(四)寝禅の仕方

●生かされの姿勢

 では、いよいよ実際に寝禅を始めることにしよう。それは、夜のしじまのまだ明け切らない早朝が、一番よい。

 さあ、夜が終わって、自然に目が覚めた。朝だ。夏ならばもう明るい。冬ならば外はまだ暗いが、夜明けは間近い。

 昨夜もぐっすりよく眠れた。たっぷりと八時間、十分な睡眠をとって生命の詰め替えをした。体の疲れはない。疲れは、新しいエネルギーに変換している。

 この朝の目覚めの直後には、意識はないほうがよろしい。というよりも、しばらくは意識を出さないほうがよい。

 肉体もまた目を覚ましはしたが、まだ少しぼんやりとしており、いうならば、夜明け前の東の空のように、うっすらと明るんでいる状態である。

 この時の私たちは、まさに純粋そのものである。夜の深い眠りの中に身を任せて、生かされている姿になり切り、生きているという条件のもとに形作ったすべてのものをみな解消してしまった。いわば、新しく今、誕生したのである。

 これが禅的無意識。つまり、意識と無意識の中間の半意識の状態である。宇宙と人間との交通路が最も大きく開かれた時である。

 そこで、まだ電気もつけず、目も開かず、寝床の上に仰向けに寝たまま、体を伸ばす。 体を真っすぐに伸ばす。背骨を伸ばす。背筋を伸ばす。手足を伸ばす。

 力を抜く。体中の力を抜く。ついでに、「気」を抜く。

 大の字なりに生かされているという状態に自然に任せ、静かに雲の上に浮かんでいても落ちはすまいと思うほど体の力を抜くことである。

 全身が、まるでその場に投げ出されたようになる。物体のように投げ出されている。まさに、生かされている形になる。これが人間にとって、最も楽な、最も自然に天地間に存在している姿である。天と地から、天の「気」と地の「気」を最大限に受ける姿勢がこれである。

 無論、無私無心の私。その際、意識が介入すると妨げになるのである。

 あるのは、宇宙天地と自分の肉体のみだ。そういう宇宙と我との区別が、次第に薄れてゆく。だんだんと宇宙と自分とが融け合って、区別がつかなくなる。同一になる。

●無意識の真呼吸

 この状態で、胸式呼吸から腹式呼吸に切り替えて、最初は息を吐く。眠っていた時と同じような無意識の状態のまま、口を開いて、深く大きくゆっくりと吐く。

 坐禅のように、かすかに、ではない。むしろ強く、しかし、力んだり意識を用いてはならない。吐くポイントは、息を吐き切るという点にある。深く、強く、なるべく長く吐くのがコツである。

 息を吐くのは、たまっている汚れたガスを体内から一掃するためである。暗い思いや、悲しみや、嫌なことまで全部まとめて吐き出すとよい。そうすれば、悪運まで消滅する。うそではない。

 息を吐き切ると、その返りの力で、当然、次には自動的に吸い込むことになる。鼻から息を吸う。静かに吸う。吸う時は、吐く時の半分くらいの速さで行うとよい。吐く時に十秒かかれば、吸うのは三秒から五秒くらいである。

 吐くほうが先で、吸うほうが後。次第に大きく、長い呼吸に展開していく。

 慣れてくると、三十秒に一回くらいの呼吸から、さらに一分間に一回くらいの、長い、しっかりした呼吸ができるようになる。

 私たちの普段行っている呼吸は胸式呼吸で、主に胸郭を使って呼吸している。生まれた時から今日まで、特に疑問を抱くでもなく繰り返しているが、この呼吸法は小さくて浅い。赤ちゃんの呼吸は、胸も腹もない自然のものである。むしろ心(胸)のない、腹の力、すなわち他力による呼吸だといってもよい。

 大きな精神とそれを支えるたくましい肉体は、そのより大きな呼吸法から生まれることは当然である。それは腹腔を主に使う腹式呼吸である。これが、いわゆる深呼吸である。 寝禅で行う深呼吸をここでは真呼吸と呼びたい。真呼吸はまた、全身呼吸、徹底呼吸、大呼吸である。

 なぜならば、大きく深く呼吸を続けているうちに、それはいつしか全身におよぶからである。この呼吸によって、全身に酸素とともに、はつらつとした「気」を送り込むのである。

 そうして、鼻から静かに吐いたり、吸ったり反復しているうちに、だんだんと大きな、長い、ゆったりとした呼吸になってくる。

 吐く息を主とし、吸う息を従とする。

 だんだん慣れると、全身的に大きな呼吸ができるようになる。

 この真呼吸を続けていると、全身から息が吐き出され、同時に、全身に息を吸い込むことになる。

 吸い込んだ朝の空気中には、清新な酸素とともに、朝の「気」がたっぷりと含まれている。それを吸い込む。腹の底まで吸い込む。肘まで吸い込む。膝まで吸い込む。手や足の末端まで、それこそ指の先、頭髪の一本一本にまで吸い込むつもりで吸い込む。

 こういう体いっぱいに、体の隅々にまで息を吸い込むという感覚は、体験者でなくてはわからない。しかし、呼吸とは口や鼻、肺といった呼吸器官からのみでなく、皮膚を通して全身で行うものである。

そのうち、体中の目に見えないほど小さい細胞の一つひとつが呼吸を始めたように思えてくる。なお、続けて行っていると、六十兆個もの全身の全細胞が呼吸を始めるように思えてくる。そう感じるようになる。全身の全細胞にまで息が吸い込まれることが、理想なのである。

 この呼吸法もやはり、できるだけ意識的にではなく、無意識的に行われることが望ましい。最初からそうはいかないから、慣れるまではその心掛けでやってほしい。私たちの中の生かされの面は、無意識がつかさどっている。

 肉体が無意識の状態に置かれ、無意識的に生きていることにより、おもむろに自然へと融け込み、宇宙に融け込むのである。

 静かな深い呼吸だけが続けられる。

●「気」のみなぎり

 この状態で、十五分から二十分くらい真呼吸、全身呼吸を続けると、宇宙の早朝の生気をありったけ吸い込み、体の隅々まで宇宙の生気が満ちてくる。まるで、浜辺の潮がヒタヒタと満ちてくるように、「気」が体いっぱいに浸透し、筋肉がピリピリと張りつめたようになる。

 が、体の調子がよくなかったり、病気が進行している場合、その感じが違うのである。呼吸をしながら、自分の体調の自己診断を同時に行うとよい。

 さらに、この真呼吸、全身呼吸をそのまま三十分も続ければ、いつか体が整い、肉体の邪気はすべてなくなる。

 その時、全身の細胞一つひとつにまで息が到達するような、徹底した息となる。

 こうした真呼吸に、一カ月、二カ月と慣れていくうちに、大変気持ちが楽になり、すっきりとし、体と精神が一になって、心が顔を出す余地はなくなってしまう。

雑念、妄想など、消そうとするのではなく、自然に消えてしまうのである。

 もともと、最初から心をきれいにしようとか、雑念、妄想を抑えてしまおうというようなことを目的としないのである。心は、心で抑え切れるものではなく、体から躾ける以外に矯正する方法はない。

 ひたすらに肉体が生かされているという状態にし、生かされており、生きているという吐く息と吸う息、この一つひとつに静かな「気」を入れて呼吸していると、その呼吸のリズムによって他力と自力の交流がなされるのを感ずる。

 吸う息によって、宇宙の大きな生命は我が体にドンドン入ってくると観じ、吐く息によって、悪い「気」はみな吐き出され、疲れが出、悪は抜けると観ぜよ。

 かくして、体の中の生理的老廃物も、心的悪い癖も、みな体の外に抜けていってしまう。ひとりでに、肉体全体が機械的、自然的な清浄無垢の状態となる。

 息、呼吸という二つの言葉があるが、そのうちの呼吸作用は肺臓でするものをいうのである。この時、下腹、下半身の生殖器官を中心として、宇宙と盛んに交流し、行き来しているものが息である。ただし、それは意識することはできない。

 無意識が働き、空意識が活発になると、ここで上半身の呼吸と下半身の息とが、二つの歯車、滑車のごとく、音もなく、大きな回転を始めるように、息と呼吸がつながって、他力という地下水が限りもなく噴出するのである。

 それは、地下水をくみ上げるポンプのようなもので、下半身を通じて到来する他力が上半身にみなぎりわたる。

 こうした宇宙的大呼吸を続けていると、実際に、宇宙と我と一体になるような、広大無遍な「気」のみなぎりを全身に感ずるようになる。

 「気」の充実したこの体は、何という頼もしいことであろうか。

 思わず体に力みがくるほどである。

 ムーと全身にみなぎるこの力は、いったい何だろう。どこからくる力か。

 こうした真呼吸を毎朝二十分、三十分くらい続けると、体は実に爽快無比となる。エネルギーがみなぎりわたって、寝てはいられない。「こうしてはおられん」というほどの元気いっぱいの体となる。

●自由自在のらせん運動

 充実した体には「気」がみなぎっている。「気」のみなぎった体は、寝床の中で思わず知らず動き出す。

 つまり、真呼吸がそろそろ完成に近づく頃、手足がひとりでに動き始める。勝手に動き始める。真呼吸の次には、おのずから自然運動に移ってゆくのである。

 まず、「ウーッ」と息を吐きながら、両手と両足を伸ばす。手足が自然に力を込めて伸びをする。体いっぱい伸びるだけ伸びる。

 次に、寝ているまま手足の運動をする。はじめは手から、次いで足も。その逆でもよい。静かに、ゆっくりと、舞うように、這うように動き始める。

 この自然運動は、だんだんいろいろに体が動き出してくる。それが、自然で、ついには大変な運動をするようになる。それほど積極的なのである。それが、寝ているだけに自由にできる。

 つまり、手足の伸び縮みから、次第に体は自由に右に左に動き出す。これは、意識的に動かすのではなく、自然に動くままに動かすのである。すると、肉体は面白いように動き回る。

 慣れないうちは、自分から誘導して、意識的に動くきっかけを与えると、そのまま自然に動くものである。後は動くに任せて動かす。また、慣れれば慣れたで都合よく誘導させることができる。

 そのうち、手の動き、足の動きが次第に激しくなってくる。

 胴体もまた、いつまでも、じっと静止はしていない。一緒に動き始める。顔や頭までが、それに加わる。

 右に左に体をひねったり曲げたり、足を曲げたり伸ばしたり、手を上げたり下ろしたり、ぐるぐる回したり、寝床の上でいろいろな動きをして体中を鍛える。

 もう、全身が宇宙遊泳でもしているかのように、軽やかに自在に動き回る。これが、自然運動である。宇宙を泳いでいるような快感が伴うため、宇宙体操とも呼んでもいい。

 誰が操るのでもない。自然に、自ら操り人形のように、自然に動き回る。不規則、自由な全身運動であるが、自然に任せていると、らせん運動になっていく。

世の中にはいろいろな体操があるが、このらせん運動ほど合法的で、快適で、効果の大きいものはあるまい。体が自然に波状に動き始める。それは、無意識に動く。面白いように無造作に動き出す。

 体が自然に動くのであるから、意識ではできないことまでできる。他力の作用により疲れた個所や、必要な部分がすこぶる巧妙至極に動き出して、病気まで治してしまう。こんな楽しく、ありがたいことはないのである。

 これで、肉体の各組織の細胞一個一個が隅々まで、生々はつらつとよみがえる。

 この快さは、例えようもない。「ああ、人間とはこれだなあ。生命とはこれなんだ」と、宇宙天地との一体感がこみ上げ、思わず感動が全身に走る。

●あくびと放屁

 このような自然運動を続けていると、突然、あくびが出る。それが出始めると、大きなあくびが、いくらでも出る。これは肉体の自然作用の発動である。そうするにつれ、自然に腹の底まで、肉体全体に「気」が入る。

 あくびを大きく徹底的にすると、「あくびとはいったい、どういう自然作用、どういう効力があるのだろうか」と、あきれるほどである。

 伸びも、自然に体いっぱいに出る。体が伸び伸びと、いろいろな格好をしながら自然運動を続ける。おならも出る。不思議なほど、面白いほど連発して出ることもある。「こんなにガスもあるんだなあ」と思う。

 あくびと放屁。これは寝禅の必要条件ではないが、随伴して、あくびが連続的に出たり、体内のガスがたまり場を失って放たれることが多い。

 それは腹の底まで、体の隅々まで息が通るようになったために、太い換気を誘うからである。怠け者が朝から仕事に飽きて漏らす種類のあくびとは異なり、まだいやし切れないで残っていた前日の疲労が燃焼し、ガス化して出るのである。

 上半身のあくびと同様に、下半身から出る放屁もまた呼吸と同じ生理作用であるから、生理作用の活性化の証拠と見なせばよい。寝禅の実効の証(あかし)と考えて、そのまま出るに任せたほうがよい。

無意識となり、全身から圧力となっていた余計なガスが抜けていく。ガスはストレスだから、これが除かれると身も心も軽くなる。これで、心身の清浄化は徹底され、全身細胞の活性化は大いに深められたといえる。これが、自然体、生かされの自然に身をゆだねた状態である。

 この自然運動をする時、くれぐれも注意しなければならないことは、意識を出してはならないということである。あくまでも自然に任せて行うことである。

 やがて、両手で顔や頭をこすったり、もんだりする。手のひらで顔を洗うのである。水でなく手で洗う。それから顔をかき、首をもむ。この刺激によって、五官意識はさらにはっきりする。五官ばかりでなく、相貌がよくなることも驚くほどである。

 さあ、これで寝禅は終わった。寝床を離れよう。

 ほぼ一時間。三十分で全行程を終了してもかまわない。

 最後に、朝の目覚めの半意識の境を通じて、意識が次第に強まってくる。この過程を肉体的感覚で確実に捕らえる。その時、宇宙のエネルギーが全身にみなぎる。宇宙と自分は同体であるという、おおらかな静けさが体得される。

 さあ、さわやかな気分、体も軽い。ここで、寝床を離れる。これが寝禅の仕方のすべてである。

●新しいエネルギーの蓄積

 この自然運動法には、特別の型はないし、どうせよ、こうしなくてはならないという制約も一切ない。ひたすら、自分の肉体が動きたいように動かせば、それでよいのである。

 一番望ましいのは、肉体が締めつけられるような衣服をまとわないで、例えば浴衣に兵児帯(へこおび)一本ゆるめに締めた状態なのがよろしい。両手で兵児帯を持ち、腰、腹を中心に、自然作用的に自由に体をのたうち回らせることもできる。

 その時、くれぐれも注意しなければならないことは、すでに少し触れたように、意識を出してはならないということである。肉体のみで行ずるのであって、少しでも意識が働くと、せっかく肉体が宇宙一色になりかかっているのに、心の魔に邪魔されてしまうからである。

自然運動が無心に行われ、肉体が宇宙と一体となれば、自然機能、自然感覚といわれる宇宙感覚が高まる。だから、自然運動に徹すれば、それは宇宙遊泳になるのである。

 この運動、この遊泳の素晴らしさは、体を動かしながら、心は静寂、空寂のままであり、肉体が真空となり、精神が充実するのである。つまり、自然運動で肉体を一個の真空管にすることができる。

 やがて、感度のよいこの人間真空管は、宇宙感覚そのものになって、さまざまな宇宙の知恵をキャッチする。超感覚の働きによって、素晴らしいアイデアとか、ひらめきが発揮できるようになれるのである。

 同時に、この自然運動によって、新しいエネルギーを作りながら、古いエネルギーを燃焼する。すなわち、自分の作り出した疲れが、他力と合流して完全に燃焼すると素晴らしい能力、エネルギーができる。その燃焼の結果できるエネルギーは、すぐに今日一日の使い物になる。

 私は、全身運動が自然にできるので、自然運動といっているが、これは特に老人や病人にはよい運動になると思う。

 いろいろなことが自然にできる。快適で気持ちよく、楽しい。他のどこにも、これほど素晴らしい健康法はない。まさに絶対的健康法であり、絶対的鍛錬法である。しかも、それが誰にでも楽しくできる、常識的人間形成法なのである。

●悟りの味の体得

要するに、寝禅とは、十分な睡眠という準備を含めての真呼吸と、自然運動の二部からなっているわけである。

 この寝禅で得たものは、まさに悟りの味である。真の味である。

 目が覚めてからわずか三十分から一時間、寝禅を毎日続けていけば、宇宙と我とが一体となり、悟りの境地に達することができる。全身には今日一日の活力が満ちみちて、精神も統一され、人間の邪悪な心意識が顔を出すこともなくなるので、日々平和に過ごせるのである。

 生きているということが、これほど幸せで快いものだということが、はっきりと体験できる。ただ存在するだけで楽しく、何もかもが輝きを増して美しい。これが、真の生命の味というものである。

 この明るくたくましい、真の体験から始まる一日は素晴らしい。

 寝禅により、おおらかな気持ちで目覚め、床を離れれば、その日は一日中、一挙手一投足に宇宙の「気」が乗り移り、そのリズムに合わせて行動すれば、例えば、どんなに仕事が忙しくても、いかに人間関係が煩わしくても、それによって心を乱されることはない。

 これは、その人の行動に自我の入り込むすきがなく、肉体から出る精神作用のみが働き、いわゆる心身一如の状態を作るからである。

 ことさらに頭脳を使わなくとも、その時、その場で必要なことはおのずから感知されて、適度に、適宜な判断を下すことができる。雑念、妄想に悩まされることもない。終日、禅の境地にいるわけである。

 結局、私が呼吸法にも、自然運動法にも、ことごとしく宇宙呼吸法とか宇宙遊泳法と宇宙を強調するのは、宇宙の「気」の充電法だからである。無心で自然な行法であることには相違ないが、最大の眼目が、大宇宙と肉体という小宇宙を一体一如とすることにあるからにほかならない。大悟徹底、いや体悟徹底の行法でなくてはならないからである。

 すべてを宇宙一点に絞り込むのである。

 この寝禅によって人間性は豊かになり、高められる。健康は増進し、あらゆる能力の開発は容易となる。他力の素晴らしさがこれである。

 これを三、四十分から一時間くらい、毎朝続けてやっているうちに、精神統一ができる。いや、精神統一というが、実は肉体統一ができるのである。空の世界、宇宙世界から到来する「気」を統一して吐き捨てる、吸い込むという呼吸作用で肉体を統一するのである。細胞の統一で肉体が統一され、宇宙天地大自然世界と感応道交を続けることができるのである。これは、誰にでもできて、悟りは意外に早い。

 どういうことが悟りかということを、人から聞いて知る必要はない。だんだん人間が確かになって、妄想がなくなる。体が非常にしっかり、はっきり、しっくりして、人間の本質がこれほど素晴らしいものかということがわかってくる。

 それには、おそらく半年か一年、あるいは二年も三年もかかるかもしれないが、坐禅などに比べると早いものである。

 人間性の本質が発動されて、社会性というつまらない気持ちはなくなってしまう。社会人でありながら、そのまま宇宙人、天地人、大自然人という悟りの状態になる。それは実に頼もしい限りである。

 それが、自己性の開発、人間性の開発、人間本来の面目という宇宙性がこの肉体に発露、発生することなのである。そうすると、人間が肉体的に目覚める。己自身、人間自身というものが何となくわかってきて、非常に楽しくなる。うれしいというものではなく、楽しいという状態が肉体から自覚される。

 こういう味わいは、つまらないことを考えずに寝禅を続ければ、誰にでも得られるものである。

 夜八時に寝て、朝四時に目覚める。それから五時までの一時間が寝禅。それから七時頃までの約二時間を、このように澄み切った心境で何か一つの勉強に集中したならば、この一日二時間ずつの格別の努力が、私たちの生涯において、どれほどの進歩をもたらすか計り知れないものがある。

 

      著者・河野十全   文責者・中澤利郎

 

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