(三)坐禅と寝禅の比較

●難解な行法と平易な方法

私の開発した寝禅は、細胞禅の別名をつけているほどのもので、すでにご存知の方もおられると思うが、他力による心身の活性法である。まさに万人向きの、抜群の効果が上がる細胞健康法である。

 寝禅を毎朝実行している人は、健康に恵まれ、仕事で成功し、家庭円満、幸運、幸福が得られる。高齢者で、ぼける人がいるが、細胞を健全に保つならば、ぼけたりなどしないものである。

 誰にでもやれて、楽しく、効果が抜群なもので、日本中に寝禅の共鳴者、実践者が増えている。今まで機会あるごとに、その原理、方法を繰り返し紹介しているものだが、あまりに単純で誰にでもわかりやすく平易なので、かえって疑われたり無視されたりする面もあるらしい。

 特に、知識人間にとっては、多少の難解さや困難が伴うもののほうがありがたいようだが、真理とは本来、単純で平易なものである。難しい理論や行法に関心を持つのもよいが、そんな見えを張っても無駄になることが大半である。寝禅とは人間改造法、宇宙健康法の奥義ともいうべきもので、まもなく明らかにされるだろう。

 その点、坐禅と私の提唱する寝禅との関係を少し説いてみよう。

 二つを比較すれば、坐禅は、例えば十年間、一心に修行しなければ、到底、悟りの道は開かれない。ひたすら坐り続けても、その難解さゆえに無駄に終わる人の何と多いことであろうか。

 ところが、寝禅は、誰にでもできる楽な行法である。慣れれば実に楽しいものであるから、努力なしにいつまでも続けられるし、老人にも病人にも容易にできる楽行といえる。一日に一時間かければすべてのコースが終了するという、きわめて簡単なもの。一時間のところを三十分ですましてもかまわない。

 この寝禅という悟りの方法では、朝の目覚めの時、寝床の中で仰向きになって息、呼吸をし、宇宙天地と一体同根という姿で存在すれば、その呼吸法によって宇宙と我とがつながり、往来することができるようになるのである。

 その根本を簡単にいえば、次のようなことである。まず、体を投げ出し、上半身の意識を放下し、全身の力を抜いて、自然体となって全身から息を吐く。息と一緒に悩み事も不安、嫌な思い、忘れてしまいたいことなど、何もかも吐き出してしまう。

 息を吐いて、吐いて、吐きまくれば、次に全身呼吸によって、息を吸い込む。そうすると、自然に「気」エネルギーが満ちてきて、体が何もしないで自然に波状に動き始める。 その際、疲れていると眠くなることもあるが、そのまま眠ってしまえばよい。

 こういう無意識の呼吸、無意識の運動を一日のうち少なくとも一回、それも朝の目覚めの時に実行すると、その日一日がどんなにリラックスして、効果的に過ごせることか。どんなに健康の増進に役立つことか。仕事も楽しくはかどるから、働くことが面白くて、時間のたつのを忘れるほどである。それは体験者でなくてはわからない。

 これは、仰向きに寝ながら禅をしているような形であり、寝ながら深呼吸をするという呼吸法であり、寝ながら自然運動をするという、肉体全身全霊、肉体の力、エネルギーを体いっぱいに満ちあふれさせて、生かされ生きているという姿を作るのである。

●坐禅は自力門、寝禅は他力門

 つまり、寝禅というのは文字通り、寝ていて、そのままで行う禅である。「寝ていて禅をするとはけしからん」、というお叱りを受けるのはかまわないが、一般には坐法がとられていても、禅の修行に形式を問わないことは、道元禅師の坐禅儀にも「行住坐臥にこだわらない」とある通り、どんな体位でも構わないということである。

 また、いうまでもなく、寝て禅をするのは横着からではない。そのほうが楽で便利だから、といったような理由でするのでもない。

 この宇宙において、小宇宙たる人間が全き人間となるためには、寝禅のほうが坐禅よりもはるかに合理、合法的であり、寝ている姿勢のほうが坐って緊張している姿勢より、よほど自然に近いからである。

 禅の宗派の一つである曹洞宗でも、禅堂でやる本格的な坐禅となると敬遠する人のために、気軽にできる「いす坐禅」を指導して、静かな人気を呼んでいるという。もちろん、背筋を伸ばして椅子に坐るよりも、寝ている姿勢のほうが自然と一つになることができやすい。

 「いわれてみればその通りだ」、と誰でも思うだろう。寝禅の基本は、自然の然にある。自然は、宇宙の中にある。宇宙とは、天地である。

 寝ていることにより、天の「気」を正面から最大限に受ける。また、地の「気」を背面から、これまた最大限に受ける。この姿勢こそ、宇宙と人間とが一身同体であることを自覚できるものなのである。

 禅による悟りとは、宇宙と人間とが一身同体であることを自覚することである。

 昔から立派な禅門の僧たちが何人も現れ、体悟徹底して、全き人間、いわゆる生きながらにして仏、悟りの人となれることを証明した。従って、現代においても、彼らと同じだけの修行を積めば、誰でもというわけにはいかないだろうが、宇宙と一身同体、生きながらにして仏の境地に至ることができるはずである。

 そのためには、禅門という象牙の塔にこもらなければならない。周囲からの隔絶が必要なのである。

 ところが、それでは、生かされているという面には沿っていけるが、この社会に生きている、生きてゆくという現実的な面からは程遠い。

 そこで、世の人々に、ぜひとも寝禅を勧めたい。寝禅は坐禅と同じ禅であり、坐禅の原理から工夫、考案したものであるが、原理は同じでも、方法論としては大いに異なる。

 坐禅は自力門である。自力をもって自己開発を目指す厳しい行である。それに反して、寝禅は他力門である。自己を投げ出して、他力にすべてをゆだねる他力本願行であり、生理学的にも、自然で無理がない寝ている姿勢のほうが他力の効用が明らかなのである。

●自力でするか、他力を第一とするか

 釈迦が純化行法として発明した坐禅は、自分の力で坐って、厳粛に体に躾けながら、自力から他力につながっていく方法である。

一方、私が独自に開発した寝禅は、自己を投げ出して、身も心もすべて投げ出して、生かされているという姿、すなわち他力に全部を任せて、自力というものを用いない方法である。そこで、体を他力一色にしてしまうと、ゼロの中から自力が発生してくる。それが他力から自力へという、生かされており、生きていくという順序である。

 実は、数十万トンの大型タンカーが、海洋を往来しているということも、水の上に鉄の船が浮いているということは、他力を利用しているからである。エンジンを回転させて航海するということが、わずかの自力なのであって、他力の助けによって自力が自分の目指すところにカジをとっていくという能力である。

 寝禅というのは、この水の上にすべてが浮かぶことができるという、他力を第一とした禅の仕方である。自力でする坐禅の姿は、ちょうど畳の上に帆掛け船が静かに浮いているような関係である。

 人間の意識作用には、現象界に対しては、五官意識、潜在性意識というものがヘソから上に存在し、ヘソから下には無意識、空意識という他力意識が存在する。植物ならば、ヘソから下は株と根に相当するところであるが、そこをしっかりと組んで、その上に自力を乗せて坐禅という行をするか、または自力も他力もみな投げ捨てて体全体を空にしてしまうか。

 そこにも、坐禅と寝禅の違いが、はっきりとわかる。

 坐禅の要諦については、道元の「坐禅儀」を見ると、

 「諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり。悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず、作仏を図ることなかれ。坐臥を脱落すべし」

 と、説かれている。つまり、一切の人間関係を絶ち、善悪是非を判断せず、思考も瞑想もしてはいけない。いわんや、悟りを求めることはもとより、坐禅をしていることすら忘れるようにというのである。

 しかし、坐禅では、結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐というようにキチンと足組みをし、背筋を伸ばして正身端坐の形をとり、左手を右手の上に安置し、親指と親指とを接して法界定印の形をとり、目を半眼に開いてじっと坐らねばならない。

 それだけでも精進努力を必要とし、体重をかけたり自己を維持するために、多少の圧力や疲れが起きてくる。圧力が起こると、邪念、妄想の種になるから、なかなか妄想を追い払うことができない。

 本来、坐禅は苦行ではない。道元禅師が「冬暖夏涼をその術とせり」と説いている通りなのだが、実際に坐ってみると決して楽な修行でないことがわかる。

 その点、寝床の上で横臥したまま行う寝禅ならば、自然にゆったりと肉体をくつろがせるところの坐禅の本義にもかなっている。体も楽だし、平均作用をする点でもよいわけであり、坐禅儀のいう「坐臥」をも容易に脱落することができる。

●心禅に対する身禅

 また、人間が生きているとか、生かされているという時に、呼吸作用が非常に大きな問題となるのであるが、坐禅では呼吸作用に徹底するということがなかなかできない。

 だが、寝禅では、体全体の調和、調整がとれ、全身を生理作用的に、さらにその前の物理作用的に宇宙と歩調を合わせ、波動を一致させるから、呼吸作用も楽にできる。

 同時に、寝ていて頭も手も足も、どこからどこまで一になり、平等、公平、空になるから精神統一も非常に楽にできる。

 実際は、精神統一などは、なかなか簡単にできるものではない。たとえ精神統一ができても、人間の精神作用と一緒にしている心という意識は、なかなか払拭できない。雑念、妄想などというものは、心の現れである。

 このように、心の動きが雑念、妄想となって現れる曲者であって、精神となると体とともに生理作用から発生するものだから、体が静かに落ち着くと、精神も落ち着く。

 体が落ち着くということは、実に神経が落ち着くことであって、その神経によって発動する精神作用という自然作用は、体の落ち着くのに従って、自然に統制されていくものである。

 だから、坐禅をする時には、体を自然に任せて落ち着かせることが第一の要領である。 これは、物理作用、生理作用、そうして精神作用によって、心理作用をなくしてしまうのが、禅の原理、そして要領、方法である。

 それが寝ていて行う時には、非常に楽に早くできるのである。

 そこで、坐禅は積極的な禅で、寝禅は消極的な禅だなどと思う人があるかもしれないが、寝ていて行う禅というのは、体全体が他力の中に百パーセント自己を投げ込むことであるから、「百尺竿頭一歩を出る」という徹底した大胆な禅の仕方なのである。

 妄想心と闘い抜く坐禅は「心禅」であるが、小宇宙である肉体をもって行ずる寝禅は「身禅」である。

 そして、寝禅は誰にでもできる、楽な行である。慣れれば実に楽しいものであるから、努力なしにいつまでも続けられるし、老人にも病人にもたやすくできる。

 一坐すれば一日の悟り……。

 寝禅を毎日続ければ、一日ごとに、人間完成の域に近づくといえば、誇張だと疑う人もあるかもしれないが、決して誇張ではない。

 この行法こそ、全き人間となる人間改造に大いに役立つことを、私は確信を持って述べ、七十余年間実践し続けているのである。

●スポーツとしての禅

私の開発した寝禅は、別名を全身の自然運動禅とも、スポーツ禅、武道禅とも称することができる。そこで、坐禅との比較に続いて、寝禅を肉体鍛錬、あるいはスポーツとしての観点から捕らえておこう。

 肉体鍛錬においては、下半身を中心にすることだ。よく、老衰は足からくるといわれるように、若者にとっても老人にとっても、足腰の達者ということは最も大切である。人間は足で立っている動物だから、足が大切ならば足の運動は欠かさずやるべきである。

 大人にとっては、散歩が最もよい運動である。また、自分の体に適する程度に加減してやれば、空手、剣道、合気道などの武道は効果があるし、ゴルフもよろしい。景色のよいところで、清澄な空気のもとでの運動は、足を動かすから下半身の主たる運動になるだけでなく上半身、腕の運動にもつながる。

 登山、水泳、乗馬、あるいはボートをこぐこともよいし、スキーは体と足との連係運動であって、これは年齢を問わずにできる運動だろう。体操は、あんまの必要がない。自然に、肩の凝りもほぐれてくる。

しかし、運動は過度ではいけない。快い疲労の程度ならよいが、過労ということは、運動の目的をはずれることで、かえって体力を減じ、その他いろいろな器官を損なうことにもなる。

運動は、不愉快でない程度の気持ちのいい疲労、この程度にとどめておくべきである。 中年以後の、いわゆる健康維持には、それが寿命を延ばすという日常姿勢である。また、こうした運動は若返りになるトレーニングであり、いたずらに寿命を延ばすだけでなく、「やる」という新しい意欲も起こり、老境には老境にある人々のやる仕事も当然に出てくるだろう。ここに健康を保つ意義がある。

健康にとって運動が大切なことはいうまでもないが、年齢に相応した無理のない運動でなければ意味がないのである。

 例えば、ゴルフにしても、三十九歳をすぎるとかえって体には害があると、糸井英夫氏が研究データを発表したことがある。ことにグリーンでは過度の緊張のため血圧が五十も上がるそうで、不測の事故が起こる可能性も高いという。

 ゴルフがやめられないのは、何といっても面白いからだろう。予備体操もロクにせずにクラブを振っては、毛細血管を切ったり、体の中の小さな組織を痛めてしまうと警告されても、また、いきなり駆け出しては心臓に悪いと脅かされても、つい性急にプレーしてしまうのも、面白さの罪である。

 面白いということは、ゴルフに限らずやりすぎの原因になって、健康にとっては一つの落とし穴になってしまう。

 どうしてもゴルフがやめられないという人は、年とともにボールが飛ばなくなるのは当然の理と悟ることが必要である。白日の下、狙い定めて打つ球は必ず入る。穴は大きく、ボールは小さい、入るが自然の理と心得て急がずプレーするのが、中年以後のゴルフの妙諦と考えてもらいたい。

 そういう中年すぎの人なら、無理をせずに体を鍛え、「気」を養う太極拳などもいいであろう。太極拳といえば、三千年の伝統を持つ中国古来の武道であり、立ったまま行う禅、すなわち立禅であるともいわれる。

 だが、もっと簡単に誰にでもできて、しかも効果抜群なのが、体悟徹底禅ともいうべき寝禅なのである。これは静寂を求める心の禅を止揚して、肉体に対する躾けだけを主眼に修行するものだ。

 つまり、文字通り体で自然に悟らせる方法で、肉体にこそ肉体感覚もあり、肉体意識もあって、肉体を鍛え、五官を鋭く研ぎ済ませておきさえすれば、万事に対して当意即妙、自由自在に対応できるからである。

 従って、これをスポーツ禅、武道禅ともいえるし、もっとナチュラルに全身の自然運動禅と呼ぶこともできるわけだ。

 この毎朝寝床の中で、気の向くままに行う自然運動なら、年齢に応じて運動量の調節も自由で、理想的な長寿体操ともいえるはずである。もちろん寝床で行う自然運動はプレーではないから、ゴルフのようにスコアを縮める興味こそないが、天寿を延ばす楽しみはゴルフの比ではない。

 また、女性もヨガの流行とともに坐禅を試みる人が増えているが、自力による坐禅は背骨を真っすぐにし、膝を曲げて坐る、生きる修行である。これに引き替え、寝禅は、体を投げ出して、自然の宇宙に、無為無重力の状態になって任せ切る、自然に生かされている形になるものである。一通りの順序と要領がわかれば、誰にでも寝ながら簡単にできるものである。

 

ホームへ戻ります 寝禅の実践のトップへ戻ります ページのトップへ戻ります

ホームへ戻ります 寝禅の実践のトップへ戻ります ページのトップへ戻ります


Copyright 2003〜 kenkosozojuku Japan, Inc. All rights reserved.