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∥向上心や信念が器を大きくする∥

 

●西洋の見えるオーラ、東洋の感じる「気」

 こうした人間の持っているエネルギーが形になったオーラについては、特定の能力者の目に見えるといわれているが、オーラが見えない一般の人々でも、リーダーたちから強い圧力を感じたことがあるにちがいない。

 この圧力こそが、彼らの人格的な強さと、生体エネルギーの強さの現れなのである。

 しかし、この強さは必ずしも、性格からくるものではない。穏やかな性格のリーダーであっても、どこか、とりわけ目から強い圧力を放っている。目からのオーラ放射現象である。

 いわゆる眼力というやつである。この言葉には、文字通り理非や善悪を見抜く力を指すほか、目からパワーを放つという意味もある。「目がキラリと光る」などという。これは、事態の重さや真実に気づいた場合、一時的に強力なオーラが放射することを示したものだ。

 おおよそ、リーダーと呼ばれる人たちならば、たとえ彼らが日頃おとなしい性格であっても、いったん事の判断を迫られたり、何かを見極めようとする時、目からパワーを放つ。

 この時、特定の能力者は彼らの目から発するオーラを見、気配敏感者は緊張した気配と圧力を感じるのである。

 オーラという概念は西洋で特に重視され、多くのオカルティストたちと、近代の何人かの科学者によって研究されてきた。彼らは「見える」という事実にこだわり、その存在を証明しようと試みてきたのである。

 一方、東洋では、見えることよりも「感じる」という面に気づき、「気」や「気配」をさまざまな言葉の表現で伝承してきた。だから、中国の古書には、「土気」、「地気」、「霊気」、「天の気」などといった「気」の変化形が記されているのだ。

 西洋の絵画が色鮮やかに塗り込められているのに対して、東洋の絵は水墨画のように、におうような感じが込められているのは、こうした彼我の感性の相違に由来していると考えられる。

 ともかく、人間は器量人や指導者に限らず、各自が独特の気配を漂わせ、「気」を放つ不思議な存在なのであり、特別の能力を備えた人には、それが見えたり、感じられるのである。

 この場合の「気」は、人間が発散する見えざる手といってもよいだろうし、人間の肉体から外へ向かって発せられている波長のようなもので、一種の目に見えない触手、触角の機能を果たしているものなのである。

 例えば、普通の人であっても、後ろから見つめられていたり、ソッとつけられたりしているのを、微妙な気配によって気づくことがあるはず。相手の姿こそ見えなくとも、相手が発する「気」を感じられるという、自らの「気」の感覚作用である。

 こういう働きができるのは、宇宙が巨大な電磁体であり、太陽が目に見える熱核反応体であるとともに、目に見えない拡散する放射体であるように、人間の肉体もまた、目に見えない「気」の放射体であり、さらにいえば「気」の受容体だからこそである。

 目に見えない肉体作用の話を加えれば、愛し合っている恋人同士は、寄り添っているだけで楽しいものである。逆に、憎しみ合っている相手だと、鳥肌が立ったり寒気がするだろう。

 これは、シェイクスピアがいみじくもいっているように、他人の隣に数分間でも座っているだけで化学的に反応、変化をするのが、人間の肉体というものだからである。

 人間の肉体を「気」の放射体だといったが、それは電磁波の固まり、「気」の結晶体と言い換えてもよく、肉体から常に放射され、プラズマのように肉体を包み込んでいるものなのである。

●自己を磨けば誰でも器量人に近づける

 人間誰もが、自己の内実を表す「気」を放射しているのであるから、「気」を収める器である自己というものを、あだやおろそかに考えてはいけない。

 「気」の充実した器量人、大器、大人物などと称される人間を目指して、自己を磨かなければいけないということである。

 私は、人間性の面からは、心身両面で充実しながら、自律した強い個人になることを器量人になることと表現したい。

 器量人や大器とは、一部に解釈されているような歴史上の英雄、豪傑というような存在ではなく、普通の個人でも、勇気を持って自己啓発を怠りなく続ければ、次第に近づいていける存在と考えたいわけだ。

 大きな器量を持った人物を表す言葉の一つ、「大器」について考察してみると、中国の古典「老子」の第四十一章にある「大器は晩成す」という文が出所である。

 一般的に、この成句は、「鐘や鼎(かなえ)のような大きな器は早くはできないように、人も大きな器、すなわち大人物は才能の現れるのは遅いけれども、徐々に大成する」というように捕らえられている。

 若い時にちょっと薄ぼんやりしたようなタイプの人は、冗談で「君は大器晩成だよ」などといわれたのを真に受けて、「本当に自分はそうかも」と思ったりする。しかし、薄ぼんやりした人物が時間がかかって大人物になるケースは、実際にはほとんどないだろう。

 歴史上でも、そんな例は少ない。あるとすれば、それまで認められず埋もれていた人物が、何かの機会に表面に浮上した場合である。

 何となく大器晩成の代表といった雰囲気の西郷隆盛でも、二十代から頭角を現し、三十代はじめで明治維新の大業を実現した敏腕家であった。百キロを超える体の持ち主だったから、そのようなイメージができてしまったにすぎない。

 大器、器量人にふさわしい吉田松陰にしても、坂本竜馬にしても、二十代から三十代ちょっとで、歴史に名を残す大事業を行った。

 そこで、「老子」の著者である老子はどんなつもりで、大器晩成という言葉を書いたのか、第四十一章の前後の文脈を引用してみよう。

 「大方は隅無し、大器は晩成す、大音は希声なり、大象は形無し」。

 老子という人は二千数百年前の中国の哲学者で、儒教と並ぶ東洋精神史上の二大潮流をなす老荘思想の祖と伝えられるが、実在した人物であるかどうかは疑問が持たれている。

 しかし、こういう思想家がいたことは確かで、盛んに「大」という字を用いている。これは広大無遍な宇宙天地大自然の道理を表し、「大」は「道」であるという意味である。

 大方、つまり大きな宇宙を表す四角の箱は、あまりにも大きいのでその四隅は見えず、なきに等しい。大きい器量は、ゆっくり出来上がる。大きな音は、それがあまりにも大きいと、ささやくように聞こえる。象、すなわち形は、あまりにも大きいと、目に入らない。

 従って、「天地の道は凡俗な人間には認識できない」という意味で、ちっぽけな人間のあさましさを笑っているのである。

 立派な人物はへりくだっているため、見掛けはあほうのように見える。つまり、あまりにも大きいものは、大きいがために俗人には感知できないというわけだ。「大賢は愚なるがごとし」という、ことわざもある。

 しかして、「大器は晩成する」と老子がいった意味は、俗に解釈されているように「十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人」の逆であるというニュアンスではなく、本当に優れた人は完成するということはあり得ず、生涯修行。学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、人間は少しずつ器が大きくなっていくだけである。

 より器が大きくなった人物は、まだまだ自分は未熟者だという謙虚な気持ちを持っているために、腰が低く、普通の人がちょっと見ただけでは、その人が大きな器の人であるというようには感じない。

 だが、大器とは、まさにこのような人物のことをいうのである。

 人間の器の大きさには限りがなく、死ぬまでこれで終わりだということもない。ゆえに、大きな器の人物はなかなか出来上がらないのだ、ととるべきである。

 だから、少しくらい早熟だろうと、晩熟だろうと、関係ないということだ。

●向上心や信念が自己の器を大きくする

 「人間は生涯修行、学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、少しずつ器が大きくなっていくだけである」と老子の言は解されるわけだが、私がいう器量人を目指すという観点からいえば、器量人なり、大器になれる資格の一つは、自己啓発を生涯にわたって永続できる向上心ということになる。

 人間の器は、知識や経験、情報をため込んでおく入れ物でもある。この器が小さいと、ため込む知識や経験も少なくなるが、怠りなく学び、自己を磨き続けて器を大きくすれば、たくさん入るようになる。

 今の日本は、学歴だけでは通用しない時代になってきている。大学を出れば誰もが、部下を導く管理職になれるという時代ではない。中小の企業にもデパートの店員にも、大学出はゴロゴロしている。

 逆の見方をすれと、大学を出なくても能力や知識、経験を向上させていければ、十分出世できる可能性があるということである。もちろん、女性の場合も、それなりの地位に就くこともできる。

 といっても、自分の能力なり知識というものを、冷静に分析できる人間は、世の中になかなかいない。どちらかというと、上司などの周囲が自分の能力を過小評価していると思っている。自分で仕事ができると思い込んでいる人ほど、実際は無能であることが多い。

 「まだまだ自分は未熟者だ」という気持ちを持ち続け、自己の能力を磨き上げて器量人に近づいていける人であれば、謙虚に振る舞っていても、おのずと光ってくるものである。

 組織の中にいる人の出世に関していえば、誰が決めるともなしに人望を集め、昇進ともなると暗黙の了解によって取り立てられてゆく人々がいるものである。

 これらの人がトップに立った時には、「新入社員の時から他と違っていた」とか、「若い頃(ころ)から、友人たちの信望を集めていた」などという言葉が、決まり文句のように語られる。

 社長の器を持った人は、若い頃から定まっているのであろうか。多くの大学生に接しているような識者によると、それらの青年のうち将来、企業の中で順調にトップへの階段を上ってゆくだろう人物の見分けは、そう困難ではないという。

 彼が陽性人間であることと、その陽気の発散が周囲の状況に合わせてコントロールされているという特徴が、共通して見られるようだ。

 陽気の出しっ放し型と陰性人間は、まず社長の器ではないようである。陰性人間が昇進するケースもあるが、この場合は、あくまで技術系企業のトップに限られる傾向が認められる。

 また、こういう出世する器を持った人は、不思議と若い頃から何らかの信念を強く持っているのである。たとえ「素直に生きよう」などという単純なものであっても、彼らは信念なり、精神的原理を積極的に護持しているのだ。

 以上のような自己啓発を続ける向上心や信念とともに、器量人を目指す人に求められる才能としては、一般によくいわれている統率力が挙げられる。

 統率力は、現代に求められている指導者の資格の一つである。いや、一つといっては小さすぎるかもしれない。もっと大きな人間の資格である。

 歴史の上から考えると、統率力、あるいは統率という言葉は、その時代を引きずってゆくくらいの力を持ったものである。

 しかし、ここで断っておかなければならないのは、それが決して特異なものではないということである。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄のみが持つ不思議な才能ではないということだ。まねをして、まねることのできないものではないという気がする。普通の個人でも努力すれば、ある程度までは、それを身につけることができるというものである。

 はじめから特異なものであり、普通の人間にはできないようなものだったら、このような問題を持ち出す必要はないだろう。

 例えば、「家康になれ」というのは無理な話であっても、彼が持っていた忍耐とか寛容とかいうような徳目は、誰でも努力すればできるであろう。いや、身につけることができるはずである。

 そうした忍耐、寛容を通じてはじめて、人間としての成長があり、機会をものにすることができるのだ。統率者は、そのなすべきか、なさざるべきかの機会を知っている。

 統率ということを考える際、大切な条件として思い浮かぶのは、与謝野鉄幹の有名な詩句「友を選ばば書を読みて、六分の侠気(きょうき)、四分の熱」である。

 指導者がその統率力を発揮しようとする時、六分の侠気、すなわち男気がなくて、誰が奮起してついてゆこうか。そして、それが四分の熱気なくして、行われるであろうか。

 加えて、よく書を読むということは、平素から常に仁義の道を志しているということで、それが周囲の共感を誘うのである。

 

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