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∥女性の理想は器量よし∥

 

●女性の美しさにも関係する人間の「気」量

 男性に対して「器量人」という称賛の言葉がある一方、女性に対しては「器量よし」という褒め言葉がある。

 広義には顔立ちがよいこと、また美人を意味するが、狭義の器量よし、真の器量よしが意味するところは、単なる顔立ちがよい、美形というだけではない。ただ容姿が優れている、容姿端麗というだけでもない。

 愛嬌(あいきょう)があって、よく気がついて、明るくて、品があってなどの形容詞をいくつか重ねなければならない。人をうっとりと酔わせてくれる、雰囲気という名の含みのある芳香、香気を放っているともいえようか。

 「気」量が人間の大きさばかりか、真の美しさにも、これほど関係してくるのだから、その重要性が理解できるであろう。人間の器の「気」量が大きく、しかも肉体に十分に循環しているなら、内面の輝きが顔という社会への窓や、全身の雰囲気に反映されるのである。

 現代に生きる女性も、上辺のみを飾ることに腐心せずに、真の器量よしを目指してもらいたいと望むところだ。

 単に「器量」というと、顔形のこと、つまり顔のことを指す。この「顔」という言葉は、通常二つの意味で使い分けられている。一つは一般的にいわれる形、顔付き、容貌(ようぼう)、いわゆる人相である。丸顔・角顔・面長といった顔形、目鼻立ち、顔を形作る目や鼻といった部分、色白・色黒、眼鏡など、容貌を左右する要素は多い。

 もう一つ、顔という言葉が意味するのは表情である。どんな容貌であれ、それぞれに喜怒哀楽の感情を顔に出す。「顔色一つ変えないで」という表現をする。それもまた一種の表情といえる。

 それぞれの人間の顔というものは、その人の氏や育ち、生きざま、性格、教養、職業を始め、すべてを表す。その人間を集約する個所だから、顔は体の中でも、その人を代表する大事なところ。「人の顔に泥を塗る」とか、「世間に顔が広い」とかいう。顔は、社会に向けられた、その人間の存在なのである。

 顔形、骨相そのものは両親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないが、「年頃すぎたら顔は自分が作るもの」といわれるように、やはり顔に現れる品格や教養は本人の責任だろう。

 よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという両極端の表現をする。どちらも顔に現れたその人間の生きざまだ。骨相が遺伝的なものなら、人相の場合、半分は後天的なものだろう。美人や美男は親譲りのものかもしれないが、これも顔の美しさ、すなわち美貌で決まる。

 「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく、情けある」と与謝野鉄幹が歌った「みめ」も、見た目、つまり容貌、器量のこと。それが麗しいということが、広義の器量よし、美人である。

●相手の容貌から正しく人柄を見抜く方法

 器量よし、美人を始め、美女、美少女、べっぴん、ちょっと古めかしい言葉では佳人、麗人、優女、俗語っぽいところでは色女、シャンなど、美しい女性を指す日本語はけっこう多い。

 「上品な顔立ち」という言葉もあるが、目鼻立ちの整い具合、要するに、表面的な器量のよしあしをいったものである。

 一方、器量の落ちる語は数が少なく、「醜女」と書いて、しゅうじょ、ぶおんな、ぶす、しこめといったり、無器量などという。

 美しい男性に対しては、美男、好男子、色男、眉目(びもく)秀麗、美少年など、女性に比べて用語が乏しい。昔から「男は気で持て」、「男は度胸、女は愛嬌」などというように、男は美貌で競うものではないとされるからであろう。

 女性の顔の美しさについては、時代とともに違いがあるようだ。平安時代の美人は、各種の絵巻物に描かれているような下膨れの顔であるし、近世、浮世絵に登場する女性は、みな面長の顔をしている。

 昔は美人の典型とされていた顔ではあっても、どう見ても現代人の感覚には調和しないといってよいだろう。

 それにしても、あまり他人の器量を批評するのはいい趣味とはいえないが、私たちは相手に対する時、顔によって人物を見分け、顔によってその人となりや心の内側まで推し量るのだから、致し方ないところもあるだろう。

 特に、人間は初対面の人に会った時、まず容貌から相手の人柄を判断しがちである。「怖そうな男」、「信頼できそうな男」、「心の優しそうな女」といった人物評価を、無意識のうちにやっているのである。

 しかし、人間の性格や心というものは、人相見の名人や人間観察の専門家ならいざ知らず、えてして顔付きとは無縁なところにある場合もある。見掛けだけで人柄までを判別すると、間違うことも少なからずあるのも事実なのだ。

 反対に、相手の容貌から感じ取った第一感が正しくて、鋭く人柄まで判別していたのに、二度、三度と見ているうちに、自己意識が「ああのこうの」と、へ理屈を加え、自己流の間違った人物解釈に陥る場合もある。

 人間が初対面の相手の顔を見て、好悪の先入観を勝手に抱くのはなぜだろうか。最近の脳や心理学の研究によると、乳児期の母親の顔付きと感情表現が、その鋳型になるようだ。

 では、大脳に刻まれたそういう先入観の鋳型に捕らわれないで、相手の人柄や心や考えを正しく理解するには、どうすればよいだろうか。大事なポイントは二つ。

 第一は、話してみること、つまり聞くということである。第二は、表情を見て、心の動きを知ること。「そんなことは当たり前だ」といってしまえば、それまでのことだが、いうはやすく行うはかたしである。

 なぜなら、本来の人間は目や耳などの五官で見たり、聞いたりして、相手を見抜き、物事を知るという力が備わっているのに、現代の人間は五官さえ正しく働いていないことが多く、みないい加減な自己意識に左右され、判断を誤っているからである。

 人を正しく見抜くためのよい方法は、日常的に多くの人々と接して、人間を見る目を養っておくことである。言い換えれば、人を見抜くには、まず見抜く側の自分を鍛えるべきだということになる。

 人生は常に、真剣の一本勝負である。何事にも、一期一会という禅的心構えで臨むべきである。

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●真の器量よしは単なる美人とは異なる

 世の中には、口のうまい人が多い。うそつきで、ご体裁の見掛け倒し、大抵これに引っ掛かってしまうのである。社会的な肩書きも、金も、学歴も、本当には当てにならぬことが多い。

 同じ意味で、見掛けの美人、編集子のいうところの表面的な器量よしも、当てにならぬことが多いので、特に若い人に注意を促しておきたい。

 美というと、すぐ顔形、容姿の美しさを連想するだろうが、真の美というものは、根に支えられたもの、精神に支えられたものでなくてはならない。美しい花に、よい実はならぬ。美婦は不祥の器。美しい女は縁起がよくない。「災いや不幸を招く元だ」というのも、すべて根のない姿、形だけの美に捕らわれるからだ。

 「美と愚は好一対」といって、とかく美人には愚か者も多い。外見だけの美に心を奪われるのは、危険千万。「はなはだ美なれば、はなはだ悪あり」ということだ。

 絵画を見ると、そのあたりの理がよくわかるだろう。技巧のみに走って、何とか美しく、うまく描こうとしたら、すなわち、意識を働かせ、意識で描こうとしたら、その絵はもう堕落である。一見、「美しいな、うまいな」と思っても、すぐに見飽きてしまう。精神がないし、見る者に対して訴えるものも、力もないからである。

 この点、先に触れた与謝野鉄幹の詩を口ずさむ者は、「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく」、そこで終わっているのではなかろうか。下の句の「情けあれ」を見逃している若者が多い、と思わないだろうか。

 美人で、しかも頭がいい。これは外観で、少し付き合えばすぐわかる。だが、「情けあれ」は内容だから、ちょっとやそっとでは、なかなか見通せないもの。「目下恋愛中」などと、熱ボケしている段階では、お互いによく見せようと、猫をかぶっているだろうから、相手の真実などわかりっこない。

 「情けあれ」こそが重大だ。情けとは、優しい心遣い、思いやりというもの。物事の趣がわかる心ともいえる。情は愛なり、敬なりで、せんじ詰めれば、まこと心、誠実ということになる。

 誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なりで、情け心は真理に通ずる心。そういう心根を持った女性こそが、真の器量よし、本当の利口者として、家庭を支えていくことができるだろう。

 男であれ、女であれ、人を見抜き、人を信用する場合には、その人の行いを見よ。体は正直なもので、顔にも、態度にも表れるし、虚偽は長く平均して続くものではない。人の行い、動きをよく見る力を養えば、人柄がわかり、性格、内容もつかめるようになるはず。

 強情、頑固な人と、素直で、すっきりしている人とは、顔を見てもわかるし、態度を見てもわかる。自然と姿に表れるからである。人間の性格が、姿、形に表れるのである。

 見抜くのは、目の働きである。眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、直観することもできるようになる。

 さらに、体を鍛え抜いて、体で「気」を感ずることのできる人になれば、人と人との関係で、相手の人の「気」を気配で感ずるし、気持ちの動きもわかる。

 人間の言葉はもちろん、行いや態度というものも、なかなかちょっと見ただけではわかりにくいけれども、相手が何を思っているかということを、「気」という段階で感じ取ることができれば、その内容がよくわかる。「気」と「気」との触れ合いというもので見れば、よくわかるものである。

 どうしてかというと、人間の表現力は言葉や態度、動作のみではなく、顔色という皮膚の艶(つや)や生気が、その時々の意識や感情を表しているではないか。

 それを言葉を聞き取るように感得する力があれば、相手の意は言葉を発する前に読み取れるのである。相手が心とは逆のうそをついていても、その真意を察して誤ることがない。

●悪い印象を与えないためには外観も大切

 誰にとっても、他人の見掛けに惑わされずに、彼や彼女の内容や真実を見抜くことが大切であるが、当人たちの側に立てば、女も男も形だけの美、見掛けの美しさ、格好のよさにこだわるのも理解できる面がある。

 完ぺきな容姿を備えた人間など、世の中にそうそういるものではない。ならばせめて、顔に化粧を施したり、衣服や装身具に金をかけたりして、外観を飾りたいと思うのが、人情というものだ。

 「見掛け倒し」、「人は見掛けによらぬもの」などはよく聞く表現にしろ、人間の見掛け、外観というのも、なかなかに大切なもの。大抵の場合、人間は相手を第一印象でまず値踏みするからである。

 例えば、人間の目が相手の顔から取り出す情報には、その人の目がどっちへ向いているかというような物理的なことのほかに、その人が誰か、あるいはその人の感情状態、属性など、いろいろな要素が含まれる。そういう情報を、人間は意識する、しないにかかわらず、やり取りしている。

 人間が本質的にどこを見て顔を判断しているか、実は今のところ科学的には何もわかっていないが、真顔からでも、優しいとか、怖い、明るい、暗いという感性を情報としてちゃんと読み取れるのである。

 「この人間は、自分に害をおよぼさないか。付き合って損するようなことはないか」。誰もが持っている自己防衛の関門をくぐり抜けて、はじめて口をきくようになり、お互いの心がほどけて、相手の本質がわかってくる。

 つまり、人間の見掛け、外観、第一印象などといわれるものも、なかなか大切なわけだ。

 就職戦線で面接に向かう人、恋人の心の底を知りたい人、ビジネスではじめての相手に会う人、人間が人間と向き合う場面はさまざまだが、とりわけ現代社会では見掛けや外観で判断し、判断される面接は、想像以上に重要視されている。

 就職試験を始め、さまざまな試験で重要視されているこの面接とは、人間を選別する際に、相手の人となりを察知しようというものである。言い換えれば、面接というのは、短時間で相手の性格や人格を見抜くための手っ取り早く、有効な方法論ということもできる。

 人間にとっては、魅力的な顔も、嫌いな顔も、ともに記憶しやすい顔だといわれている。誰もがはじめて出会う人には、魅力的な顔のほうを印象づけたいものである。

 日本とアメリカで行われた心理学の実験で、被験者に対して、ある人物の悪い情報とよい情報とを与えて、後でどの情報を覚えているかを調べたところ、どちらの場合も、悪い印象のインパクトが強く残って、よい印象は背景に消えてまったという。

 結局、第一印象で悪い印象を持たれないようにしておかないと、悪い印象ばかりが残ってしまい、後の展開が大変むずかしくなってしまうということである。人は見掛けを気にしていないようで、かなり気にしているのだということに、留意する必要がある。

 やはり、自分を正しく見抜いてもらうためにも、第一印象は、本当に大切なものである。

 

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