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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
4
池永と田村の両刑事は、坂本律子への事情聴取を終えると、薄ピンク色の外壁を見せる現場マンションを後にした。二人一組で、周辺区域の聞き込みに赴くためである。
「主任、大丈夫なんですか。裏付けを取る前から、あの女性の供述をすっかり信用してしまっても」
肩を並べて歩きながら、若手の刑事が勢い込んで、古手の刑事に尋ねた。歩道に連なるモミジバスズカケの枝葉が、わずかに揺れている。風が出たため、夜の冷え込みが厳しく感じられる。
「いや、大丈夫。俺ぐらい長くやってると、直感でわかるんだよ。どういう死体か、どういう人間かってな。絶対に、あの人は嘘を言っていない。信じていい人だ」
「けっこう、熱くなっていますね」
若手の田村は、親子ほども年の離れた上司を揶揄する口調になった。
「うん、俺も人の子だからな。美人だと捜査に熱が入るよ」
怒りもせず、臆しもせず、部下を見返しもせず、張りのある声が答えた。
田村は苦笑を漏らして黙り、二人は分担されたブロックに向かって、街角を折れる。
小道の両側には、二階建ての住宅やアパート、背の低い雑居ビルやマンションが混在し、隙間なく続いている。
小刻みな運び方で両足を進めながら、池永刑事は思い返す。
確かに、先程まで対面していた人は、好感の持てる女性だった。やや切れ長で涼しい目元と、長身で引き締まったスタイルは、十分に人目を引く。その外見の中でも、才知に裏付けされた上品な雰囲気を醸しているのが、何より好ましい。しかも、非常事態にもあまり動じない、ゆとりを持ち合わせている。彼女のゆとりは、教養や人生経験から生まれたのだろうし、気長そうな面を兼ね備えた性格にも由来しているのではないか。
<美人探偵のために、必ず事件を解決してやる。俺が、この俺が、解決してやるんだ>
五十にすぐ届く年齢まで独身を通しているベテラン刑事は、人知れず決意を固めて表情を引き締めた。
「ウォーン! ウォーン! ウオー! オーーーン!」
近回りのどこかで、飼い犬が神経質な吠え声を立てている。
池永には、意識の外のことだった。時節は木の葉の散り始める時分だが、彼の心中には、青葉をそよがす初夏の薫風が吹いていた。
5
刑事に、事の経緯を説明し終えると、坂本律子も弟の忠と連れ立って、夜の大通りに出た。植え連ねられた街路樹の、疲労を蓄積したような緑が、小刻みに揺れていた。
真っ直ぐ五分ほど歩いて、二十四時間営業のファミリーレストランへの階段を上る。店は一戸建てに構えていて、一階部分に吹き抜きの駐車場、コンクリートの列柱に支えられた二階に、客席や厨房が設けられている。六面体の洋式ビルで埋まる周辺では、その茶褐色の瓦で葺いた寄せ棟造りの屋根が、シックな異彩を放っている。
自動ドアに招かれて、姉弟は広々としたフロアに足を踏み入れ た。
温かな色合いの照明が、室内の三方を囲む大きなガラス窓にも、光を投げ掛けている。空席を目指して進みながら、律子はフロアを一回り見渡す。半分以上のテーブルは、来客で埋まっている。知った顔は、見当たらない。
見当たるはずがない、のかもしれない。彼女が街に住み着いて、まだ一年ちょっと。近所には、家を訪ね合うほど懇意にしている人はいない。会釈して短い会話を交わす眼中の人が四、五人で、顔を覚えているだけの人物を加えても、十人は超えないのではないか。
二人は、窓際の席に腰を落ち着けた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
待つ間もなく、丸顔の初々しいウエートレスが、きびきびとした所作で、水を注いだグラスとメニューを割り振る。
ビールと食事の注文を受け、そのオレンジ色の制服が立ち去る と、忠が含み笑いを浮かべた顔を向けてきた。
「さっきの刑事だけど、坊さんというか、仏様に似てると思わなかった?」
「そう言えば、そうねえ。名刺をくれた池永さんのほうは、刑事にしては、のんびりした感じで…」
「それにさ、あの人、動きが危なっかしくて、やっと生きているような感じを与えるんだよね」
律子が見受けるところ、尋問をしてきた池永刑事は気さくで、人当たりが柔らかかったが、決して完全無欠なタイプではなく、間然する所も大いに持ち合わせている人間のようだ。忠が指摘したように、動作がどこか、たどたどしく、性格的にも鈍感、単純、軽率に傾く部分を多少抱えているのではないか。彼を尊敬する人は、少ないだろう。彼を憎んだりする人も、少ないことだろう。
五歳年上の姉は、人柄を推し量りながら、威厳とは無縁な刑事を擁護する側に立って、
「そんな言い方をしたら、失礼よ。仏様の顔みたいなね、三日月形の眉を持った人は、粘り強くて、どこか悠長な性分らしいわよ」
努めて快活に、池永の風貌から長所を求めてみた。
「へえ、律姉ちゃんって、頭がいいんだ。やっぱ、親父の言うとおりなのかな」
「父さんの言うとおり?」
「内の子供は、下にいくほど駄目になるってね。いつか、親父が、ぼやいていたんだよ」
“優秀”な長女は軽い苦笑で応えると、戻ってきたウエートレスを目の端に認めて、オレンジ色のワンピース姿に視線を上げる。
「お待たせしました」
鼻に絡む、甘い感じの声とともに、ビールの中ジョッキが、テーブルに届けられた。
軽く返礼した律子は、黄褐色の液体と酒精を封じる白い泡のコントラストに、改めて空腹感を呼び覚まされる。無理もない。通常の夕食時間から、二時間以上過ぎている。
「トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルル……」
間近で、高く、鋭く、差し迫る音が、空気を揺らした。
電話の着信音…。反射的に、目で音を追う。ぷつりと、出所がわからないまま、機械音が絶ち切れた。
忠には、関心を向ける素振りがない。あるいは、自分の空耳だったのだろうか。
不安定になっている律子の心の内で、疑念が広がって動揺の呼び水となってしまうのは、忠の背後の座席を占める若いカップルが食い止めてくれた。
茶色に脱色した後ろ髪を見せる、ジャンパー姿の男。黒くて長いストレートヘアに、描き眉毛と蛍光色の口紅で飾った顔で向かい 合っている、黒み走った服装の女。俯き加減の彼女は、目の前にいる連れの茶髪とは話していない。髪に隠れた右耳に携帯電話をあてがって、連絡を入れてきたばかりの第三者のために、口を動かしている。
「えー、何すんの?」
若い女は顔を仰向けて笑いながら、手のひらサイズの電子機器に向かって、声を一段と高める。
「えー、ずるい、ずるーい。教えて、教えて」
たわいない通話を聞き捨て、律子は自分達のテーブル席に意識を戻した。忠を見詰めて、ビールのジョッキを左手に掲げる。
「とにかく、乾杯しましょう。来てもらって、本当に助かったわ」
「いや、こんなことぐらい」
はにかんだような微笑を浮かべながら、ジョッキを傾けた忠が、一口、喉を湿らすと、窓外に目を転じる。
「パーポー、パーポー、パーポー、パーポー」
道路で発した音は、律子の鼓膜も刺激し始めた。
移動しながら、不安を掻き立てるようなサイレンを鳴り響かせているのが、パトカーなのか、救急車なのか、消防車なのか、それともガス会社や水道局の緊急車両でもあるのか、定かではない。
「救急車、交差点を直進します!」
拡声機を通した男の叫び声が、風に乗って客席に入り込んで、ざわめきを圧倒し、発生源を知らせた。
「この辺りは、なかなか賑やかなんだね」
弟の口気に、皮肉が臭った。
「ええ、そうねえ。うるさいくらいだし、怖い所だわね」
姉の語りに、実感がこもった。
今夜の生々しい出来事の、この場面、あの場面が色付きで脳裏を掠め、東京が百鬼夜行の地に思えてきた。
マンモス都市の灯火の下には、怪しく、醜く、荒んだ人間が、どれだけ潜んでいるのだろうか。何千人だろうか。いや、何万人だろうか。いやいや、抱えている一千二百万人の人口からすれば、何十万人かもしれない。いずれにしても、途方もない人数。恐ろしいほどの罪人が、はびこっている。
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