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∥仕事への体当たりで頭を磨く1∥

●人間の能力には伸びる時期がある

 私たち人間の知力を意味する「脳力」にしろ、体力や技術力をも含めた力を意味する「能力」にしろ、決して、一直線で伸びるものではない。

 世の中には、子供の頃は神童と呼ばれていたのに、社会に出て行き詰まる人間もいれば、若いうちは凡才と評されていたのに、人生の後半で伸び、懐の深い大人物といわれるようになった人間もいる。

 ところが、一般の人たちは現代の日本を学歴社会だと思い込んでいて、いい大学に入学した時点で、あるいは一流企業に入社した時点で、その人の長い人生が決まったという見方をする傾向があるようだ。

 私が思うには、学歴社会というのは大学の先生や官僚組織の一部においてのみいえることで、その他の世界では全く錯覚にすぎない。ほとんどすべてが実力の世界である。だから、今まで目立たなかった人間が、ある時から急に才能を発揮して伸び出し、注目を集めるということがよくあるのだ。

 明らかな実力の世界であるスポーツ界と、サラリーマンの世界とを比較してみれば、さまざまな面で著しい差があるにしても、芽の出ない状態の時やスランプの時に、体当たりの猛烈な努力の積み重ねがあったかどうかが、その後の伸び方の決め手になっていることだけは共通しているようだ。

 例えば、大相撲の力士やプロ野球の投手がある日突然、実力が伸びたように見えた場合でも、実際には、彼らが負けながらも、打たれながらも研究心を燃やし、肉体に力をつける厳しい練習を続けてきた結果なのである。努力で次第に実力がつき、ある日たまたまその一端が現れ、勝負に勝つと自信を持ち、その後は自信が実力をフルに発揮させるようになったのだろう。

 その日がいつくるかは誰にもわからないが、努力さえしていればいつかは必ずくるということの好例である。

 スポーツ界は結果が数字に表れるので、伸びたことが特にわかりやすい。ビジネスの世界や学業でも、同様に、ある日を境に突然力がつく、伸びるといったケースはよくあるもの。

 昔流にいうと、「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」とか、「苦労それ自身に価値がある」ということである。

 そういう意味では、自らを窮地に追い込み、あがきながら最後まで手段を尽くし、全力投球するということが、頭を鍛える上で大いに役立つものである。

 こうした努力からは、たとえ上司が期待した水準の成果は出なかった場合にも、本人の持てる力からすれば、十二分のものが生まれているのである。その上、将来の成長のための潜在力が育成されるのであるから、本人にとってはかなりの成果が得られたといってよい。最初から与えられた仕事を避けた人に比べて、その後の人生において大きく伸びるチャンスをつかんだことにもなる。

 反対に、現在の困難を避ける人は、将来の伸びるチャンスを自ら放棄しているのだといっても過言ではないだろう。「こんな仕事、目立たないから嫌だ」などと、要領よく仕事を手抜きする人間は伸びない。

 与えられた仕事をどんなことでも、一生懸命やる人間のほうが頼もしい。

●働くほどに生まれる肉体の創意工夫

 会社のために一生懸命働くということは、直ちに自分のためにもなる。懸命に会社の仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けるべきだ。

 その仕事のために必要な知識や能力について勉強すれば、面白く、興味も湧いてくるだろう。労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業にすぎない。

 また、己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、面白くなってくる。そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。職業の道楽化は人生の最大幸福である、ともいえる。

 誰にも、「よし、やろう」と決意した仕事が見事に完成した時の、素晴らしく、楽しく、幸せな体験があるだろう。汗水たらしての艱難辛苦の後に、ついに険しい頂上を極めた時の感激はどうか。「万歳」と叫ばずにはおれないだろう。

 才能を伸ばすコツも、人生のコツもここにある。持っている力を出さず、何もしないで怠惰に一日を空費したのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。人間がよりよく睡眠をとるためには、ある程度の疲労が必要条件である。

 ただ、その疲れは何でもよいというわけにはいかない。望ましい疲れは、例えばスポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。

 こういう価値ある疲れこそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。

 ビジネス界で精力的な活動家といわれた人物を観察してみると、決して無駄で余計な意識を使わず、明るく活発な「気」を集中させながら、自我意識を捨てて仕事に取り組んでいる。そして、全精力をその日一日の仕事に使い切る。これが大切なコツ、中途半端はいけない。手抜きやサボタージュは、肉体を一時的に楽にはしても、「気」の流れを妨げ、心にスキを与えることになる。

 その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るだろうが、そういう人の肉体は、一晩ぐっすり寝ると疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるものである。

 肉体の巧妙さは、「気」エネルギーを出せば出すほど、使えば使うほど多く出るようになるという点である。働けば働くほど、肉体から知恵はいくらでも湧くのである。

 人間の肉体には、誰にでも宇宙根源の真理力という「気」エネルギーが潜在している。それは、肉体一色の命懸けの熱心さで仕事に励む時、はじめて力として、またヒント、アイデアとして、さまざまの工夫として現れるもの。

 当然、命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも、次々に生まれてくる。命が生きて働いてくれるからだ。

 かくして、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限に湧き出してくるのである。この無限に潜んでいるものを一つひとつ探し求めていくのが、人間の営為であり、私たちお互いの、人間としての務めだ。「もうこれでよい、これで終わりだ」という考えは、人間の務めに反した考えだといわなくてはならないのである。

 人が命を懸けて仕事に励めば、命が働いてくれて、無限の知恵が出る。それまで隠されていた真理が現れて、素晴らしい働きをしてくれる。それは、命、すなわち人間の体、肉体が汲(く)めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。

●仕事の価値を知れば能率アップ

 さて、人間が仕事を進めるに当たっては、自らの実務能力を高め、限られた執務時間の中で能率的に事をなす努力も続けなければならない。

 そのためには、自分の仕事の重要性を認識して、取り組む心構えが欠かせないだろう。 「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えていれば、取り掛かる時も気力が充実し、意欲が出るどころではないし、ダラダラと仕事をして、つまらないミスを繰り返したりする。そもそも、人間の心理というものは、つまらないこと、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、意欲が高まらないのが普通なのである。

 逆に、「今作るこの書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と、自分の仕事が重要で、価値あるものと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、能率もアップするものである。

 同じように、人間は心理的に、先行きの予測が立たないことについては強い不安感を抱くもので、それが行動意欲の減退につながることが多いから、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、結果をある程度予測することが大切となる。

 一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出るものだ。

 まだ体験したことのない仕事をする際には、その仕事を経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、自分が新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればいい。

 自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが大きすぎる組織の中で、自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。

 無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、自分の仕事が組織の中でどのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。こうなると人間は、与えられたことを与えられた時間以内にこなす以外、興味をなくしてしまう。仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークをこなすだけの人間になってしまう。

 そんな社員ばかりになれば、組織全体の生産効率は目に見えて落ちる。各職場ごとの社員に、向上意欲がなくなってしまうからである。

 自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、無理なのは当然だ。

 反対に、自分の仕事が必要とされているのだとわかれば、大いにやる気も湧き、次第に実務能力も高められていく。中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での自分の役割をつかみ、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は発展する。

 自分の仕事が確かに役に立っている。自分が製品を作ることで喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるかどうかは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いややりがいは、人から与えられるのを待っていてもしょうがない。

 どのような仕事にしても、要は自分の見方、考え方次第である。何もあえて自ら自分の仕事をつまらなく考える必要はないから、自分の会社の製品を喜んで使ってくれているお客の姿を想像する。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障をきたしたり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを考えてみる。

 こうしたことをイメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要さを意識できるであろう。

●考える前に体で専念するがいい

 ここまで述べた工夫で、自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。たとえ単調な仕事であっても、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身につく。

 ここにも、業務に習熟し、自らの能力を高め、仕事を楽しみ多いものにするコツがある。誰もが「しなければならないからやる」という態度でするのではなく、価値ある仕事への努力に対する満足感、完成した場合の快感のためにやるように、心の持ち方を変えてみることである。

 スポーツは、自分の満足のためにやっているからこそ楽しい。もし、これが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。同じことが仕事にも当てはまる。

 喜びとして、また自分の創造力の表現として見ることによって、仕事は楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。実際にそうしている人々の例もたくさんある。

 「どういわれようと仕事なんか楽しくない」という人は、「仕事が嫌だなあ」などと考える前に、まずその仕事に飛ぶ込み、体で専念してやってみればいい。あれこれ考えずに、思いっ切り自分の体を動かすことが意欲につながる。最初に一歩を踏み出す。そうしてはじめて状況は動く。

 ほんのちょっとした行動を起こすだけでも、状況は大きく変わり、仕事、あるいは勉強に集中するきっかけを作ることになるもの。机に着くだけでいい。書類をペラペラとめくるだけでもいい。鉛筆を手に持って、ノートに何でもいいから書いてみるだけでもいい。 とにかく、行動することが大事なのである。書類を眺めたりしているうちに、次第に「やはり今のうちにやっておいたほうがいいかな」という気持ちも生まれてくる。そこで「よし」とやる気を出せばよい。

 すぐ行動する習慣を自分のものにし、ここ一番という時に意欲を燃やし、その集中力を持続させるエネルギーを持つためには、ふだんからスポーツなどで体を動かす習慣を持つことを勧めたい。

 日本の優秀なビジネスマンも、体を動かすことで仕事への意欲を喚起しているようだ。経営のトップにある社長、第一線のビジネスマンや現場を統括する管理職たちは、それぞれ「出社前に水泳をすることで、まず体にエンジンをかける」、「毎朝のジョギングの後に朝風呂に入って心身をリフレッシュさせてから出社する」、「毎朝五時に起床して近くの公園を散歩してからラジオ体操をやる」と、ビジネス雑誌などで独自の体を動かす健康法を語っている。

 これらの運動は、健康管理の一つの方法であるとともに、自分の意欲を喚起するためのものでもあるはずだ。体を動かすことで精神も興奮する。仕事をしなければならないという積極的な気持ちが刺激され、「怠けたい、仕事をしたくない」というマイナスの気持ちを上回る。そこで、今日一日の仕事への意欲が生まれてくるというわけである。

 

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