(二)真呼吸法

●朝の目覚めの呼吸禅の意義

 私の開発した寝禅は、朝の目覚めの三十分から一時間、まだ起き出す前に寝床の中で行う。その必要条件としては、前日の昼間は肉体生命を目いっぱいに働かせ、夜は早寝をして八時間、深く快い睡眠をとり、体の疲労が回復しているということが大切である。

 そのような十分な熟睡後の翌朝のひとときは、生命の「気」の詰め替えもすんで、目覚めは快適、快調、すっきりした状態になっている。

 心と称する邪魔者も影を潜め、すでに体調や心境は整っているから、寝禅の行に入るには、これほどよい機会はない。

よく精神統一などというが、そんな特別な難しいことをしなくても、肉体全体が統一できたなら、精神、心、意識と称するものは静かになり、皆無になり、静寂、空寂となる。 寝禅ほど合理的で、たやすく空になる方法はほかにない。背骨を真っすぐにすることでも、寝ていたら楽であり、足を無理に曲げる必要もない。

 そして、意識はまだ眠りから十分に覚め切っていないという半意識の状態で深い呼吸を始める。寝禅という言葉で表しているように、寝ながら、まず呼吸禅をやるのである。

 肉体全体が宇宙天地大自然と同化するような大きな全身呼吸法で、肉体内部から外界大自然とつながるこの呼吸法は素晴らしい。

 こうして、五官意識、潜在性意識、無意識、空意識と、足の裏から頭のてっぺんまで縦に、呼吸法で「気」を通すのである。

 この寝禅における呼吸は、坐禅のようにかすかな息をするのではなく、まず積極的に息を吐き出すことが基本である。息を吐き出せば、次に息を吸うことは当然のことである。 はじめは静かに、次第に深くゆるやかに腹式呼吸を続けていると、やがて全身呼吸、細胞呼吸ともいえるような呼吸に深まっていく。これによって、清新な朝の「気」が手足の爪先、微小な細胞の一つひとつにまで通るような、躍動の大呼吸ができるようになる。それを真呼吸という。

 人間は、緊張して仕事を続ける時はもとよりだが、遊びやスポーツなどで、絶えずエネルギーを消耗している。その補給のために、すぐ食べ物の栄養のことをいうが、食物からエネルギーを摂れば、エネルギーを摂るためのエネルギーが必要だから、それほど効率はよくないものである。

それよりも、先に述べた夜の眠りの中や、ここで述べている真呼吸という大呼吸の際、その次に触れる自然運動による宇宙の「気」エネルギーの吸収には、そのための消耗が全くないから、最も効果的な補給法なのである。

 すなわち、朝の目覚めには、深呼吸からより深い、深い真呼吸法、大呼吸法、全身呼吸法、宇宙呼吸法で他力と自力をつなぐ。そして、天地自然を吸い、吐く息に乗じて肉体を鍛える自然運動もある。

 せめて一時間かけて、真呼吸と自然運動を行い、しっかりした肉体と人間性を作り上げねばならない。毎朝一時間これを続けるだけで、健康も、長寿も得られる。このような人を天地自然の法則にかなった宇宙性の人間という。

●呼吸作用で健康をはかる

およそ健康長寿を願わない人はないのに、四十、五十歳であっけなく亡くなる人が多いのに驚かされるが、私にいわせれば、正しい睡眠法をとっていないのに加えて、真理にかなった呼吸法をしていないせいである。

一般の人は、上半身だけの短い息をして、上半身だけの緊張した生活をし続けている。呼吸作用が上半身だけで、下半身にまで届く長息をしない生活では、決して健康も、長寿も得られるものではない。

 人間の肉体の上半身には、生きるための諸器官が整備されているが、下半身は植物でいえば根っこに相当する部分。そのため即物的に思われているが、ここが大切なところであり、生かされている他力は常に大きく、この下半身から到来しているのである。

 朝の目覚めの時、半意識状態のまま、吐く息から始めて、だんだん深く、長い、静かな深呼吸から真呼吸にしていく。自然に体いっぱいの全身呼吸、細胞呼吸になってくる。と、その気分の爽快なことは、筆舌に尽くし難いほどのものである。

 息というのは、下半身の生殖器が生かされの世界で宇宙と命の往来をしていることであり、呼吸というのは、上半身で肺呼吸をすることである。この他力と自力とがつながって、生かされ生きることを、息と呼吸をつなぐというのであるが、これを三年も続けていると、自然に、人間が肉体的に目覚めるだろう。

 これほどの徹底呼吸、大呼吸、細胞呼吸が、いとも当然のような自然呼吸になってしまうところに、想像もつかない宇宙天地大自然と人間の肉体との不思議な合意がある。そういう真呼吸の効用には計り知れない利益があるのである。

 通常、呼吸とは肺ガス交換を意味している。人間の肉体生命は、ブドウ糖をエネルギー源として酸素呼吸して燃焼している。それゆえ、大気中の酸素を全身の細胞に吸い込むことによって、全細胞が活発な燃焼活動を始め、エネルギーが効率的に発生する仕組みとなっている。

 ブドウ糖が燃焼すれば、水H2 Oと二酸化炭素CO2 に分解する。これを体内にとどめておくことは害となる。息を吐き出す際に、この燃焼ガス(CO2 )をどんどん吐き出すことが必要である。排気管が詰まっていたり、能力が弱いと火が燃えにくいように、燃焼ガスはひとときも体内にとどめないようにしなくてはならない。

 息を吐けば、反射的に吸い込める。そこで、呼吸法において大切なのは、まず息を吐くこと、次いで吸い込む、という順序である。

 私のいう「息を吐き、息を吸う」ことに対して、現代人は無関心で、小さな浅い呼吸をしてこせこせと暮らしている人がほとんどである。当然、半病人だらけである。ストレスがたまり、頭痛、めまい、肩凝り、便秘、不安、恐怖、ノイローゼなど、どれかの症状を持っている。

 老人に多いのは、不眠、うつ病、神経痛、高血圧症、動悸、息切れなど。

 こういう人たちは、空気のよくない騒音過多の都会で暮らしていて、常にストレスを受けながら、知らぬ間に疲労を体にためている。そして、呼吸法に関心を払わず、無意識の呼吸に任せている人である。

●呼吸の仕方で人生も変わる

無意識の呼吸がすべて悪いわけではないが、どうしても浅く、弱い呼吸にならざるを得ない。始終病気がちな人がいるかと思えば、何十年も病気知らずの、生まれながらの健康人がいる。その差はどこから出るのかというと、食べ物や貧富の差からではない。実に、呼吸の仕方で差が出るのである。

 よくない呼吸とは、いうまでもなく、浅く、弱い呼吸である。「気」のない呼吸である。そういう呼吸をしている人は、体も脆弱で、精神力も不足していて、人生にも弱気だから、病気にも勝てない。

 心の安定性が自然に得られる生活環境に暮らせたら、それに越したことはないが、せめて朝の目覚めの際、私の勧める全身呼吸を実行してみるとよい。効果は抜群である。

 私のいう真呼吸、全身呼吸が上手にやれるようになれば、その人の人間性は飛躍的によくなる。見違えるほど立派になり、豊かになるばかりか、肉体生命力がはつらつとして五官もはっきり、すっきり、鋭くなる。その結果として、健康に恵まれるのである。

これは繰り返していうが、無意識呼吸だけでは駄目で、早朝の寝床の中で実践する習慣をつけ、肉体に徹底的に躾けることである。一度、体に躾けてしまえば、後はいつでも、どこでも自然に行うことができる。お年寄りでも、病人でも楽にできて、心身が楽しくなるから、生活も楽しい。人生も楽しくならないはずがない。

 この真呼吸には、早朝の空気が一番望ましいが、海辺や山奥の避暑地などのすがすがしい空気もまたよい。肉体生命を活性化させる「自然の妙薬」が、豊富に含まれているからである。自然の妙薬とは、いうまでもなくエネルギーの元の元なる「気」である。

 この点、中国には、よく知られるように気功健康法というのがある。五千年も前から中国で民間伝承された保健法であり、体を鍛える方法でもあり、身体管理に有効である。

 あの太極拳やマッサージは気功の一環なのであり、気功を覚えた人のマッサージのほうが効果は大きいという。

 体を鍛える「調身」、自然でゆるやかな腹式呼吸を基本とする「調息」、雑念をなくす「調心」が、気功の三原則である。

 より具体的にいうと、意識的に呼吸することによって、全身的な呼吸調整を行い、肉体そのものを活性化させると同時に、リラックスによる精神の集中力を養うというものである。そして、これらは、生命の「気」を集中し、活性化することによって可能な、中国古来の術なのである。

 多くの人たちは、呼吸を単なる酸素吸収と思っている。もちろん酸素も吸収するが、宇宙生命の「気」をも吸収しているのである。その「気」が、生命の元であり、元気の元であるばかりか、健康、長寿、幸運、開福のカギなのである。

 息を大きく吐けるだけ吐き、腹腔をスポンジのように使って深い呼吸をする、真呼吸法を体得すれば、食べる物も少量ですむようになり、いささかの無駄もなく、すべて生命のエネルギーとなる。

 また、肉体のすべての組織や器官が、自然に水を欲するようになるから、ますます健康が約束されるようになる。

 徹底した真呼吸法で空寂の境地に達すると、肉体は一個の真空管と同じ状態になり、あたかも鏡に影が映るように、すべてのことがわかるようになるものである。

 それを仏教では大円鏡智というが、真空意識鏡が写し取る知恵だから、本当は真空鏡智とでも呼ぶべきかもしれない。

●空気中にある宇宙の知恵と働き

結局、人間は、もっと上手に空気を食べることを心掛けなくてはならないということである。空気中にはカロリー学説では見落とされている、神秘なまでに豊かな活力源、「気」が充満しており、肉体機能を健全に保つばかりか、宇宙真理という人知を超えた知恵と働きとがあるのである。

 肉体の充実とは、すなわち酸素呼吸による肉体の活性化とともに、「気」を肉体にみなぎらせることである。その第一の要諦は、ここまで解説してきた肉体一色の呼吸法にある。

 私の開発した真呼吸法は、一口でいえば、宇宙と一如一体となる宇宙呼吸である。

 この呼吸法によって宇宙と我とが一体となり、宇宙生命が肉体生命となり、宇宙真理が肉体感覚として、肉体をよみがえらせるのである。

 宇宙の大きな知恵や森羅万象のことごとくをかくあらしめる宇宙真理能力が、そのまま人間一個の肉体に現れるのである。

 それが、私のいう真呼吸であり、宇宙呼吸、細胞呼吸、全身呼吸などと呼ぶ呼吸法なのである。

 その原理は、次のように説明できる。

 人間の肉体は約六十兆個という膨大な数の細胞からなっており、その集合組織や器官と、その全体生命との三重構造であるといえる。その全細胞が、片時も休むことなく、しかもパーフェクトに活動していることは、肉体の神秘なほどの生命力のたまものである。その生命力こそ、肉体の下腹部の生殖器官を中心に行われる、宇宙生命という根源的エネルギーの吸収によるのである。

 このように、生かされている下半身の他力的呼吸作用と、上半身の自力的呼吸作用とが一貫、連係して、全身全霊的な無念無想の呼吸を行えば、宇宙生命が肉体生命に効率的に交換されて肉体にみなぎるのである。

 人は誰でも一分間に十五回ほどの呼吸をして、これを正常な自然呼吸だと思っているが、実は大きな間違いなのである。

 人間の肺活量は成人男性で約四・五リットルもあるのに、日常はみな浅い呼吸で、その三分の一の量にもおよばない。腹が伸縮して腹式呼吸をするような構造になっているのに、胸先だけの呼吸しかしていない。肋間筋や横隔膜の力だけで、肋骨に挟まれた胸式呼吸をしているから、常に胸に圧力が加わり、心臓も圧迫されて、息苦しく、感情的になりやすくなるのである。

 そのことは、禅的の呼吸が一分間に三、四回ですみ、かえって妄想のない落ち着いた人ができることでわかる。

 つまらぬ雑念、妄想や、自我意識、人間心をなくして、天地と我と一体という広いゆるやかな心境で、生かされているという静かな落ち着いた真呼吸という自然呼吸に慣れると、気持ちよく腹の底まで「気」が到達し、やがて全身的細胞の伸縮運動が、呼吸作用の原因であることがわかる。

 細胞は生命の単位である。この原始生命が第一次の肺呼吸によって血液から酸素を運び、細胞の呼吸を完全に行わしめれば、空気中のエネルギーは、健全な細胞の働きによって、そのまま立派な生命的エネルギーに切り替えられるのである。

この真呼吸によって下半身の息と、上半身の肺呼吸とをつなぐことに慣れると、どんな出来事にも臨機応変、息や呼吸を合わせて、禅の悟りにも似た力となる。

●真呼吸は他力を受ける土台

 ところが、一般の人間は生きる生きるということにばかり、いきり立っているから、呼吸が浅いのみならず、一日中何となく浮ついて、胸や肩や頭や上半身ばかりで動き回っている。

 だから、人間は一日に何回か、そうしたうわずる気持ちを下半身に下げねばならない。 頭寒足熱という古諺(こげん)があるように、下半身が充実して、しっかりとしていれば、上半身は涼しく、軽く、素直に万事に対処することができる。

 頭がいつも冷静、明晰であるということは、腹がしっかりしているということであり、足が地に着いているということである。

 そうするためには、他力を得るのが一番いい。ここでも、日常の浅い呼吸とは違う真呼吸が役に立つ。

 まず、自分を生かしている力を認めること。次はその大きな力と一体になって生きること。これは呼吸一つにしても、自己の頭であれこれ考え、心痛していると、正常の時の半分以下というような呼吸しかしていないものだからである。

 その結果、全身の新陳代謝も半分以下となるのであるから、まず自己を大きな大自然の生かす力に任せ切るという考えが大切である。

 一日何回でもいいから床の上に体を投げ出して、全身の力を抜いて、生かされているのだという自然作用に身を任せて、手足をすっきりと伸ばす、だらりと伸ばす、全身の力を抜き力を平均させて、圧力を追い出す。

 そして、大きな息を吐くのが一番いい。何回も、何回も、大きな息を腹の底から吐き捨てる。

 この真呼吸法は深く、大きく、静かに吐き出すことを考えて吐き切ると、吸い込むことは考えなくても、自然に入ってくるのだから、この吐き切る呼吸を一分間に四、五回の呼吸数で実行するとよろしい。

 真呼吸法は他力を受ける上にまず土台となるものであり、こうして大きな息を吐けば、全身の圧力はなくなり、肉体に本来ある自然作用が復活するから、血液の循環もよくなるが、神経が非常に安らかに、穏やかになり、繊細、巧妙に働くようになるから、よく気がつくようになる。

 坐禅で修行した人は、一分間に三、四回の深呼吸で、いわゆる妄想を排して、精神の統一をはかる。それと同じ効果が、生かされの形で体を投げ出し、静かに、深く、大きく息を吐く真呼吸で得られるのである。

 特に、目覚めの半意識のまま、床の中で真呼吸を続けると、臍下丹田まで宇宙の精気が通り、全身の細胞が目覚め、体中にエネルギーがみなぎってくる。

 それは緊張のない緊張であり、力みも圧力も、何もないけれども、体全体に生命力が充実してくるのである。

 このように呼吸作用というのは、循環作用と同じように全身を養う大きな力である。

 真呼吸法は、静座してもよし、また、いつでも、どこでも、執務中でも、車の中でも、歩行中でもできるものであるが、ことに就寝の前、朝、目が覚めた時など、体を投げ出して全身呼吸ができる場合は、いっそう落ち着いてできることはすでに述べた通りである。

 このような呼吸法で、いくらも健康になった例がある。むしろ、これを無視していては、真の健康体にはなれないほどのもので、病気の者も、健康な人も、まず実行されてよい呼吸法である。

●生かされているということ

 毎日ストレスにさらされている人が全身の圧力を追い出すためにも、真呼吸法で大きな息を吐くのが一番いい。何回も、何回も大きな息を腹の底から吐き捨てるのがいい。

 自意識が強いと体に圧力がかかって、そのため肉体が完全な働きをしないといわれているが、この吐く呼吸でも、そうした肉体の圧力も解かれてくることに、その根拠がある。 大きな息を吐けば全身の圧力はなくなり、肉体に本来ある自然作用が復活するから、血液の循環もよくなるし、神経が非常に安らかに穏やかになり、繊細、巧妙に働くようになるわけである。

 もちろん、私のいう真呼吸は、意識を出さずに、肉体本位でする呼吸運動である。できるだけ意識を目覚めさせずに、肉体を目覚めさせること。

 肉体の細胞を目覚めさせ、肉体の組織を目覚めさせ、肉体内部の諸器官、胃でも腸でも、肝臓でも腎臓でも、神経系統も血管系統もホルモン系統も、みな目覚めさせるのである。

 そういう肉体の自然作用は、意識があっては働かない。意識のない時、肉体一色でこれをやれば、実に気持ちがよく、徹底的に、宇宙と我と一体、禅でいう天地と我と一体、万物と同根という状態になれる。

 この境地は、一日や十日やって得られるものではないけれど、三月、半年とやっていると、やがて実に爽快、痛快となり、全く自分という意識がなくなって、生かされ生きるという真の意義がわかってくる。仰向けに寝たまま、それが体でわかってくる。さらに、体が何でもわかるという、力強い体になる。

 生命の力、肉体の力、生きているという力が、この生かされているという大自然の力から自分の体に充満するから、実に力強く、頼もしい。すでに述べたように、雑念や妄想などは少しもない。

 宇宙大自然の然は、健全の全、完全の全と相通ずるもので、体全体が一つになって、精神統一どころか、肉体統一、神経統一、細胞統一、宇宙統一というような、実に立派な心境となる。いや、真理の大境地という〃真境〃である。

 さらに、真呼吸、全身呼吸、自然呼吸という大きな徹底した呼吸に慣れると、人生観さえがまるで変わってくる。

 「ああ、人間は宇宙天地大自然から生かされているのだなあ、生かされているということは素晴らしいことなのだなあ」、ということがしみじみとわかる。その上に、生きていくという工夫もできるし、努力もできるのである。

 これが他力と自力のつながった時の安らかな、おおらかな状態である。

 この時に、人間の生きているという幸せがわかり、すべての味がわかることになる。しかも、これには楽しさがいっぱいで、快適そのものである。命の味というものがそこにあり、この味わい、この楽しさ、これこそ、まさに万人の推進力となる。万人、誰もが目的を達することもできるのである。

●真呼吸で人間味を知る

 私のいう真呼吸法で、体を楽にして、大きな息を吐き、ゼロになる。何も考えない。生かされているという状態になる。これが生命を改める最高の気分転換法である。

 深い腹式呼吸を習慣づけ、それを無意識に行えるようになれば、横隔膜から臍下丹田へ、深呼吸が真呼吸となり、誰もが迷い心に悩まされることなく、常に真眼が心の後ろに位置して、冷静な行動がとれるというものである。

 真の呼吸で体が整い、心を制御できるようになると、そこには何ともいえない爽快さが、楽しさが得られることを断言しよう。

 釈尊の言葉でいえば、「持つもの無き心、捕らわれ無き心」というところの境地であろう。そういう自在の中に、万有、万物のことごとくが慈しまれてある。つまりは、宇宙によって生かされているということがわかるのである。

 肉体が宇宙と一体となり、自然の姿で瞑想状態になると、意識や心というものは肉体の中に還元し、真の肉体の声に従うようになるものである。一呼一吸、宇宙の一部の肉体として、ただ呼吸するのみである。

 さらに、肉体が宇宙と一体となれば、細胞は気神経というものを発し、生かされの生命体の空意識、無意識を目覚めさせるのである。健全な肉体細胞というものは、目に見えない世界をも見通す超感覚も働かせるものである。超感覚といっても実際は、細胞にとっては至極当然の能力である。身に迫る危険をいち早く察知したり、妙案のヒントを得たり、芸術的なひらめきを感受したりもする。

 ところが、普通の呼吸運動は、心臓の摶(はく)動のように自律神経によるものではなく、脳幹の下部にある延髄という本能的な行動をつかさどっている中枢で営まれている。無意識的な反射行動である。いわば人間は、さまざまな他の本能行動と一緒くたにして、それとは知らずに呼吸をしていることにもなる。そのために、非常に浅い呼吸に終始することになっている。

 浅い呼吸のまま、年中欲をかき、腹を立て、しかも何の保障もない生き方をするか、それとも呼吸を意識的に深い呼吸、真呼吸、全身呼吸にして、それを無意識的に習慣づけて、悠々自適の生活を送るか、選択するのはあなたである。

そこで、私の勧める万人向きな人間形成の道は、まず眠りの中で、人間を本来のものに戻す。次に真呼吸により、空気で人間の肉体を磨いて、洗濯をする。それから積極的に仕事で磨く。仕事で体を練磨するといってもよい。実際の仕事の上で体を働かせるということは、体にそういう力があるということである。

 精神修養や精神統一というような意識、精神をもってしない。ただひたすらに、働くという働きの中に、真というものがある。意識を用いずに肉体だけで働くならば、理屈はいらない。

 真呼吸をし、ある程度自分の体がきちんと定まってしまったら、生かされており、生きてゆくという、他力と自力の発動によって仕事をするのである。

真理の問題、哲学的思索、科学的探究などの新しい研究、新しいアイデアなども、朝の目覚めの後の真呼吸の一時間から生まれる。

 朝の深呼吸、真呼吸の時間に、人間はどれほど成長し、賢明になるかわからない。健康の原動力は、ここに発する。宇宙の「気」をエネルギーに変え、エネルギーをまた「気」に変えて、一日働く仕込みができるのである。

 

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