入りした人々が、次々と現れる。
諸々の登場人物を追い払って、あの中年男がしつこく現れ出た。彼の顔は、尋常ではない。死に変わっている。その赤黒く、おぞましい死に顔が、次第に輪郭をはっきりさせてくる。頭を右に、左に振るが、部屋を踏みにじった末に息絶えた男の面差しは、記憶の回路に焼き付いて容易に去らない。
「プッ、ププー」
窓の下から枕辺に届いた警笛の音が、執拗な影を追いやってくれた。マンション沿いの道路を行く車から軽く発せられた、クラクションの甲高く、短い音。
天与の警笛はすぐ立ち消え、高さ三十メートルほどの九階には、自動車を駆動するエンジンの音と、車輪がアスファルト路面を滑っていく音とが混じった、小さな響きが、絶え絶えに上がってくるだけである。大都会の闇が最も濃くなった今時分から夜明け過ぎま で、下の国道は、交通量の最も少ない時間帯に当たっている。
常にない静けさが、心細さを誘い出した。無性に心細い。夜の物寂しさを、これほど痛感したのは、何年ぶりのことだろうか。彼女は、おもむろに記憶を辿ってみた。
答えなど出ない。唯一、確かなのは、疲れが体の芯に及んでいること。
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