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‖二百七十三万分の一の刑法犯罪‖
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オーベルジュ東池袋での鑑識活動、近所近辺での手掛かり捜査と並行して、904号室に居住する坂本律子への事情聴取も、開始されようとしていた。彼女は住居侵入事件の被害者で、死体の第一発見者と見なされている。
警察の現場検証の物々しさ。想像を超える捜査員の人数。張り詰めた空気が支配する中、リビングキッチンの片隅で肩を並べ、身を硬くしている律子と、弟の忠の前に、背広姿の二人の刑事が立った。
「ちょっと、よろしいですかね」
ダイニングテーブルを挟んで、律子の顔を覗き込むようにして断りを入れたのは、短く刈った髪が目立つ熟年だった。
「はい、どうぞ」
「それじゃ、こちら側に座らせてもらおうか」
熟年は相棒の若い刑事を促しながら、向い側の席に腰掛けようとする。
律子は耳に当たる髪を左手で撫で上げながら、二人の肩越しに、和室との境を仕切る襖を流し目に見る。白い襖の奥では、死体検視が行なわれているのだろう。捜査員の立てる会話や物音が、また大きく響いてきたのである。
気を取り直して、目の前に相対した男達へと、意識を戻した。正面に陣取る坊主頭の熟年刑事は、茶色の上着の前を寛げている。見受ける年齢は五十歳近く。彼の左隣に座る、長めの髪をセンター分けにした刑事のほうは、紺色の背広のボタンを留めている。二十代前半に映る。その若手が、テーブルに小型のシステムノートを広げた。
「ゴホン」
咳払いを潮に、坊主頭が口火を切った。
「この度は、とんでもないことに巻き込まれましたね」
律子と忠は無言で、上半身を折り曲げた。
「我々は、巣鴨警察署の者です」
「巣鴨署ですか?」
「こちらのマンションの所在地は、東池袋二丁目ですよね」
「ええ、確かに」
「この東池袋二丁目は、三分の二ほど、内の署の管轄になっているんですよ」
参考人の怪訝な面持ちを読み取って、池永部長刑事が苦笑交じりに説明を加えた。
「池袋署と間違わんといて下さいよ」
「そういうことですか」
律子は、目元をかすかに緩めた。
古顔の刑事は腫れぼったく、眠そうな目をしていて、初対面の人間をも、ほっとさせるような独特の雰囲気を醸し出している。
「大体のところは、つかんでいますが、昨日、十月二十一日の日曜日、あなたはどう過ごされていたか。まずは、そこから聞かせてもらえませんか」
「昨日…ですか?」
言い淀む姉の横顔に、左隣の弟が声を掛ける。
「つまり、アリバイを証明しろってことだよ」
正面の池永が、宥めるように右手を軽くかざした。
「気を悪くせんで下さいよ。こちらも職務上、お聞きするのですからね」
律子は小さく頷くと、乾き気味の口を開く。
「いいえ…。日曜日なら、埼玉の実家へ帰っていました」
「何か用事があって、実家へ?」
「いいえ、週末はいつも帰っているのです。私は、金曜の夜、実家へ帰り、月曜の夜、マンションに戻ってくるという二重生活を続けていますから」
「ほう、週末に家を空けて、帰りを待っていたのが死体ってわけか…。東京では、何をされているのかな」
「普通の会社勤めです」
「キャリアウーマンさんか…。勤め先はどちらで?」
「信用調査の会社で、東都データサプライ」
「ほ、ほう、東都データサプライね」
社名に強い関心を示しながら、池永刑事が言葉を続ける。
「かつて、警察官OBが興信所やら探偵社を開くのがブームになったことがあって、ちょっとは知ってるんですがね、全国に支店を持つ興信所の大手じゃないですか」
「ええ、最大手ですわ」
日頃、社員達が抱くライバル会社への対抗心から、律子は業界ランキングを言明した。
「何にせよ、お堅いところにお勤めですな。まさか、女探偵さんじゃないでしょうね」
刑事は真面目な顔をわずかに崩して、参考人の仕事に興味を示した。
<それが、事件と何の関係があるのですか>
本心では質問に質問を返したかったが、悠長に構えた相手の顔を見やり、律子は事務的に答える。
「いえ、担当は資料の収集でして…。それに、内の会社では探偵と言わずに調査員と呼んでいるのですけど、個人の素行調査はほんの少しで、企業の信用調査がほとんどなのですよ」
「なるほどね。まあ〜、ともかく…。ゴホン、ゴホン。フー、フー…。今日も、いつもどおり、その資料を集める仕事をされていた ?」
「ええ」
「では、退社後、マンションに帰ってきた時の状況を聞かせてもらいましょうか。男が死んでいるのを発見したのは、あなたですよね、そちらの弟さんではなくて」
刑事の視線が、ピンク系ベージュのスーツに身を包んだ姉と、黒い革ジャンパー姿の弟の間を往復する。顔立ちの相似や相違を探っている風がある。忠は質問者を一瞥しただけで、口を開かない。
「ええ、私です。弟には、後から電話して来てもらったのです。私、帰宅する前から、薄々察してはいたのです。部屋の中で、大変なことが起こっているかもしれない、と」
「それはまた、どうして?」
「信号待ちで建物を見上げたら、部屋の電気がついていて、おかしいな、と」
「今まで、うっかり電気を消し忘れて、出掛けたことは?」
「なかったですよ、一度も」
池永刑事が坊主頭を回し、システムノートにペンを走らせていた若手と、顔を見合わせる。
「男は夜間か夕方、忍び込んだのかな」
若手の刑事は思案顔で首を捻り、古手の刑事も、ゆっくりとした動作で、思案顔を正面の律子に戻した。
「それじゃ、部屋から何が飛び出すかわかったもんじゃないし、勇気が要ったでしょうな、中へ入るのに」
「それは、もう…。でも、開き直って、覚悟を決めましたから」
「玄関のドアは開いていた?」
「いえ、内側からロックされていたので、自分で開けて。でも、あの得体の知れない男は、どうやって入り込んだのでしょうね。管理室から合い鍵を盗んだのでしょうかね、刑事さん」
律子が、眉をひそめて聞き返した。唐突な災難に見舞われながら、冷静さを保って応対していた参考人が、初めて他人に見せた生の感情の陰りだった。
池永刑事は、両肘を置いていたテーブルから上半身を乗り出し、早口に切り出す。
「それに関しては、こちらから尋ねたいことがあるんですがね。このマンションは、分譲ですか、それとも賃貸?」
「分譲マンションで、一年ほど前に新築されたものです」
「それなら、管理室から持ち出したとは考えられないな。分譲住宅ならば、管理人やら不動産業者、誰も合い鍵とか親鍵を持っていないのが常識なんでね」
「そうなのですか」
「坂本さん、あなた、鍵を落とすといけないと思って、玄関付近に、予備の鍵を隠し置きしてませんか。例えば、植木鉢の下やら郵便受け、メーターボックスの中とかにね」
「いえ、置いてないですよ。私は一人暮らしですし、万一に備えては、実家のほうに…」
説明しながら、マンションの開錠システムに気付いて、言葉を継ぐ。
「あ、それに、ここはオートロックを採用しているマンションでしょう。もし鍵をなくしたら、共同玄関も通られないわけです。だから、あまり意味ないですよ、玄関周りにスペアキーを隠していたとしても」
「なるほどね。こじ開け三分、物色五分が泥棒に多いパターンなんですけどね、こじ開けの線も薄いですな。錠前その物が、やすやすとこじ開けられる代物でも、簡単に鍵の複製ができる代物でも、ないようですしね…」
「はあ、そういうこと…ですか」
律子は再び、びんの毛を左指で撫でた。古参の刑事から明解な答えが得られず、軽い落胆に見舞われたのである。
警察も解明できぬ盲点を突き、他人の住居に侵入した男が、現実にいる。
男はオートロックの防犯システムを潜り抜け、外界というパブ リックな空間から、自宅というプライベートな空間を遮断する、玄関扉の役目を反故にした揚げ句、隣室で冷たく横たわっている。
男が犯罪を重ねる危険は、すでに消えた。同時に、男が手口を自供する望みも、もう消え失せた。そして、男の謎めいた侵入手口が彼の専売特許であり続けるとは、誰一人として請け合えないだろ う。
「まあ、お宅へ侵入した男の目的やら、方法やらは今後の捜査を待つとして、その被疑者が死んでいるのを発見したのは、六時十五分で間違いないですな」
「ええ、六時十分から十五分頃だったと思います。正確な時間は、わかりませんわ。何しろ、ひどく、びっくりしてしまって」
少し間を置いた後、刑事が声の質を変えて、尋問を繰り出す。
「坂本さん、その男とは、本当に面識がなかったんでしょうな?」
直視する目に、一瞬、刺すような感じがこもった。人を射るような視線にたじろがされ、律子の黒目が泳いだ。
「ほ、本当に、見ず知らずの他人ですから」
池永刑事に対して初対面から抱いた、のんびりした印象と、今、垣間見せられた、犯罪者を追い詰めるプロの顔。その落差の大きさに戸惑いながら強く訴えた。
「そうですか。まあ、確認のために、お聞きしたまででしてね」
熟年刑事の目から、職業的な凄味は消えていた。代わりに、別人の声が律子に浴びせられる。
「あんた、嘘を吐いていないだろうな。顔見知りなのに、見ず知らずの他人と言い張っても、いずれ調べればわかってしまうんだ」
荒い語調に驚かされ、はすかいの席を振り向くと、若手刑事の挑むような顔にぶつかった。
「ばかばかしい。どうして、私が嘘を吐かなくてはならないのですか」
律子は眉根を寄せ、我知らず尖った声を上げた。
相手方も譲らない。ペンを持つ右手を上下に振り、
「何も盗まれていないのは、死んだ男が泥棒ではなく、親しい人間だった証拠じゃないのか? 初めから、何一つ盗む必要などなかったんだ」
論外にすぎる詰問に応酬したのは、第四の声だった。
「失礼だよ、あんた! 姉は、とばっちりを受けた被害者じゃないか。何だ、その言い種は」
弟の忠が、半眼になって通していた沈黙を破って、険しい顔を突き出していた。
「田村!」
池永刑事が低く、鋭い声で後輩を制した。
その田村と呼ばれた刑事巡査は、渋い顔でシステムノートに視線を落とした。忠も、仏頂面で腕組みをする。
リビングキッチンの一角に沈黙の時間が流れ、襖を隔てた和室の話し声が、また律子の耳に届いた。
彼女自身は、もう興奮を引きずっていなかった。胸の内で、自らに言い聞かせる。
<落ち着いて、落ち着いて。挑発に乗ってはいけないわ>
唐突な侮辱に反発を覚えた。しかし、冷静に判断してみれば、若手刑事の素振りには、自分達を怒らせようと故意に仕掛けている節も、感じられないわけではない。
「ゴホン」
気まずい雰囲気に包まれた席に、池永刑事の咳払いが、再び響いた。続いて、彼の口にあてがわれた右手の拳が外された。
「坂本さん、あなたのほうには心当たりがなくても、男のほうはあなたを知っていたとも考えられる。近頃はストーカーなどとハイカラな言い方をしていますがね、下心を持って女性を付け狙う、やからは、昔から実に多い」
黙って頷く律子を見据えて、池永が声を低める。
「近頃、身の回りで、不審なことはなかったですかね? 駅から後を付けられたとか、いたずら電話を受けたとかね。それから…、そう…、家の中の物が知らぬ間に紛失していたとかね、何か前触れのようなことは、起きてなかったですかね」
律子はわずかに首を傾けて、しばらく思案を巡らせるが、
「特に、これといって思い浮かばない…ですね」
「よく思い起こしてみて下さいよ。侵入して死んだ男にしても、本当に、どこかで見掛けたことがなかったか、どうか。例えば、マンションやら近所、朝夕の通勤途中、それから…、そうだな、会社の内外。どこかで見掛けた顔ではないかってね。何でもいいから、もちろん今でなくてもいいから、捜査の参考になることを思い出すようにして下さいよ」
前を寛げた上着のポケットをまさぐると、池永刑事は一枚の名刺を差し出した。
「思い当たるところがあったら、侵入犯の身元も追跡しやすくな る。連絡は、こちらにお願いしますよ」
池永明夫の目に、力がこもった。坂本律子は、かすかに頷いた。
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