(二)寝禅の考案

●禅の原理を教わる

 先に、禅の真理者である釈迦および道元と白隠の三人について主に見てきたが、私もまた、坐禅の素晴らしさに引き入れられた修禅の一人である。

私なども下根の凡人、どちらかというと大変我がままな、意志の弱い人間ではあったが、青年の時から禅に縁を持ち、坐禅の道を実践し、研究した。

 顧みれば、大正三年の七月十一日、十六歳の時に上京し、書生をしながら夜学に通うことになった。昔の書生というのは、大家の玄関部屋で寝起きして、玄関番や雑役夫のような仕事をしながら、暇をみて勉強したり夜学へ通う。給料はもらえない代わり、食べさせてもらって、一日中働いたものである。

 その書生先の土倉龍次郎先生という学問もあり人格も高い方から、朝晩、坐禅の仕方を指導していただき、禅というものを学んだ。

 それは私が十七歳になった頃のこと……。土倉先生が毎朝五時くらいに二階へ上がり、戸を開けて坐禅を組まれるのを知っていたので、「自分にも坐禅がやれるでしょうか。教えてください」とうかがったところ、「それはいいことだ。教えてあげよう」とおっしゃった。翌朝から、庭の草取りの前に二階へ上がらせていただいて、先生と並んで坐禅を始めたのである。

 人生のはじまりの青年時代における、この貴重な体験が、血肉となって、私の体の中に流れていることと思う。坐禅は、一坐五十分くらいやるのだが、それが終わると必ず先生の前に座らされて、禅の話を聞かされたものであった。

 中国伝来の禅行を広めた栄西、道元といった禅傑の名言や身行、禅で大悟して大人格を得た人々の事跡、禅の真髄を毎日一対一で話してくださった。私も素直でやる気もあったから、一生懸命に聞いたのである。それで土倉先生も「面白い小僧だな」と思われたのであろう。はじめは十五分ほどであったのが、一時間も話してくれるようになったのである。

 体悟徹底ということをいうが、私は頭で理解するのではなく、腹で聞いた、体で聞いた。白隠和尚は、腰脚足心といって、腰から下で人の話を聞いたという。足に心がある。足が地に着いていて、一体であるという意味である。

 その時に、純真な青年が非常に感激させられたわけであり、いま思えば、肝胆相照らすものがあったということだろう。大変啓発させられたのである。

 そして、当時の私は禅に感動して、あらゆる本を乱読し、本の中から道歌というのを書き抜いて、六、七百首もそらんじていた。

 「分けのぼる麓(ふもと)の道は多けれど同じ高根の月を見るかな」

 「咲く花を歌によむ人、賞むる人、咲かせる花のもとを知れかし」

 このような道歌から学んだことは、どうして花が咲くのか、花を咲かせ、月を輝かせるものは何か、それは宇宙生命であり大自然にほかならない、ということである。

 虚空の世界から、色界という実相が発動する。空即是色、色即是空の理である。

 そういう原理を、私は十代の時、体で学んで目覚めたのである

●身近な現代禅の追究

 誰でも、過去を振り返って自分の履歴書というようなものを書けば、それぞれ一巻の絵巻物ができ、また物語ができるほどの、さまざまなる経過をたどっているものである。

 私もそうした出発に、土倉龍次郎先生に出会ってよき教えを得、その後、社会に生きんがために、さまざまな生き方をしてきたが、終始一貫、何か人間というものを見つめてきたような気がする。

そして、社会人としていろいろと人生体験を重ねながら、若い頃は禅堂での坐禅もやり、それでも物足りなくて、家の中に鉄筋コンクリートの部屋を作って、四カ年あまりもその中で坐禅をやり、いろいろの問題と取り組んでみた。

 比叡山延暦寺には「籠山の行」といって、僧堂から十二年間一歩も外に出ないという厳しい行がある。その坊さんの行には、さすがにおよばないながらも、在家の身で、そうした孤室に四年間もよく坐れたと、我ながら昔が思い起こされる。

 このように、朝廷から神機独妙禅師、正宗国師の号を贈られた白隠と同じく、私もまた、坐禅の素晴らしさを開眼した一人である。私にいわせれば、坐禅というのは、無の面から入って有の面を高める修養法なのである。生命力が平らかに流れ、存在するから、健康も健全も賢明も、知情意、智仁勇すべてがこともなく作られてゆくのである。

 だが、私の場合はそれにとどまらなかった。禅の原理を独自に研究し、坐禅よりももっと身近な方法で、坐禅より利益や効果を上げることはできまいか、と思い続けた修禅であった。つまり、道元禅師の時代は遠い昔のこととなった現代の禅は、どのような姿で現れるのだろうか、と追究を続けたのである。

 禅といえば、インドで釈迦が純化行法として開発し、中国を経て、日本でまことに素晴らしい修行法として完成した。にもかかわらず、現代日本において、それほど禅が実践されていないということはどうしたわけか。

一つには、全国に禅寺は二万を超えるが、一般人が坐禅が組めて宿泊できるのは三十カ寺ほどしかないという閉鎖性がある。次には、従来の禅があまりにも厳粛だからである。 欧米では今や、禅ブームが起こっているそうだが、日本では、日曜参禅会や坐禅を取り入れた新入社員研修などがあるものの、生活意識から禅が遠くなり、実践する人がまだまだ少ないということは、大変に残念なことである。

禅は、人間が自己を発見し、本来の面目に還る唯一の道といっていいほど、よい方法である。禅という方法を通して、悟りの人、大悟徹底の人となり、宇宙的な人間性を成就できることは、すでに述べた通りである。これほどの素晴らしい道が、難解、難入、難行なため、何としても大衆のものとはなり得ないでいる。

 昔は、悟りの人、大悟徹底の人となるために、各種の行法で肉体を苦しめて難行、苦行をした。今でも、一般に修行法といえば、特殊の人にしか実行できないような、いわゆる難行、苦行を想像する方が多いだろう。歯を食いしばり、冷水をかぶり、苦痛に耐えるといった特別の生き方である。

 だが、これも間違いである。寒行をして睡眠不足の上に、早朝から氷のような水をかぶる。体をせっかんして何が得られたのか。霊能、霊感が少しばかり、こんなことで人を迷わせてはいけない。

 不用意な刻苦精励を伴う修行法などは、世捨て人をつくり、別世界の深山幽谷に追い込んでしまって、人間離れした偏屈人をつくることになりかねない。その方法によっては、生かされているという面には沿ってゆくことができても、この現実の社会に生きてゆくということには、程遠いものがあるわけである。社会生活に真理が役に立たないのでは、真理を〃真利〃としてありがたいと思うわけにはいかない。

●真理体得への道

 次に、私は禅の原理を研究した結果、坐禅は古来、自力の行法だとされ、仏教でも真宗や浄土宗は他力門、禅宗は自力宗だと自他ともに思い込んでいたが、案に相違して禅もまた、自力から宇宙的な他力を仰ごうとする、むしろ積極的な他力追求門であったことに気がついた。

 先に紹介した「分け登る麓の道は多けれど、同じ高根の月を見るかな」というのは、盛んに禅に出てくる道歌だが、他力門と自力門が反対の道でもあるかのごとく思い込んでいるところに、差別即平等、平等即差別の理に徹していない教門の対立観があったことがわかったのである。

 元来、他力と自力が分かれて、別のものらしく思えるところに、人間性意識のわながある。ここに宗教のできる由縁があり、人の救われがあり、宗教的虚構や迷信もできた。

 真宗は頭から他力を仰いで、自己を統御、成長させる宗旨であり、禅宗的自力門は、自力から宇宙的大他力に融合しようとする、他力求道の法門であること、両方ともそれでよいのであるが、宗教慣れがして、他を異端者のごとく批判、排撃して矛盾が差別を作るのである。

 両者とも長所のみとれば、楽で楽しい禅にも念仏にもなってゆく。念仏も真に至れば禅と同じになる。念仏三昧、題目三昧、写経三昧など、昔の人にはこうした道から、高根へ到達できた人もたくさんいたのである。

 とはいっても、究極的に楽で楽しくなってゆくほどに坐禅に精進できる人は、心掛けのよい、意志の強い人で、現代の一般人ではなかなか続くものではない。坐禅は、それほど難しい、厳粛な、先人たちの残された無上道なのである。かの有名な達磨大師でさえ、面壁九年という長い禅修行が必要だったことでもそれはわかる。

 達磨大師や道元禅師の厳しい仏道修行は、確かに真理体得の近道であり、仏法に基づいた正法である。しかし、出家隠棲、面壁九年の修行が必要だとなれば、現代の大多数の人間にとって、悟りも真理も縁遠いもので終わってしまう。

 普通の人にとって、坐禅で大悟徹底することは、孟子のいうように「木に縁りて魚を求む」ことでしかないだろう。

●坐禅から寝禅へ

 現代の禅は、今日の日常生活の中で、誰もが大悟できる方法を持っていなくてはならない。禅そのものが自由で、合理、合法的な科学禅で、その上楽しい道でなくてはならないだろう。そうであってこそ、普遍の真理が万人のものとなる。

 もっとわかりやすく、容易に、間違いなく実行できる方法はないものか、自然から至禅へという円転滑脱な禅の行法はないものかと考え続け、ついに開発したのが、私の二十年余にわたる人間研究の成果であったのである。

 それが、三年、五年でする寝禅である。

 私は、従来の禅を誰が、いつ、どこでしても簡単にできて、効果はてきめんというようにすることはできないものかと、長年、工夫をしてきた結果、白隠禅師の「夜船閑話」に出てくる内観法をはじめ、いろいろな方法からヒントを得た。この内観法というのは、「気」を下腹、臍下丹田から足の土踏まずに集中させる健康法であり、呼吸法であり、かつ自己暗示療法である。

 そして、私は寝ながら実践する現代禅、科学禅、名づけて寝禅を行うようになってから、大変気持ちもよくなり、健康にもなった。

 ここで、全く道元禅師のいわれるように、禅は「安楽の法門」であることが、よくわかったのである。

 いまだかつて誰も気がつかなかった新行法、寝禅の効果は大きく、短期間に人間完成の実を上げることができる。むしろ、これまでよりも、より楽しく、愉快に生きる中において、大悟徹底に至ることができる自然の妙法なのである。

 過去数千年もの間、宇宙天地間にありながら、誰も気のつかなかった人間改造の行法を教えてくれたのが、ほかならぬ宇宙の大神であり、私の人間研究の成果でもあった。

この全身全霊を打ち込んで、さまざまな新しい体験を加えて、ついに開発し得たところの方法は、坐禅よりも簡単なものである。老若男女を問わず、病臥している人など、どんな条件の人にも実行できる。

 しかも、一日ごとに素晴らしい進歩を遂げてゆき、日一日と自己が改造されていくのがよく自得できるという、楽しい行法である。社会生活をしながら、日常生活の中で一日にわずか三十分、一時間のコースの積み重ねで、禅僧が一生修行して得られるほどの悟りに達する。そして、三年か五年、十年の間には、完全者、達人の域に至ることができるものである。

 あまりにもよいことづくめの修行法、それは毎朝、目の覚めた時に、温かい布団の中に伸び伸びと体を横たえたままで行う。

 だが、寝ながら禅をするから、寝禅とか仰臥禅などといっているが、その根本原理に至っては、実に徹底したもので、大変厳粛な方法なのである。

 だから、坐禅を志す人にも、まず、その前提として、寝ながらできる寝禅について紹介しているのである。

 難しくいえば、坐禅を三年、五年と続けて、しっかりと禅ができるようになってから寝禅に移れば、要領を知っているだけに、効果は大いに上がる。本来、坐禅から寝禅へという順序が望ましいのであるが、坐禅を志す一般の人には、その前提、土台として、逆に寝禅から坐禅へと勧めるほうがよいかもしれない。また、両方を併用して修行してもよい。

●自然の〃然〃による悟り

 なぜ、私が坐禅にとどまらず、従来の禅の原理を独自に研究し、より身近な方法で坐禅以上の利益や効果を上げることができる寝禅を開発したのか。

 それは、人の一生をかけて坐禅をしたのでは、悟りに至るまでに人生が終わるかもしれないし、従来の方法では、身心を放下するのは容易ではないからである。精神的にも肉体的にも、難行、苦行を積み重ねなくてはならない。その上、仏教的な難解さがどうしてもつきまとう煩わしさがある。

 これでは、千人に一人、万人に一人の天啓開悟者も出現しそうにない。

 結論を急ぐと、禅の最終的に目指すものは真理である。それは、宇宙万有の真理、全体の真理、絶対の真理、永遠無窮の真理、金剛不壊(こんごうふえ)の真理といえるもの。それを肉体を通して知ることである。つまり、まず理知的段階があって、しかるのち体得という順序になる

 大抵の宗教が大なり小なり、みな悟りを目指しながら、悟りに捕らわれ、矮小な神秘性の問題としている。これすら目的も小さく効果も少ない。人間にはもっと大きな、宇宙的、真理的な大目的と、大価値があるはずである。

 白隠禅師という禅傑が「小さな悟りは数知れず、大きな悟りも十何遍」といったように、小さな真理と大きな真理があり、世の中に、真理の発見ほど楽しい生活法はないのである。私のいう真理生活は、何から何まで、一挙手一投足すべてが、一期一会の生活態度となること。歓喜明朗人となることである。

 そこに至る方法があったのである。それも、寝禅というきわめて簡単に、かつ正確に、誰にも間違いなく、必ず体得できるという方法である。それこそ、自然の〃然〃による悟りである。

 このことに関して、私は二十数年というものまっしぐらに、命を懸けて取り組んできた。ついに、その解明と開発に成功したのは、私という人間の無意識層から宇宙に通じ、神仏に通ずる「気」の超感覚が、生まれながらにして開かれていたために可能であった、と人間研究四十余年の今にして思えば思える。

 「坐禅和讃」の中で、白隠禅師が「水の中にいて渇を呼ぶが如くなり」と述べているように、水の中にいる魚は水を知らないのと同様、社会に生きている人間は社会がわからない。社会から一歩外へ出てみなければ、客観的に人間を見ることもできない。それは、心で心を見ることができないのと同じことだ。

 ところが、私の体験によれば、肉体で肉体を見ることができ、肉体で精神とか心とかいうものをも、見ることができるのである。

 つまり、私の解明し開発した禅は、坐禅の禅によらずに、自然の然を利用して、肉体に悟りの状態を作り出すのである。その方法はすでに触れた通り、睡眠と翌朝の深呼吸と自然運動である。

 中でも睡眠は、人間の生命と宇宙とが融け合って流通、交通する神秘的仕組みである。この眠りを利用することが、自然の然を利用して真理に到達する上で、一番の近道であることが発見できたのである。

●現代禅での真理体得

 では、現代禅を通して、真理自身が自然に明らかになってきた時、人には何が残るのだろうか。

 生まれたばかりの赤子のように、純粋無垢の肉体一個の人間がいるばかりである。「幼子のごとくならずんば、天国に入るにあたわず」と聖書にいうように、この赤裸な肉体一個をもって生かされてきた者として生きるほかはない。自分一個を真空状態にし、自然に任せ、宇宙全体のあり余る恵みを喜びつつ受け入れていこうとする人を、禅宗では「無位の真人」といい、浄土真宗では「妙好人」という。

 私の工夫、案出した現代禅、合理合法的な科学禅の第一段階は、五官意識を皆実皆空のものとするために、眼耳鼻舌身という五官を内部から操っている心と称する曲者を皆空にすること。そうすれば、五官による第一の悟りが得られる。

 第二段階は、潜在性意識からの悟りである。五官から正しく受け入れられた意識は、みな正確な潜在性意識となって、肉体内に集積、貯蔵される。人の肉体は、出生以来の意識の大宝庫であるから、その集積能力からはほとんど無限の知恵も湧き、総合能力も発揮されるのである。

 第三段階は、無意識からの悟りで、この段階に至れば、今まで想像の領域において論じられていた末那識(まなしき)、つまり超感覚的知覚のことで阿頼耶識(あらやしき)ともいうものが、はっきりと肉体の力として把握でき、天来の他力の到来として自由に自力に切り替えられる。この段階の悟りこそ、宗教ではなくて科学的な枠内で体感、体得できる現代禅、科学禅といえるのである。

 すなわち、わかりやすく説明すれば、肉体そのものに備わった真理性が、自然に働き出して宇宙と直通する。まさに感じるものを感じるのである。もともと宇宙大自然の結晶体である肉体を、そのあるがままに宇宙大自然の他力に任せ切る。その時、宇宙大自然はその真理を一個の肉体の上に見事に開示してみせるということである。

 もちろん、任せ切るといっても、いわゆる〃そのまま禅〃ではない。現代の禅は、可能な限り合理合法的でなくてはならない。そのための方法は、すでに述べた通り、睡眠法、自然呼吸法、自然運動である。禅の合理化、大衆化、日常化がこれによって果たされるのである。

 まず午前零時を中心とした眠り方の要領八時間に、その方法の第一歩がある。早寝早起きの正しい眠りの中では、他力が自力となり、疲れが翌日のエネルギーと変わる。妄想は燃えて肥やしとなり、食欲や意欲や気力となって立派に働くのは、宇宙の「気」に万物を生かす力があり、体を通じて寝ている間に浄化、調整をしてくれるからである。

 次には、朝の目覚めに自然呼吸、全身呼吸、宇宙呼吸の三十分。これで身心一如となり、宇宙と我とが一体となる。続いて三十分ないし一時間、自分の体を寝床の上でゴロゴロ動かしながら、自然運動による積極的な〃命の躾け〃をする。自然機能の訓練法、発動法だから、これだけで宇宙の精気が体にみなぎり、体悟徹底ができるのである。

 この現代禅、科学禅の具体的なやり方については、本書の後半で詳しく述べてみたい。

 

 

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