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‖読み書きでボケを予防する‖


●決して枯れることがない知識欲を満たす読書、それによる感銘などは、確実に脳の若さをよみがえらせてくれる原動力となる。
 老後の自分の肉体を守るためには、新陳代謝を活発にすることも必要になってくる。一日中、こたつに座ってテレビを見ているような生活では、長生きはできない。よく働き、よく体を動かし、よく歩き、よく摂生を守るということによって、自分の心身両面の健康は保てる。

 しかしながら、足などを鍛えるのは心臓などの臓器はもちろん、頭の鍛えにもなるが、それのみで頭の老化は防げない。原稿を書いたり、社会のために働いている人はボケずに、気楽にテレビの前で過ごしていたような人は案外ボケている。

 そこで、脳の老化を予防するために、いろいろな本を読むことをぜひとも勧めたい。

 決して枯れることがない知識欲を満たす読書、それによる感銘などは、確実に脳の若さをよみがえらせてくれる原動力となる。

 本に夢中になりすぎて悪い姿勢を続け、体調を崩すのは感心しないが、誰もが余裕があるなら、せめて一日に一、二時間ぐらいは、心の糧となるような書をひもとくようにしたいものである。

 人間は年を取るにつれ、つまらない雑用がやたらと多くなる。読む物は新聞、せいぜい週刊誌程度である。よほど向上心の強い努力家でない限り、研究書や新刊書の読破、古典の世界の散策などには、縁がないことだろう。

 だいたい、年を取るにつれて知識欲も薄れ、求知心に乏しいのであるから、吸収される知識は極めて微量でしかない。これでは大脳を刺激する適量にも達しず、脳の老化をわざわざこしらえているようなもので、忘却現象が起きるのも致し方ない。

●すでに客観の世界が風化してしまった老人の世界は、主観一点張りの砦に閉じこもっているのに等しい。
 一般的にいって、老人は古いこと、若い時代のことはよく覚えているが、新しいことはなかなか覚えられないものである。脳細胞の老化からくる記銘力、記憶力の減退の結果には違いないが、もう一つの原因は刺激に対する反応が老化されて、物を見たり、聞いたりする場合にも注意力が散漫になり、鮮明な印象として残像を残さないためだ。

 こういう状態では、忘れるのはむしろ当然といえる。外から見たり、聞いたりする刺激が注意力の欠乏から、映像を結ぶことができなくなっては、見れども見えず、聞けども聞こえずというように、ただ惰性で見聞しているにすぎない。

 そればかりか、脳細胞の硬化性現象のため、見ることや聞くことを拒否するようになる人もいる。例えば、相手のいうことを寛容に聞く柔軟性に乏しくなるのは、そのためである。

 さらに、相手の話が寛容に聞けないだけでなく、自己の主観から、相手の気持ちや場所柄に無頓着(むとんじゃく)に、自己の主張だけを述べるようになる。すでに客観の世界が風化してしまった老人の世界は、主観一点張りの砦(とりで)に閉じこもっているのに等しいのだから、言々句々、自我の主張に局限されるのは致し方のないことである。

●特に若い人は、いつか真理がわかるその日のために、前もって多くの本を手当たり次第に、読んでおくことが大切ではないかと思う。
 現実はかくのごとくであるから、特に老人は努めて客観の世界を風化させないよう努力する必要がある。それには若い人に交わったり、読書などで新知識を求めることを怠らぬことが肝要。それこそ頭脳を老化させず、明晰に保つ方法なのである。

 定年退職した人の場合などは、余裕のできた時間を活用して、読書の趣味を持つことで、今までの仕事だけが生きがいだという、狭い価値観を作り替えることもできるはず。

 老年や壮年ばかりでなく、若者も心掛けて、読書などで頭の訓練を十分にやっておくべきである。老後も脳を健全に保つために、若いうちにしておいた読書体験は、必ず役に立つだろう。若いうちから何事にも無関心なタイプは、脳の働きも不十分で、将来ボケる確率が高いのである。

 ことに吸収力の強い十代、二十代は、何でも広く取り込んでおくのがよい。乱読で少々雑学に流れても、いろいろ色彩豊かに吸収しておくがよい。

 乱読や多読は、ともかく量を読むことを第一にしているといってよいだろう。一方、精読、熟読は、はじめから終わりまで、一字一句ゆるがせにせずに読んでこそ、著者の考え方が理解できるという考え方に立っている。

 その一つの乱読は、知的好奇心から始まる。好奇心を持って読んだ本は、たとえ乱読といえども情報として脳に記憶される。そして、それが新たな好奇心を呼び起こし、人間は欲求を満たすべく、さらに多くの本を読もうと、自然に効率的な読書法を身に着けていくのである。

 特に若い人は、いつか真理がわかるその日のために、前もって多くの本を手当たり次第に、読んでおくことが大切ではないかと思う。

 読書の対象を広く持ち、あれもこれもと、あらゆる分野の本に手を広げてみると、よほど性に合わないものでない限り、興味が湧き、知識が深まり、さまざまな発想も得られるはずである。

●若い時は二度ないからこそ、若いうちでなければできない貴重な体験をしておくべきだ。
 本というものは、少年少女の頃はじめて読んだ時には全然意味がわからなくても、空暗記して、お経のように、口ずさむことができるようになると、次第に、意味がわかってくるもの。まさに「読書百遍意自ら通ず」である。

 こうした乱読、多読、精読、熟読を通じて、日頃から幅広く、あるいは突き詰めて本を読んでおくと、思わぬ時に、思わぬ形で、目先の障壁を突破する視座も与えられるもの。若い時は二度ないからこそ、若いうちでなければできない貴重な体験をしておくべきだ。

 要は読む習慣を付けることが大切なのであり、それが自己啓発につながると、必ず将来役に立つ時がくる。大きく伸びるためにはぜひ必要である。

こうした読書習慣を通じて、大成した人物の一人として、フランスの皇帝、ナポレオンがいる。ナポレオンの睡眠時間がたった四時間だけだったという話は有名であるが、大の読書家でもあったのである。

 政治力、戦略、軍事力、指導力を始め、人格すらも、独特の読書法から培われたといわれている。彼はその自分の頭脳に基づいて、大帝国を築いたのであった。

●社会人や生涯現役人なら、通勤時間を活用して本を読む時間を生み出すのも、よい方法である。
 時間に比較的余裕がある定年退職者や学生などと違って、現役の社会人や主婦、あるいは生涯現役の人などの中には、読書に振り向ける時間がないという人も多いことだろう。

 しかし、社会人などの場合は、どうしてもある程度は本を読む必要がある。今日のように日本経済を動かす要因や企業成長の要因が複雑であって、それを理解するには膨大な知識や情報が必要な時には、何としても本を読む時間を見いださなくてはならないだろう。

 「忙しいので時間がない」というのは言い訳であって、読書の意欲さえあれば自然に時間を発見できるものだ。

 そこで、確実に本が読めるように、日常生活の中で必ず行うことの中に、読書を組み込んだらよいだろう。可能ならば、やがて読書の習慣が身に着くはずである。要するに、習慣化する工夫が必要なのだ。

 毎朝、早起きをして、社会人や生涯現役人なら出勤する前、主婦なら家事をする前に三十分でも、一時間でも読書をすることが最良だが、通勤時間を活用して本を読む時間を生み出すのもよい方法である。

 今、大都市を中心に、朝夕の通勤に使われる時間は年々長くなっている。片道一時間半は、もはや普通のこととなった。往復三時間、一日の八分の一もが、毎日の行き帰りに費やされているわけだ。

 相当の時間を通勤にとられざるを得ないとすると、問題は当然、その時間をどのように有効に活用するかにかかってくるだろう。

●気が散らずに、ゆっくり本を読めるようになれば、通勤電車の書斎化に成功したことになる。
 電車やバスの中で本や新聞や雑誌を読むことを、すでに実行している人もかなりいるはず。工夫次第で、もっと徹底した通勤時間の読書活用法も考えられる。
 まず、朝早く起きる習慣を付けて、一時間ぐらい自主的に出勤時間を早めて自宅を出ると、新聞さえ広げられないラッシュ前のすいた電車やバスに乗れるから、座席に座ってゆったり読書できる時間を中心に、一日のスケジュールを組み替えることができる。

 次に、このようにして朝の電車やバスの座席を確保できたら、貴重な通勤時間の利用法を前もって決めておくのである。この時間こそ自分だけのために使える時間だから、思い切り自分の好きなことをすればいい。

 読書に意欲がある人なら、往復二、三時間の通勤電車内を動く書斎にして、せっせと励めるはずである。すいた車内で、座席を確保できるから、本の欄外に感想などを書いておくこともできる。

 机に向かわないと読書意欲が湧かないという人や、他人の存在が気になって読書に集中できないという人は、まず五分、頑張ってみる。そして、十五分、三十分、一時間と徐々に目標を伸ばしていく。それが、電車やバスの中で、自然に読書に集中できる道である。

 通勤電車などが落ち着ける空間になったら、しめたもの。気が散らずに、ゆっくり本を読めるようになれば、通勤電車の書斎化に成功したことになる。毎朝、電車やバスに乗る際は、読みたい本の一、二冊は持っていくことを習慣にすればいい。

●仕事中心の人ならば、電車内で今日の計画を立案したり、明日の計画を考えるのもよい。
 もちろん、読書ばかりでなく、仕事中心の人ならば、電車内で今日の計画を立案したり、明日の計画を考えるのもよい。アイデア開発に興味のある人ならば、カード片手にアイデアや創造性開発を研究するのもよい。

 もっぱら英会話など語学の勉強をするのもいい。今は小型のカセットテープレコーダーやウォークマンがあるから、超満員の電車では、手を動かさなくてすむ会話の学習に最適だろう。

 このように通勤時間を利用して、人にはまねのできない大きな仕事をしている人はたくさんいる。彼らは、通勤の時間をただボンヤリしていたり、スポーツ新聞を読むことなどに費やさないで、電車やバスの中を自分専用の移動書斎、移動研究室にして、もっと有意義なことに計画的に活用しているのである。

 新聞などは朝食の時にさっと目を通すだけにして、乗り物の中では、読書をしたり、計画を立てるとか、工夫を凝らすといった創造的なことに専念する。詳しく新聞を読むのは、頭の疲れた帰りの電車の中にするといった工夫こそ、通勤時間を有効に使う方法なのである。

 朝は、すいた電車の中でゆっくりと本を読んだりして会社に着けば、始業までなおたっぷり時間の余裕があるので、一仕事も二仕事もできるだろう。普通の仕事に使わず、創造的な思考の時間に当てるのも一案である。

●つまらない雑誌類に目を通すよりも、ちゃんとした本を読んだほうが、どれだけボケ予防や将来の飛躍のためになるかわからない。
 朝の自宅や朝夕の通勤電車内に限らずとも、工夫次第で、もっと多く読む時間を作ることも可能である。 一般に、「最も多く本を読む人は、大抵最も多忙な人だ」などといわれている通り、読書家はいろいろと工夫をして時間を作り出している。誰もが、見習うことができるはずである。

 一つ目は、読みたいと思っている本を、常によく目につくところに置くこと。机の上や寝室の電気スタンドのもとに、いつも本を置いておく。台所や電話台、浴室やトイレなどにも、しっかりした読み物を置いておくといい。つまらない雑誌類に目を通すよりも、ちゃんとした本を読んだほうが、どれだけボケ予防や将来の飛躍のためになるかわからない。

 たとえ五分という短い時間であっても、本を読むことに当てるならば、わずかな時間が積もり積もって大きくなるのである。

 以上は、時間に追われた人のための苦肉の策。いうまでもなく、ゆったりした読書の時間がとれれば、それに勝ることはない。

 私は早寝早起きで早朝に読書することを勧めたいが、人によって環境も生活スタイルも違うし、朝型の人、夜型の人というように体質も違うので、それぞれ自分に合った読書法があるに違いない。

 例えば、勤め人が残業して帰宅した後、九時から十一時までを読書時間とするというのが自分に最も合っていると考えれば、もちろんそれでもよいだろう。

 仕事で疲れて帰ってきた後で読書するのは、苦痛に決まっている。その苦痛に耐えて体を慣らすのには、かなりの期間の苦しい生活があるはず。この苦しさにどのように耐え抜くかという工夫が、大事なのである。

 その習慣に体を慣らすためには、人によって半年ぐらいはかかるかもしれないし、疲労との闘いに精神力が奪われてしまうので、読んだ内容はほとんど頭に入らない人もいるかもしれない。しかし、この期間をすぎれば、自然に軌道に乗り、一年も続ければ、抵抗感や苦痛どころか読書の楽しみが湧き、内容がどんどん理解できるようになる。

 もう読書が習慣化して、呼吸するのと同じように、一種の生理的な行動になったと見なしてよいだろう。一度そうなると、本を広げなければ、落ち着けないようになる。大げさにいえば、毎夜の習慣が何かの事情で妨げられると、体のリズムが狂うような気にすらなる。

●読んだ本の要約や自分の感想、意見を文章にまとめてみるという方法は、読書を自分の知識にするという意味では、最も効果が高いだろう。
 ある人の説によると、「本を読んでいればボケないと一般にいわれるが、本を読んで一部でもそれが暗唱できていえるくらいに、読み返さないと効果がない」という。

 そこで、工夫して時間を作り出し、読書に当てた成果を確実に身に着け、ボケも防げる方法を伝授しておこう。

 単行本にしろ、新聞や雑誌にしろ、ただ読んだり、読んで赤線を引くだけでは、情報や知識はなかなか自分のものにはならない。それらをしっかりと身に着けてしまうのに最適と思われる方法は、読んだことを口に出して話してみることである。特に効果的なのは、読んだ本の概要を翌日、人前で話すことだ。

 復習ができ、重要なことは頭の中にしっかりと刻み込まれる。また、人からの質問や批判があって、それに十分に答えられなければ、自分がいかにあやふやにしか理解していなかったかがよくわかる。その点をもう一度読み返してみれば、さらにはっきりと理解でき、忘れないものだ。

 そうしたことを繰り返していると、本を読む時にも、後で他人に要約して話せるようにということを意識して、考えながら読むという習慣ができてくる。一章を読み終えたら、その要約を考えたり、あるいはページごとに余白に一、二行要点をメモしたり、といった自分なりの方法が身に着いてくる。実は、こういった習慣が読書の成果を自分のものとする、重要なポイントだと思われる。

 もう一歩進めて、読んだ本の要約や自分の感想、意見を文章にまとめてみるという方法は、読書を自分の知識にするという意味では、最も効果が高いだろう。

 書くことについて少し話を広げると、読んだ本についてのみならず、自分の考えを文章にしてみることは、頭を鍛えるという点で非常に重要な意味を持っているものである。

 口でしゃべっている時には、少しぐらい論理を飛び越しても気が付かないものだが、文章にしてみると、前と後ろが全く結び付いていなかったり、論理が矛盾したりしていることがはっきりして、自分の考えがいかに整理されていないかを嫌というほど思い知らされるものだ。

●誰にとっても現実的な方法で、文章化する力を身に着けるためには、メモや日記などの個人的な記述から手掛けるのがよいだろう。
 文章にするということは、つじつまを合わせる技能を身に着けるために、ぜひとも必要である。

 人にある種の感動を与え、人を動かすには、説得力が要求されるものであり、その説得力の第一のポイントは、つじつまが合っていること、すなわち、論理的に首尾一貫していることである。その首尾一貫性が、話し手の信念となり、迫力を生むのである。そのためにも、書くという作業はなかなかに苦しく、大変な努力を要するのも確かだが、ぜひ自分の考えを文章化する習慣を付けたいものだ。

 文章化する場合も、一冊と限らず、関連する書物数冊を合わせて一つの文章にまとめるとなると、ちょっとした研究レポートの色彩を帯びてきて、内容の理解は大幅に広がり、深まるもの。

 ただし、現実には仕事に必要なテーマを与えられた場合や、向上心の強い努力家でない限り、自主的にこういう努力をするのは至難の業であろう。やれば必ず効果がある方法とはいえど、少し負担が大きすぎるので、すべての人に勧めるというわけにはいかないように思える。

 誰にとっても現実的な方法で、文章化する力を身に着けるためには、メモや日記などの個人的な記述から手掛けるのがよいだろう。人に提出するレポートではないので、起承転結の整った文章である必要はない。

 もちろん、文章は上手なのに越したことはないが、ここでいう書くという作業は、自分の考えを紙の上で整理するためのものであって、取り立てて文章の上手下手を問題にする必要はない。まずは、何よりも自分の考えを正確に、きちんと整理する力を身に着けることであり、文章の味わいとか文章力はその次の問題である。

 個条書き程度でよいから、自分の考えや感じたこと、読んだ本の内容などを毎日メモすることだ。

 この程度のことでも、最初はかなり苦痛を感じることだろう。しかし、読書と同じように、半年も続ければ習慣になる。そうなればどうということもない。文章を書くことは、言葉を覚えると同時に、漢字を覚える一石二鳥の効果もあるのだ。

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