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∥上半身の出物が発する健康情報(2)∥

∥耳をチェックする∥

 

●耳垢は汗腺の分泌物などからなる

 人間の目や鼻が前頭部にあるのに対して、側頭部にあるものといえば二つの耳である。この耳は、外耳、中耳、内耳の三つに分けられている。

 俗に「福耳の人はお金が授かる」といわれるが、この場合の福耳というのは、耳の中で最も外側にある耳介を指している。先の鼻の重要性を認識していない人が多いように、「耳ごとき」と思われる人も多いことだろうが、耳は他人には意外に目立つ個所であるし、自己の肉体内部に対しても調節、調和作用をしている大事なところだけに、おろそかにはできない。

 実は、耳の働きというものは、目以上に人間の肉体作用、精神作用に大きな役割を果たしているのである。世間の人は、その耳の働きをあまり知らないし、気がつかないようだ。

 人によって耳介の大きさが違うとともに、形もさまざまである中で、一般には、耳介が大きく、耳輪の渦も深いのがよしとされている。確かに、耳介というのは聴覚器の外へ向けられた集音器で、すべてのものの音はここで捕らえられ、耳の奥へと伝えられていくのであるから、大きかったりするほうが集音能力は優れていると思われるだろうが、現実に、耳介の大小によって、聴力が影響を受けるということはほとんどない。

 この耳介は、全体には軟骨が基盤をなし、下部の女性がイヤリングをつける一帯だけは軟骨がなくて軟らかく、下方に垂れ下がっているので耳たぶという。

 耳介の前方下部には、耳珠という小さな高まりがあり、その後方の陰に外耳孔がある。この外耳孔から鼓膜までの道を外耳道といい、外耳道と耳介を合わせて、外耳と呼んでいるのである。

 外耳道は成人でほぼ二・五センチの長さで、軽くS状に曲がっている。お陰で、外からのぞいただけでは鼓膜は見えない。これを見るためには、耳介を後ろ上方に引っ張り上げなければならない。

 さて、外耳道には柔らかい毛があり、耳道腺という汗腺の一種が開いている。耳からの出物である耳垢は、この汗腺からの分泌物と、表面の皮膚のはげたのが混じったものなのである。

 耳垢は体質的に、たまりやすい人と、そうでない人がいて、たまりやすい人は耳道腺からの分泌が活発な人に多く、中にはそれがすぎて、耳の中がいつもぬれた感じの人がいる。この種の、いわゆる猫耳は西欧人に多いようだ。

 外耳と内側にある中耳を境する鼓膜は、〇・一ミリの薄い膜でほぼ長円形をなし、その長径は一センチ弱である。この面はよく見ると、中央部がラッパ状にへこみ、臍の形をしているので、臍と呼ぶ。この部分の内側には、ツチ骨の柄が接し、ここから音の振動が内部に伝わる仕掛けになっている。

 鼓膜は薄く、外側からこれらの骨の形が透けて見える。それでも、膜の中には神経や血管が走っていて、耳垢をとる時など、誤って触れると激しい痛みを覚えることは、誰もが経験済みのことであろう。

 そのように耳の鼓膜はとても敏感で、表面をわずか百億分の一センチ動かす振動でも捕らえることができるという。そして、鼓膜の振動圧は、鼓膜のすぐ裏側にあるツチ骨など三つの耳小骨で、何と二十二倍の圧力に増幅される。

●中耳炎は咽頭や喉頭の炎症から起きる

 その三つの耳小骨に囲まれた空間が中耳で、鼓室と、ここと咽頭(いんとう)をつなぐ耳管とからなっている。いずれも表面は粘膜でおおわれ、中は咽頭から流入してきた空気で満たされている。

 鼓室の内側は、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨という三つの耳小骨が互いに、関節をもって連なり、前記の鼓膜の臍から伝えられた音を増幅しながら、ツチからキヌタ、アブミ骨の順で、内耳へ送られていく。

 中耳炎は、この骨を取り巻く粘膜の炎症で、悪化すると音の伝達がうまくいかなくなり、難聴からやがて失聴に至ることもある。中耳は耳管によって咽頭と通じているため、咽頭や喉頭(こうとう)の炎症から起きる場合が多い。

 内耳は中耳のさらに内側にあって、硬い骨に囲まれ、小部屋の中に、蝸牛(かぎゅう)管、三半規管、前庭などが収められている。いずれも複雑な形をしているので、この一帯を骨迷路といい、この内側の粘膜を膜迷路と呼んでいる。

 このうち、カタツムリの形をした蝸牛管の中には、一種のリンパ液が満たされていて、ここまでやってきた音はリンパ液に波を起こし、その波紋がそこにいっぱい生えている繊毛(有毛神経)を動かし、その信号が聴神経を経て脳に伝達されるという仕組みになっているのである。

 一方、三半規管には前庭神経の一部がきて、体の平衡感覚をコントロールする働きをする。幼い子が車や船に酔うのは、この三半規管が未発達のため。耳は音の情報を得る感覚器官であると同時に、人間の直立姿勢の保持、つまり体の平衡を保つ平衡器官なのである。

 三半規管が発達していない乳児の場合も、音の情報を得る聴覚は発達しており、だいたい毎秒十六サイクルから三万サイクルの範囲の音まで聞こえる。だが、六十歳になると一万サイクル前後にまで落ちてしまう。人間は老いてくると、耳が遠くなるのである。

 耳で聞こえなくなると、鼻や口で聞こうとして、つい口を開ける。ポカンと口を開けた顔は、何ともだらしなく、締まりなく見えるものだ。

 現代の文明人たちは、テレビを見る、ラジオを聞く。無用な雑言にも似たくだらない音で、やたらと耳を煩わす。

 「聴、甚だしければ即ち耳聡ならず」と「韓非子」にあるが、無理に不必要な音で耳を刺激したり、耳がそれを聞こうとして焦ると、耳がだんだん本来的な働きを失い、いうことをきかなくなる。〃不感症〃というやつになってしまうから心すべきだ。

 それにしても、人間の耳というものは、まこと巧妙にできているものと、つくづく思うことがある。

 電車のような大きな騒音が聞こえるところにいても、慣れれば、ちっとも耳障りにならなくなるから不思議である。

 ちゃんと耳が調節、ろ過して、体に無益な刺激を与えないような機能が働く。一般には知られていない耳のもう一つ大事な働きは、肉体の内部、内臓の器官に対して、素晴らしい調節、調和作用をしていることなのである。

 さらに、耳から無意識につながってでき上がる勘というものは、肉体の深部にまで到達する。例えば、犬がぐっすり寝こんでいるようでも、耳だけはちゃんとアンテナを張っていて、ちょっとした物音にも敏感に動く。目は閉じていても、耳や鼻は外のほう、つまり生かされているという世界に向けて開いている。

●耳を澄ますと奥深い世界に通ずる

 この耳は聞くだけでなく、耳で見ることもできる。目は確かに事実を誤りなく見るが、それはあくまで表面的な状態だけで、内容を見ることのできるものは耳である。人を本当に見ることができるのは、耳なのである。耳は、目で見た印象と合わせて、物事の本質を間違いなく感覚することができる。

 結局、耳も目も、外界のものを捕らえるという点で、同じような働きをしているようであるが、本質的に違うものである。

 目は平面的であるから、表面的で浅いところを広く見る性質を持っている。耳は深いところにあるから、力というものを把握することができる。目に見えない世界を把握できる力を持っているから、耳を澄ますと奥深い世界に通ずることができる。耳で落ち着くということができる。だから、耳がしゃんとしていると、目がキョロキョロするようなことはなくなるわけだ。

 この力を活用すれば、難行苦行をするまでもなく、人間性を成就することができる。真に健康、賢明になり、病気もせず心に悩みを持つこともない。難病、業病を治すこともできるのである。

 目に見える物や、耳に聞こえる音はまず潜在性意識の中に入る。目と口は現象界に直接し、直面して頭脳に記憶させるし、耳と鼻は目に見えぬ世界のものを捕らえて体内に入れる。

 鼻で嗅げないものや、目に見えない物や、耳に聞こえないものは、一種の光となって無意識の中に入っていく。

 人間は目に見える物、音として聞こえるものだけが、ものだと思っている。けれども、それ以外に、それ以上に素晴らしいものがあるということを知らない。こうした力が無意識に入っていくと、下のほうの空意識から入ってくるものと、二つの力が合流して、大変な能力を生み出すのである。

 こういう力は誰にでもある。平等に生かされている世界に生きている人間の、素晴らしい能力である。しかし、このことを知る人がない。この力が肉体のあらゆる器官、機能に重要な力を与え、大きな能力を発揮させる力であることを人は気づかない。

 つまり、見えない物、聞こえないものが、この空の世界に、空の形で存在している。それを体で受け取り、我が力とする方法ができたならば、その人は達人になれる。

 耳は音を音波として聞き、目は光を吸収して万物を見る。同時に、耳や目からいろいろな物事を発動し、発揮していく力を持っている。人間の行う芸術、科学もそうした働きによるものである。

 耳や目はものを吸収するが、それが目に見える陽の面に働く時と、目に見えない陰の面に働く時とがある。目は光を捕らえ、光の中で陽の面に働き、耳は目に見えない世界のものを音として受け取るわけである。

 古来、「耳を信じて目を疑う」とか、「耳に入り心に著(つ)く」といって、耳から聞いた学問、知識などが、よく身につくもの。

 賢い人のことを聡明(そうめい)といい、耳ヘンである。聡明といえば、精神が立派で、物事の判断力が確かな人だ。その元はといえば、耳が優れていて、もののよしあしを判断する機能が、十二分に働くということである。

 徳をもって人に分かつ、これを聖という。財をもって人に分かつ、これを賢という。人に恵む時、徳を人に分けてやるのが一番尊い。それが聖。財産を分けてやる賢はその次。こう荘子もちゃんと教えている。

 聖という字にも、耳が付いている。やはり、最高の人間たるには、耳が正しくないといけない。そのあたりは、昔の人も心得て、字を作ったものだと感服するばかりである。

 

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