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∥上半身の出物が発する健康情報(3)∥

∥目の疲れをチェックする∥

 

●目から出る涙は酸素と栄養の供給源

 本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気付いた時にはもう手遅れとならないために、毎日、自分の体からの貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。

 いろいろな出物は毎日姿を変え、体の調子をはっきり告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターで、素人にも判断しやすい健康の指標なのである。

 もし色や形、量、におい、音などに異常が発見されたら、病院にいって精密検査を受けてほしい。確かに、一過性の違和もあり、出物の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できる場合もあるのだ。

 いきなり病院に担ぎ込まれる前に、体からのメッセージを自分の目で読み取る能力を養っておくのが、内臓をはじめとした心身へのいたわりというもので、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。

 メッセージの解読法とともに、肉体各部の異常な出物を正常な出物に変える対処法や、日常生活において根本的に肉体を調整、浄化する健康法をお伝えしていく。この健康法も、誰にも有効で、大いに活用できるものである。

 現代の日本人の肉体の中で、最も酷使されているものの一つに、両の目が挙げられるだろう。

 もとより、宇宙には音が存在するから人間の耳が作られたように、光があるから人間に目が与えられたのであるが、目の網膜には光に反応する視細胞が一億三千七百万個もあり、そのうちの一億三千万個で明暗を感じ、七百万個が色彩を感じているという精巧な器官なのである。だからこそ、目の視覚機能は、最も多くの外界の情報を瞬時に判別、認識する。

 この目からの出物、腫れ物といえば、涙、目やに、ものもらいが考えられる。

 最初の涙に関して、感極まって涙を流す動物は人間だけだといわれているが、実をいうと、我々人間は別に悲しくなくても、常に、一定の量の涙を出し続けているのである。人前で泣くものではないと教育されて成人した男性でもだ。

 それは涙の基礎分泌と呼ばれている。この涙の分泌が一瞬でも止まれば、角膜が乾燥してしまうため、我々は目を開けていられなくなる。

 角膜というのは、眼球の黒目の部分をおおう透明な膜で、直径はほぼ一センチである。角膜の外側はいわゆる白目で、表面は透明な結膜、その下には強膜という白色、不透明の丈夫な膜がある。鏡をのぞいて、自分の目をよく見ると、その表面には細かな血管が張り巡らされていることに気づく。目が疲れてくると、血管が充血して目立つようになるのは、目に酸素と栄養をたくさん送り込むための反応なのである。

 この張り巡らされた血管は、白目が角膜に接するところで途切れてしまう。よくできたもので、角膜の中に入り込む血管は一本もない。透明な角膜に血管が入り込んでいては、視界のじゃまになってしまうからである。

 しかしながら、角膜を構成しているのは生きた細胞であるから、酸素と栄養の補給を欠かすことはできない。そこで、血液の代わりに使われるのが、まばたきの刺激で基礎分泌される涙というわけなのである。

 意外に感じるかもしれないが、毛も、皮膚も、表面の部分は、新陳代謝を終えて死んだ細胞である。人間は、体を死んだ細胞でおおうことによって、水分の蒸発を防いでいる。生きた細胞は空気に触れると、すぐに乾燥してしまうからだ。

 この点、角膜のように生きた細胞が直接大気にさらされているのは、人体では珍しいケースなのだ。それが乾燥せずにいられるのも、涙が常に目の表面をおおっているお陰なのである。

 目をおおっている涙の量は、きわめて少量だ。およそ七マイクロリットル、千分の七ミリリットルという量である。

 涙は目の表面に、ごく薄い層となって、延び広がっている。本当に薄い層であるが、細かく見るといくつかの層に分かれている。外側から油層、漿液(しょうえき)層、ムチン層と呼ばれる三つの層だ。この三層が正常に機能して、はじめて涙としての役割を果たしているのである。

 最外層の油層は、脂肪分に富んだ液体だ。これが涙全体をおおっているために、涙は普通の液体よりもはるかに蒸発しにくい。油層はまつげの生え際に一列に並ぶ、マイボーム腺(せん)と呼ばれる器官で作られる。皮膚の脂腺が詰まってニキビができるように、マイボーム腺が詰まるとまぶたが赤くはれる。これが目の出物、腫れ物、いわゆる、ものもらいである。

 油層の内側の漿液層が、涙の本体。ここに、酸素や目に必要な栄養などの成分が含まれ、目の健康を保つのである。主に、上まぶたの裏の耳側にある涙腺で作られている。

 その内側、眼球の表面と接しているのが、ムチン層。ムチンは粘着性の高い蛋白(たんぱく)質で、涙が目の表面に安定してくっつきやすいようにする。外部から侵入した異物や細菌を目の外へ出し、まぶたの動きをなめらかにするという働きもする。このムチンは、白目の表面にあるゴブレット細胞で作られている。朝起きた時に、目の隅などに目やにがついていることがあるが、これがムチンである。

 このように三層をなす涙は、目を正常に機能させるために欠かせない液体なのである。

●目を酷使すると生理的機能を痛める

 その涙が、人間の感情の高まりと一緒に、大量に分泌されるのはなぜだろうか。この疑問に対する明確な医学的解答はいまだ得られていないが、感情的涙についての仮説で有力なのは、人間がストレスを受けている時に体内に発散した有害物質を取り除く働きがあるというものである。この感情的涙には、刺激で出る涙より高い濃度の蛋白質が含まれているそうだ。

 また、目から出る感情的涙というのは、ボディーランゲージの一種であることも確かだ。悲しさと涙とが条件反射的に結びつけられていく過程は、新生児を観察するとよくわかる。

 多くの人は悲しいから涙が出るのだと思っているが、「涙が出るから悲しい」のも側面的真理であって、心の悲しみは体ごと表現されるものである。

 そのような人の動きをよく見る力を養うと、人柄がわかり、性格もつかめるようになる。これも目の働きである。

 眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官(五感)意識で直観することもできるようになるものであるし、そういう達人の目はゆったりしている。なぜなら、古人が「胸中正しければ、眸子(ぼうし)明らかなり」と喝破しているように、体が正常であれば目もゆったりしているものなのだ。

 残念なことに、たいがいの現代人の目は落ち着きがなく、視点が定まらないでキョロキョロしている。物事に対する鑑定も、全く当てにならないものである。

 言い古された言葉であっても、「目は心の窓」というのは千古不易の真理である。自己意識の強い人は、内面を映す目が濁って妄想が渦を巻いている。

 一方、五官意識でスッキリと生きている人の目は、まるで新生児や乳幼児のように、自ら澄んで美しく、青空のようにすがすがしい。

 実は、そのような目をした新生児の五官のうち、真っ先に働くのは口と鼻である。目や耳は少し遅れるものだ。

 目という器官は、もともと物を映すようにできているから、教えなくとも自然に見ることができる。意識的に見るように教え込まれなくても、天地万物のほうから新生児の目に飛び込んでくるわけである。

 つまり、目は与えられれば何でも見る。目からは、自然の心が入ってくる。恐ろしい害毒も飛び込んでくる。刺激の強い、つまらないテレビの画像も、子供の目に飛び込んでくる。こうした映像が、すべて先入観念となって肉体に蓄積され、人間の一生を支配するのである。

 子供のうちから、やたらに目や耳を使うと、人間性の根本が狂ってしまう。

 ビジュアルに教え込むことはやさしいから、人はやたらに視覚教育を尊重するが、そのために自己意識や誤った先入観を子供に詰め込むことになる。その害毒の大きさは、テレビについてだけ考えてもよくわかることだ。テレビの見すぎは、子供の精神に「心」という錆(さび)をこびりつかせるばかりでなく、目の生理的機能をも痛めてしまうものである。

●心の窓たる目の疲労の治し方

 子供に限らず、現代人は目を酷使しすぎる。用のない時は目を閉じていたほうがよい。 目を自己意識で酷使していると、疲労のために頭痛がしたり、吐き気やめまいを生じることもある。

 とりわけ、人間の目の疲れで最近多いのがドライアイで、涙が少ないために目が疲れる一種の現代病である。先に述べたように、その涙は泣く時に出る涙とは全く別で、目が正常に働くための最低限必要な潤いとしてのものであり、この基礎分泌の涙が少ないと、ドライアイと診断される。

 では、涙が少なくて目の表面が乾くとどうなるのか。角膜の表面には、きわめて細かい凸凹が誰にでもある。凸凹は、本来なら涙によっておおわれ、なだらかな曲線になっているのであるが、涙が不足するとそのまま露出し、表面組織がはがれてしまう。

 そこに光が乱反射してまぶしさを感じ、視神経を疲れやすくしてしまうのである。特に、一日中コンピューターに向かって仕事をしている人、つまりVDT作業をしている人は要注意。じっと画面を見つめる作業なので、まばたきの回数が減る。通常の涙はまばたきの刺激によって出るものだから、その回数が減れば自然に涙の量も減って、ドライアイになりやすいわけだ。

 対策としては、涙に近い成分の目薬を頻繁にさし、目を休めることしか手立てはない。ことに目を酷使する作業をする時には、一時間を一クールとして、その中に必ず十分くらいの休憩をすること。

 その時に、遠くの緑を見るといいとか、星を数えるといいとかいうけれども、一生懸命見ようとするのはかえってよくない。ボーッとするとか、同僚とおしゃべりをするとか、少しでも寝るとか、とにかくあまり物を見ないことが、目にとっては必要なことである。何より血行をよくすることも大切だから、首や腕を回したり、社内をうろつくのもいい。目のためには、見るな、そして動けである。

 もちろん、ドライアイの人の仕事休みの時は別にして、ふだんから遠い地平線を凝視したり、強くまばたきを繰り返したりするのは、疲れ目に効果がある。ヨガの古い文献によると、トラータカと称する一点を凝視する方法は、視神経を強め、眼疾を治癒させる効果があるという。

 また、光が目の保健に役立つことは生理学的な事実で、漠然と遠くの一点を見つめたり、天上に輝く日や星を注視することは、肺が清浄な空気によって元気づけられることと、同じような効果を持つことになる。日の出や日没の時の、まぶしくない太陽を注視するのは、スーリーヤディヤーナと呼ばれるヨガの保健法でもある。

 しかし、日中のまばゆく、強い太陽光線では、逆に目に炎症を起こす恐れがあるから、みだりに注視することは好ましくない。

 目が疲れたなと思ったら、まぶたを閉じて親指の腹で軽く摩擦をするのもよい。目の体操としては、首をしゃんと伸ばして、自分の鼻先を注視する方法や、上目使いに眉間(みけん)を見つめる運動がある。顔を動かさず、視線だけを左右の肩先に移動させると、眼球をコントロールしている筋肉の鍛錬になる。

 そして、目の疲れに何よりいいのは、十分に寝て目を休めること。誰もが夜の眠りに入る前に、空の世界に目を遊ばせ、目に見えないものを見るようなつもりで寝ると、肉体に蓄えられた「気」の作用で自然に精神が統一され、宇宙大自然と一体の境地に到達できるものである。もちろん、目の疲れも回復する。目薬よりも寝薬なのである。

 

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