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‖腹八分の勧め1‖

 

●食環境の変化が及ぼす影響

 現代の日本人は、何とも恵まれた食生活を送っている。毎日、牛乳、卵、チーズ、バター、さらに生野菜も一色ではない。トマト、キャベツ、レタス、セロリなどなど。魚に肉。晩酌には日本酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ワイン。何でも簡単に手に入り、食べられるし飲める。

 不平不満はゼロ。このような豊かな食生活、ありがたい暮らしに恵まれたのは、ほんのここ二十年、三十年くらいのことではあるまいかと思う。この上なく繁栄した日本を築き、飽食の時代といわれる現代を築いたことは、「よかった」としなければなるまい。

 終戦の折、やっと芋を食べていた人々が、スーパーの棚にあふれる食品の中から好きな物だけを買い求める。サラリーマンやOLは、昼飯にハンバーグランチやパスタを食べる。米食中心であった日本人は、パンや肉を中心とする食生活に変わってきている。四十年前、いや三十年前まで米・菜食だった民族が、この十年、十五年ほどの間に、欧米とは比べ物にならないとしても、肉食中心の西洋型食生活に移りつつある。

 何千年かかってはぐくまれてきた日本人の肉体が、食環境の変化に対応し得ているかは、大いに疑問が残るところである。民族の体質というものは、そんなに簡単に変われるものだろうか。

 飽食の時代といわれる今日の食生活は、昭和二十年代とは比べることはできない。当時は、食べ物を選ぶなどということはとんでもないことで、食べられる物を探すだけで精いっぱいだったのである。

 近年は食べ物に恵まれた結果、我が日本人、ことに若い人の身長は著しく伸び、欧米人に比較して見劣りしないほど、成長したことはまことに喜ばしいことである。

 逆上って原因を探れば、終戦直後、まさに成長しようとしている学童に対し、アメリカから全国的に学校給食として送られた牛乳や脱脂粉乳などを毎日飲ませたので、骨格を作るカルシウム、身長を伸ばすビタミンB2 、および血や肉を作る良質の蛋白(たんぱく)質などを豊富に摂取できたのが一番大きい、と解すこともできる。

 敗戦後の食糧不足に困り果てた日本人への、戦争相手だったアメリカからの思い掛けぬ贈り物が、当時の少年少女を発育させ、彼らの世代を親とする今の青少年の身長をかくも伸ばす要因の一つとなったのである。

 しかしながら、現代の日本人は体だけは大きくなっているが、「うどの大木」ではなかろうか。

 飽食、過食、美食の結果、肥満となり、知らぬ間に骨はもろく、内臓はおかしくなって、いろいろな欠陥が出てきている。病院や製薬会社はもうかり、国民は常に保健に気を遣うようになってきた。

 弱った体を医療で補い、長生きをする長寿国日本ということで、平均寿命が八十歳代となったが、今長生きしている人たちは明治生まれ、大正生まれなのである。これが昭和初期生まれくらいまではよいとしても、団地やマンションに住み、インスタントラーメンやレトルト食品を食べて育った団塊の世代以後が老人になった時、果たして明治生まれや大正生まれのように長持ちするのであろうか。たぶん、病院や介護施設ばかりが込んでしまうのではないだろうか。

●食事の三S主義というもの

 「丈夫で長持ちしたい」と本気で願うならば、飽食を避け、できるだけ粗食をすること。そして、適当な運動をすること。

 明治生まれ、大正生まれに限らずとも、第二次世界大戦前の昭和生まれは菜食、粗食で、あの厳しい時代を生き抜いてきた。肺病は多かったが、胃の悪い人は少なかったし、脳卒中やガンも少なかった。戦後の死亡原因の変化も見逃すわけにはいかない。ほとんどが、ぜいたく病。

 一昔前、この「ぜいたく病」の代名詞と見なされていたのは、痛風だった。「風が吹いても痛い!」と言われるほどの激痛を伴う病気で、中年男性特有の病気のように思われていたのが、最近では女性や若い年齢の人たちにも見られるようになった。

 痛風とは、その基礎となる「高尿酸血症」を改善しないと、心臓病や腎臓病などの合併症を起こす恐い病気であり、予防するためには運動などの生活改善と共に、食生活の改善が必要である。 繁栄と裏腹の飽食の時代を生きることを余儀なくされた現代人は、せめて自ら防げる害は排除すべきだろう。

 つまり、人間にとって栄養を取ることは必要であり、飲食は本能でもあるが、この飲食には、単にエネルギーの補給とか、味を楽しむというだけではなく、正しい仕方、方法があるのである。

 菜食、粗食であれば、食べ物は何を食べてもよいから、量に注意せよ、食べ方に注意せよ。これが、編集子の説く〃正食〃の要領である。

 正しい食物を、適量に、よく噛んで食べること。よく噛めば、結果的には小食になる。わかりやすく簡単にいえば、人間は菜食、小食、咀嚼(そしゃく)という三S主義によって、食事を取ればよいのである。

 体験しない人には「まさか」と信じられないだろうが、小食で、よく噛むことを長年実践し続けると、空腹に慣れ、いつも胃腸がすっきりしている。何ともいえないさわやかさ。牛飲馬食で、絶えず胃が重くモタモタしている人のちょうど正反対、見事な肉体管理である。

 もしも飢餓感があれば、心身ともに悪影響をおよぼすが、習慣は第二の天性だから、体のほうによい癖をつけると、食事時でも、さらに目の前で家族が食べていても平気で、欲しくならない。いつでも全身が軽く、吸収がよく、中毒なども起こしようがない。

 いつも受け入れる肉体容器が空だから、うんと働いた時など、たくさん食べても支障がない。人間、半日や一日欠食しても、自身の肉体があわてないよう躾けをしておきたいもの。

 全国各地、世界各国の食材が口にできる飽食の時代で、食事の恩恵がわからない人は、意識的に二、三日でもよいから断食をやってみることだ。それで、どんな物でも食べられるということが、この世の幸福であると悟れる。

 いかに粗末な物を食べても、「うまい」、「おいしい」と思わず感嘆の言葉が口をついて出てくる。すると、「ごちそうさま」と感謝し、お礼を尽くしていることにつながる。

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●食べられることの幸福

 食卓に向かって敬意と感謝の心を忘れない人であれば、今の豊かな世の中で一生食うに困るということはないだろう。

 家庭においては、食事の作法というものもある。背筋を伸ばし、姿勢を正して一口ひとくち、ゆっくり噛んでいただく。

 どんな食べ物でもみな、大自然が創ってくれた物。「いただきます」という感謝の言葉を述べて、一口ひとくち大切にいただくことである。ありがたく感じて食べれば、まずいものはない。

 「いただきます」という言葉の元は、「命をいただきます」ということである。生きとし生きる物は、動物でも植物でも、穀類にしても野菜にしても、みなそれぞれ生き続けたいわけである。その命をいただいて私たち人間が生きるわけだから、それをたくさん食べる人は寿命が短いし、心から感謝し、満足して食べる人は寿命を長く与えられる。おいしい物、本当に新鮮な物で、汚染されていない物を小食でいただく。おいしくいただく。そういうことが、長寿の秘訣となる。

 本当に「ありがたい」と思って食べると、胃液の分泌が盛んになるから、粗末な物でも血となり、肉となる。体に害となるようなことはない。

 心身の健全、完全な人は、何を口にしても特別な味がして、「自然はよくもこれほど、食物にさまざまな味をつけて、美味に食べさせてくださるものか」と、感嘆せざるを得ないだろう。

 栗の実はクリ特有の味があり、西瓜はスイカだけにある特別の味がするように、粗末な物は淡泊でよく、美味な物は美味でまたけっこうだと思えるのが、健全な心身を持つ者の感覚である。

 どうしても食事のありがたさ、食物のおいしさがわからぬ時は、わかるようになるまで一食も口にせず、辛抱することに限る。

 「この世の中で、一番うまいソースは何だろう」というフランスの小話があり、「それは空腹という名のソースだ」と話のオチがついている。確かにおなかがすいていれば、大抵の物はうまく食べられるものである。

 日本にも、「お斎(とき)の時間を延ばして、思いっ切り空腹にしておけば、香の物だけでもご飯はおいしく食べられる」と説いた、江戸前期の禅僧・沢庵(たくあん)和尚のごちそうという有名な話が伝わっている。

 カロリー計算や栄養チェックに神経を使わなくても、食事を取る肉体側に完全吸収、完全燃焼という条件がそろってさえいれば、沢庵や梅干しや豆腐を主にした食事だけでも、もうろくしないで、禅僧のように九十歳、百歳までも生きられる。

 山海の珍味も、満腹時には見たくもない。腹いっぱいなのに食べるのは、おいしくないどころか、かえって苦しいものである。

 体は本来、素直なものだから、毒物だって口に入れればこなさなければならない。腹も身の内、体こそいい迷惑である。

 食事をおいしくいただくコツは、疲れ切らないほどによく働いて、「よくやったなあ」と満足してリラックスし、腹八分目の食事をよく噛むのがよい。

●腹八分の食事を守る

 前述したように、人間は菜食、小食、咀嚼という三S主義によって、食事を取ればよいのであるが、現代は物がありすぎるため、誰もが食べる量が多すぎる。その食べ方が早すぎる。噛むことも少なすぎるし、料理の味も強すぎる。

 毎日の労働で得た高い金で食生活をしながら、ろくに味わいもせずに、たくさんの食べ物をうのみにするなど、実にもったいないことである。

 昭和五十一年頃で、日本人の食べる量の平均は、一日に一四六二グラムだったが、少ない人は七一九グラムなのに、多い人では三五七一グラムと約五倍の開きがあって、個人差はかなり大きいようだ。

 誰もが見た目に惑わされて、食べすぎたりしないように、間食もなるべくせずにすますことである。満腹感ばかりではなく、空腹感のよさも知ること。とにかく、消化器を休ませることが肝要である。

 例えば、自然に従い、自然に任せて暮らすような生き方をすれば、食べすぎなどということは、しなくてすむようになるはずだ。

 日本には、昔から「腹八分に医者いらず」、「腹七分に病なし、腹六分は老いを忘れる」などということわざもあるのである。

 小食で胃腸を悪くする者はないが、過食によって病気をする人が多い。ことに夜、寝る前の大食は内臓に悪いから気をつけるべきである。

 食べすぎて腹を壊したり、病気になったりするのは、みな心の欲、意識がそうさせるのである。見た目においしそうだから、ついつい手が出てしまったり、隣の人がうまそうに食べているから、「それじゃ、私も」などと思ったりする。

 鳥や獣は、決して食べすぎるようなことはない。意識というものを持たないからである。その点、人間が一番劣っている。

 自然に任せ、意識を起こさず静かにさせれば、人間も適量の食事しかしないようになる。肉体は自分にとってちょうど都合のいいだけの量を要求し、それ以上は欲しがらない。 腹八分目ならば、活動をするにしても、休養をとるにしても、負担を感じるようなことはない。それでいて、栄養は十分に足りることを請け合う。

 人間は食べすぎた場合でも、完全に消化できれば害にはならない。しかし、食べすぎるというより、この食べ足りない腹八分のほうがいかに健康によいかということは、昔の長寿者の発言からもわかる。

 金沢に成巽閣(せいそんかく)というのがある。これは前田藩の下屋敷で、そこには前田藩時代のさまざまな文献などが残っているが、ある部屋にゆくと扇面が飾ってある。それに「一口残」、つまり腹八分目と書いてある。

 これはどういうのかというと、藩では非常に老人救護に力を注ぎ、六十五歳以上の老人には、日労五合給付した。毎日のお米を五合出したというのである。今日でいうならば、老人年金をお米に代えて出しているようなものであろう。

 その前田藩第十三代の殿様が斉泰候という人で、百歳以上の老人を呼んで園遊会を開いた。集まった最年長が百二十五歳の人で、その翁に書かせたら、なかなか雄勁(ゆうけい)な文字で「一口残」と書いた。長生きの秘訣は、一口残す、腹八分目ということである。

 その後に「一口残、以て衆生を養う」と続く。残ったお米を托鉢(たくはつ)の坊さんにやって、坊さんはそれで生を養い、人生の生き方を庶民に説くということであろう。

 この例からもわかるように、腹八分というのは、老人の一つの心得なのである。

●百歳長寿者の秘訣も腹八分

 現在においても、百歳を超えてもまだ健在な、文字通りの長寿者にその秘訣を聞いてみると、必ずといっていいほどいわれるのは、この腹八分目ということである。腹八分で決して余計な物は食べない。そして、好き嫌いはない。

 日本百歳会が平成三年九月末に百歳人二百八十五人にアンケートしたところでは、食事の分量は腹八分目が六十七パーセントと多く、回数は一日三回がほとんどであった。

 おかずについては、肉類よりも魚や野菜を好む傾向があり、特に好き嫌いなく何でも食べると答えた人が多かった。料理の味つけは、半数以上の人が一般的な普通味を好んでいるが、最近では健康上の問題もあり、塩分控えめの数が増えつつある。

 このように百歳人が実践、実行している腹八分の健康法は、一般の方にも、知識としてはよく知られた健康法であろう。しかし、これを実行した場合の効果の大きさについて、理解している人は少ないといってよい。

 ある長寿者の場合、時々ズボンを新調しないでもよいように、体重を五キロ程度二〜三カ月間で減らすため、減食することがあるという。その期間は、本人も驚くほど快調になり、最もありがたいことは、睡眠時間が少なくできることで、腹八分の効用を十二分に理解しているつもりだという。

 ところが、食べる物が以前に比べあまりにもおいしくなるために、食べることの楽しみを味わう時間、回数が増え、何カ月かが経過すると以前の状態に戻るのが常らしい。

 人間が腹八分以上に食べることは、日常生活の必要量以上の食べ物を摂取していることであり、その余分の食物の消化、吸収およびエネルギー源の蓄積のために、余分の体力を消耗する必要がある。その体力の回復のために、睡眠や休養が必要となる。従って、減食すれば、それだけ体力がつき快調となる。

 病気の場合は食欲が減退し、休養および睡眠を要求するが、この場合は日常生活に必要な食事を代謝する体力がないことを意味し、食物の代謝には、想像以上に体力が必要であることを物語っていると、この読者は理解されているという。

 さて、私たち人間が一日に消費する標準カロリーは、二千四百カロリーといわれる。カロリーとは、糖質、脂肪、蛋白質といったエネルギーが、食品中に蓄えられた単位をいう。

 この点、永平寺の修行僧の食事は、一日わずか千二百カロリーで、成人男子の六割程度である。それで激しい修行をしてなお、ふっくら、つやつやしているのはなぜか。朝食はかゆ、ゴマ塩と漬物。昼食は麦飯、野菜のあえ物。夕食はそれに煮物がつく。

 修行に訪れる雲水たちは、最初の二カ月で体重が数キロも減り、足もむくむ。それが三カ月をすぎる頃から体重が戻り、お坊さん特有のふっくらした体になってゆく。

 分析した専門医師は、「栄養バランスを含めて分析しても、従来の栄養学では解決できない矛盾がある。精神力が食べ物の栄養の吸収力を強めるのではないか」といっている。  永平寺の和尚さんは、「新しく入った雲水も、しばらくして心が清らかになり、目も澄んでくる頃には、順応の力が湧き、ゴマ一粒からも活力を求められるようになります」と説いている。

 

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