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‖小宇宙である人間にとっての「気」‖

 

●宇宙の「気」を受けて生命を養える

 ここまで、多岐にわたる「気」の思想や「気」の哲学の説明を尽くしてきたが、ストレスに満ちた現代社会に生きる人間にとっては、「気」を宇宙天地大自然の中に求め、自らの「気」を練り、自らの「気」を癒すことが肝要である。

 私たち人間は、宇宙によって創られ、生かされ、生きている存在にほかならない。その人間の命の本体は何かといえば、はるかな百五十億年前に逆上る宇宙創造の根源であり、今も宇宙天地大自然いっぱいに満ちみちている「気」そのものである。

 行き着くところ、その「気」を全身に充実するか、充実しないかで、人間の人生の成否が決まるといっても過言ではない。自らの生命を生かしている宇宙天地大自然の「気」ということに気付いて、「気」を土台として生きるということも、正しい人生のあり方の一つということになるだろう。

 人間の体には生命力というものがあるから、それを「気」に変え、「気」の働きで自己を見、他人を見ることである。「気」というものは、人間の内容を見通すことも、知ることもできるのである。

 多くの人は、この生命力を「気」に変え得ることを知らないし、十分にできないが、どうにか生きていけるので、人間の真の力を作ろうとも、発揮しようともしない。

 例えば、「気枯れする」という言葉がある。その意味するところは、元気もなく、勇気もなく、ただ生きているのか死んでいるのか、まるで判別できないような灰色人生、灰色人間のことを指しているように思われる。

 読者の方々の中にも、いつか知らない間に、生ぬるい無感激、無意欲、無気力な人間に、自然になってしまった方がいるのではなかろうか。

 宇宙生命の正気を十分に摂取して、毒気の「気」を吐き出し、生々した明るい自分を創造し、気枯れした自分をよみがえらせたいもの。

 そこで、人間誰もが物事を生かしていくための真の力を作るには、宇宙天地大自然の「気」を肉体に受けて力とし、その力をもう一度「気」に変えて働かなければならない。

 あたかも、石油がガソリンになり、ガソリンが力になって「気」に変わり、エンジンを動かすというように、力が爆発して「気」に変わる時に、その「気」が生きて働くのである。「気」と力の関係は、エネルギーの変化である。

 この点で、自らの体に「気」が充実している人、気が働く人、気がきく、気が付くというような人は、運命をよくする機会に恵まれている。

 頭がよいとか、利口だとかいうことも大切だが、そういう条件よりも、運命をよくする「気」が体にあるかないかということが、幸運の条件なのである。

 「気」は、宇宙いっぱいに満ちている。みなぎりわたっている。宇宙大自然は「気」の世界、人間の命というものも「気」であり、肉体は「気」の固まりである。

 この私たちの肉体は、絶えず宇宙の「気」を受けて、生命を養い、運命を作ってゆく。宇宙の他力の「気」を力にして発揮、発動する肉体の働きが、あらゆる幸運の転機を捕らえて、よき運命を刻々と作り出し、積み上げてゆくのである。

 幸運も、よき運命も、小宇宙にも小天地にも例えられる自分の肉体にある。この体が万事のもと、幸運のもと。幸福のすべてが、自分自身の体、自己という生命体の中にあるのだ。

 肉体の「気」を養って、油断なく肉体で働く。この体から「気」を発して、よき縁を選ぶのである。

●宇宙の「気」と交流する機能は肉体が持つ

 人間の肉体能力は、すべからく、「気」という宇宙パワーを肉体が受けて、働きとなるものである。それは「気」を吸収して力とし、その力を「気」に変えて肉体能力としているのにほかならない。

 宇宙の「気」という人間が生きる根源の力、働くためのエネルギーを全身に吸い入れる力は、頭ではなくて肉体の力、細胞の力なのである。

 一般の人間は、肉体を頭脳に劣るものと考えて、どんなことでも頭の思考力、判断力で、どうにでもなると思い、肉体に圧力をかけて、その働きを無視し、弱めている。肉体の軽視、これが人間にとっては一切の災いのもとである。

 私たちは第一に、空気の呼吸で宇宙の「気」を受けている。天気、気候、気温、気圧からも「気」を受けている。植物や、食物からも生気を受けている。大地からも、海からも「気」を吸収している。太陽からも、天体の全体からも、生命に必要な力である「気」を体の全体、全身に、毛穴を通じても受けている。

 そうして人間の肉体は、「気」が充実した、気力が出た、あるいは元気になった、気分がよくなったということになるのである。

 宇宙の「気」が充実されて、日常の仕事の上にも、創作や発明、発見の面にも気力を注ぐことができて、はじめて立派なものが作られたり、生まれ出ることになる。同時に、自分の気力を、他の人々に対して言葉や表情、動作からも移し与えることもできる。

 宇宙の「気」を体に充実し、充実した気力を十分に活用できるようにすることが肝要。

 この点で、人間の全身に約六十兆個ある細胞の一つひとつが、十分に宇宙の「気」を受けて生き生きとしていないと、宇宙からの「気」を受けたり、必要に応じて出したりすることは、完全にはできない。

 細胞の健全な生命力が欠ければ、気力も欠けて、宇宙の「気」を受けることも、自分から「気」を出すことも、全く気抜けの状態で弱々しいものになる。

 一方、細胞の一つひとつにまで宇宙の「気」が正しく交流すると、肉体がただ健康になるというばかりではなく、思考力や判断力も、自然の力、「気」の力で機能的に開発される。反対に、宇宙の「気」の交流が足りないと、生命力が弱くて病気になり、断たれると気絶となるのである。

 宇宙天地大自然の「気」と交流し、「気」を完全、十分に吸収するか否かで、人生の成果は大きく左右される。

 人間の肉体生命と精神の真の神秘力を発揮するには、何はともあれ肉体を知り、肉体を信じ、肉体一色となることから始めなくてはならない。

 人間の肉体に天地大自然が潜み、宇宙全体が働き掛けていることは、現代科学でも立証している。私たちの肉体生命を生々躍動させているものは、「気」なのである。

●遺伝的な生命エネルギーが先天の「気」

 人間の肉体を生々躍動させている「気」について、中国医学の理論にのっとり、先天の「気」と、後天の「気」の二つに分けて考察してみよう。

 先天の「気」のほうは、元気とも呼ばれる。日本人ならば、「お元気ですか」と挨拶(あいさつ)をし、手紙では「お元気のことと思います」と書き始めるだろう。この日本人にとって最も一般的な言葉である元気は、歴史をたどれば、中国の古代医学の術語であったのである。

 元気は原気とも呼ばれ、子供が父と母から受け継いだ原初の生命エネルギーを意味している。私たち人間の世代交代は男女両性の交わりによって繰り返されてきたわけだが、元気は肉体の誕生、成長、活動の源ともなるエネルギーと考えられている。

 新しい世代である子供の立場からすれば、原初の生命エネルギーは「天より受けた」と見なされ、先天的にすでに定められているという意味で、先天の「気」と呼ばれるのである。

 遺伝的な生命エネルギーである先天の「気」は、母胎の中で充実、発展して胎児の誕生となり、その後も、成長と発育の基礎となる。

 中国の古代医学では、先天の「気」が五臓の一つである腎(じん)に蓄えられることを、「腎は先天の本である」と表現する。

 腎臓については、西洋医学が血液中から尿をろ過し、膀胱(ぼうこう)に送り出す泌尿器官して考えているのに対して、中国では腎に非常に多くの働きを期待している。例えば、「気」を蓄えることから始まり、脳を満たしているとされる髄を生じること、各器官にエネルギーを提供することなどだ。

 それらを総合して「腎は先天を主(つかさ)どる」とも表現する。

 ただし、この腎に蓄えられた先天の「気」は、遺伝的であるがため、加齢とともに減少することはあっても、増加することはないと見なされている。

 だから、腎のエネルギーを大切に、節約して使うということが、人間個人の健康にとっても、子孫の繁栄のためにも、大きな意味を持つことになる。

 同時に、人間や動植物が加齢とともに次第に老化し、衰えていくのは、先天の「気」の衰えにほかならないと、中国古代医学では考えられている。

 

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●飲食物から得るエネルギーが後天の「気」

 次に、後天の「気」のほうは、先天の「気」に対していうもので、毎日の食事で摂取された飲食物から生成される生命エネルギーであり、水殻の「気」とも呼ばれる。

 遺伝的に決定される先天の「気」が、年齢とともに衰減していく特徴を持つのと反対に、後天の「気」は極めて人為的と見なされる。

 この後天の「気」は、脾(ひ)と不可分の関係にある。脾の概念も、西洋医学でいう循環血液の量を調整し、血球を生成する脾臓とは異なっている。

 中国の古典医学でいう脾は、胃と共同しながら、飲食物のエッセンスを消化、吸収する臓器とされ、「脾は後天を主どる」と表現される。

 脾はまた、吸収した飲食物のエッセンスを全身の器官や、手足の隅々まで輸送する機能を与えられている。この作用はあたかも、万物を生育させる土に似ていることから、「脾は中土を主どる」ともいう。

 細かく分類すれば、脾が統率する後天の「気」は、営気、衛気、宗気の三つに分かれる。

 営気とは、飲食物のエッセンスから変化、生成したものであり、水穀の精華とも呼ばれる。営気はまた、血となって脈の中を流れることから、血気と呼ばれることもある。

 二番目の衛気も営気と同じように、飲食物のエッセンスからできたものであるが、その性質が迅速であることから、水穀の悍気(かんき)と呼ばれることもある。

 この衛気は、脈外を循環するために経脈の制約を受けず、体の表面にあって、自然界の気候の変化や刺激などから肉体を防衛し、病菌などに対抗する機能を持つ。また、臓腑(ぞうふ)を温め養ったり、皮膚を潤したり、汗腺(かんせん)を開閉するなどの機能がある。抵抗力や免疫と大きく関連しているのが、衛気なのである。

 三番目の宗気になると、営気や衛気と少し違って、後天の「気」と、肉体に吸入された大自然の大気が結合して、でき上がった「気」である。

 この宗気は胸に蓄積され、二つの機能を持つ。一つは上に上って喉(のど)へ出て、呼吸を行うことで、言葉や声の大きさを調整する作用。もう一つは心に働き掛け、営気や衛気を全身に循行させる作用である。

 人間の肉体の「気」や血は、この宗気の推進エネルギーによって流れることができるのであり、運動能力や肢体の温寒は宗気と不可分の関係にある。

●表の口に当たる九穴、裏の口に当たる五臓

 営気、衛気、宗気の三つからなる後天の「気」は、飲食物や大自然の「気」から得るエネルギーであったが、人間は食べ物の五味から五気を培うとも考えられている。

 そもそも、人間の誕生というのが、男女の精気が陰陽相和して母胎に宿ることに始まり、胎児は母体を通じて五味、五気をもらって自らの生を養う。やがて誕生し、完成した肉体は、耳、目、鼻、口、性器、肛門(こうもん)の九穴を通じて宇宙天地大自然の「気」を受けつつ、五味を食べて自らの五気を養うのである。

 五味とは、酸、辛、苦、鹹(かん=塩辛い)、甘を指す。それぞれの食べ物に含まれているものが、胃に入ってから五味に分けられる。

 この五味は、肺、心、脾、腎、肝の五臓で、神、魄(はく)、魂、意、志の五気と変わって、それぞれの出番に応じるという肉体の仕組みになっている。

 人間の体内にいろいろな臓器のあることを、中国人はかなり早くから知っていたようで、それらは「精気を蔵して瀉(しゃ)さない」先の五つの臓、「物を伝化して蔵さない」大腸・小腸・胆(きも)・胃・三焦(さんしょう)・膀胱の六つの腑とに分けられ、五臓六腑と総称されている。

 臓の作用のことを「気」と称し、例えば、心の作用を心気、腎の作用を腎気などというが、五臓という言葉自体、五気を蔵(しま)っておくという意味から名付けられたものである。

 五臓は五気を蔵するところ。それは、肉体の生きていく素である宇宙天地大自然の「気」が鼻、口など九穴を通じて体内に入り、体の内部にとどまるところであるからだ。

 九穴が天の「気」と交わる表の口であるのに対して、五臓は内の口なのである。言い換えれば、五臓こそ天の「気」と人の「気」の交流をはかる調節機能だということになる。

 「気」と肉体の関係に続いて、「気」と精神の関係を見ても、「五味を備えて、五気調和すれば、精神おのずから生ずる」とされ、これまた五臓と関連してくる。

 しかも、私たち人間の精神が盛んで「気」が散じなければ、その「気」は天の「気」と等しくなり、天地の精に通じて「目、耳、鼻、口、衰えることなく明を保つ」ので、健康に百歳、百二十歳の天寿も全うできるのである。

 人間の健康にも、精神活動にも、「気」が支配的に作用するものだということを、知っておいてもらいたい。

 一方、五臓のどれかが具合が悪いということは、すでに五気の調和を崩していることと見なす。「天の邪気を感ずれば、すなわち人は五臓を損なう。食べ物が冷たすぎたり、熱すぎたりすると六腑を害する」といわれ、さらに「気血は五臓の使い」といって、五口(九穴)と五臓および気血の三者は、緊密に結び付けられている。

 血(けつ)というものについて説明を加えれば、血は営気が変化してできたものであるが、この血は「気」とともに、中国医学に特有の二つの要素である。

 血とは現象的、生理的には体内を巡る体液の一種としての血液であり、機能としては全身に酸素や栄養、ホルモンなどを提供するほか、感覚や知覚などをつかさどるもので、生命活動の根本といえる。

 日本の伝統的な漢方では、中国の「気」と血のほかに、血以外のすべての体液を表す水を加えて、「気」・血・水という三元的な考えが主流であった。

 古典では、「気は血を生じる」、「気がゆけば、血もゆく」、「気は血の総帥である」としており、血よりも「気」が上位にあることがわかる。

 この「気」と血が、運行通路である経絡(けいらく)の中をバランスよく順調に流れていれば、私たち人間は健康を保証される。

 逆に、「気」と血がどこかにとどまり、流れに支障を来せば、そこに痛みが生じ、アンバランスが大きくなれば、百病が生じることになる。それが病んだ「気」であり、病気である。

 「気」の医学は、病んだ「気」を回復し、流れを取り戻すことによって、自然のうちに病気を癒すことを目的としている。

●ツボで発生し経絡を巡る「気」について

 漢方で気血の運行通路と見なしている経絡の中を、「気」と血がバランスよく順調に流れている限り、私たち人間は健康でいられると説明した。

 では、血をも生じる、生命の根源である「気」はそもそも、肉体のどこから発生すると、古代の中国人は考えたのだろうか。

 答えから先にいえば、中焦(ちゅうしょう)。彼らは、肺や心臓や横隔膜よりは下、ヘソや腸や膀胱の上に位置する中焦にこそ、「気」を発生させる力、気化作用があるとしたのであった。

 中焦とは、六腑の一つ三焦(上焦・中焦・下焦)の一部であり、脾や胃などの臓器があるところだ。

 この胃のあたりの、体の深いところに存在する中焦を源として、先天の「気」と後天の「気」とが一体となった経気(正気)が、経絡を流れて、人間の全身を巡り流れる。

 中焦を出発した経気は、頭から足の先、両手の指までをくまなく結び、体中の五臓六腑を巡って、再びスタート地点の中焦に戻るものであり、体内の「気」の循環作用がいかに複雑であるかを物語っている。

 経絡とは、経と絡、経脈と絡脈の総称。経、ないし経脈と呼ばれるのは、「気」の流れる太い幹線のことで、動脈の一部を含む主脈ともいわれる。

 この経は合わせて十二本あることから、十二経と総称し、いずれも五臓六腑のどれかと直接的に関連している。こうして「気」は両手と両足の指で方向転換をしながら、「時に浅く、時に深く」、体内の臓腑を結んで流れているのだ。

 一方、絡、ないし絡脈と呼ばれるのは、経から分かれ出た細い支線のことで、静脈の一部を含む支脈ともいわれる。合わせて十五本あり、さらに細分化していく。

 この「気」の流れである経絡の上には、ツボという要所がある。一般的に考えれば、まずポイントとしてのツボが発見され、その共通性を探す中から、ツボとツボをつなぐラインとしての経絡が引かれたと見るのが妥当だろう。

 現存する中国最古の医学書である「黄帝内経(こうていだいけい)」では、脈気の発するところを気穴と表現し、水が湧き出るように脈気の出るところを井穴と表現している。

 私たち人間の肉体には、「気」の発生するポイントとしてのツボが、全部で十二ある。いずれも、手足の指の爪(つめ)のすぐ近くに存在する。

 例えば、手の親指の爪の付け根の外側には、少商というツボがある。足指の爪の近くには、外側に隠白、内側に大敦(だいとん)と二つあり、足の裏には、知る人ぞ知る湧泉というツボがある。

 かように種類としては十二であるが、私たち人間の肉体は左右対称であるから、同じ名前のツボが二つずつ存在し、数としては二十四の気穴があることになる。これらのツボは、医学的には経穴、諭穴、孔穴、穴位など、多くの呼び名を持っている。

 このツボは一面で、体内の異常を反映する診断ポイントであり、もう一面では、針や灸(きゅう)の刺激を与える治療ポイントにも活用されている。

 一本の細い針でツボを刺激することによって、副作用もなく病気を治せるのは、「気」が存在するからこそである。

 経絡を流れる「気」を経気、正気などといい、それが不足した状態を虚、虚証と呼ぶ。正気が不足した結果、邪気が過剰になった状態を実、実証と呼ぶ。

 この二つのアンバランスを、一本の針のテクニックで解決することも可能なのである。虚であれば正気を補い、実であれば邪気を洗い落とすのである。

 現代の解剖学でも、ツボが神経や血管、筋肉などの組織の分布状況と密接な関係にあることを、確認している。ツボの部位にはまた、電気抵抗の低下、光沢の異常、圧すれば痛むことなどが認められており、肉体の中でも非常に特殊なポイントであることがわかる。

 ともかく、宇宙も、万物も、人間も、すべて「気」からできていると考えた古代の中国人は、大地を潤す水脈からのイメージも加えながら、肉体内に経絡という「気」のネットワークを想定したのであろう。

 何千年もの昔の古代インド人も、生命エネルギーをプラーナ、その集中するところをチャクラ、流れるコースをナディと呼んだ。ヨガの世界では普遍的な三つの概念は、中国でいう「気」とツボ(気穴)と経絡にほぼ対応する。

 「気」とプラーナ、ツボとチャクラ、経絡とナディを比較、考察することは、「気」と肉体のかかわりを知るために有意義であろう。

●二千年前の古代中国人も実践していた気功

 人間生命の根源である「気」、目には見えないが人間の持つ未知の生体エネルギーである「気」に関連して、針や灸などの東洋医学とともに、現在、最も注目されている対象は、中国の気功であろう。

 日本でもここ数十年来、注目し実行する人が三万人に増えていると聞くが、本家の中国では気功のブームだと伝えられて久しい。気功術、気功療法などという新しい呼び方もあるにしろ、昔から実践されてきた健康法であり、養生法なのである。

 二千年も前の漢代ですでに、体を動かし、あるいは静かに立つことにより、「気」を体に巡らせて健康を増進したり、病気を治したりすることが、実際に行われていた。

 漢代の地方豪族から農民に至る人たちの間で、古導引(気功)が実行されていたことは、当時の地方豪族の墓から発見された絹絵の「古導引図」から明らかになっている。

 気功という言葉にしても、意外に古いものであり、すでに三世紀の晋代の書物の中に述べられていた。

 その方法は、人間の肉体を大自然になぞらえ、「流水は腐らず、戸枢(とぼそ)は朽ちず」という不断の動きの中にこそ、生命の健康が基づくとの認識から、出発している。

 歴史的に見れば、気功には吐納、導引、行気、煉丹(れんたん)、玄功、静功、内功、坐禅、内養功、養生功などという多彩な名称があった。

 近年においては、一九四九年、中華人民共和国が成立した後、五六年には北京や上海などに国立の中医学院が設立され、伝統的な医学の教育が組織的に行われるようになった中で、各地で気功の講習会が開かれ、気功療養所が設立されて、臨床の研究も開始されることになった。

 同時に、新しい時代を背景として、歴史的にはさまざまな名前を持つ養生法は、気功に統一されることになった。

 新中国での気功法は、単なるリバイバルとして普及したのではなく、歴史的な遺産の中から新たなものを創造するという、明確な意図のもとにスタートしたのである。

 一時、プロレタリア文化大革命により、「迷信を広める」、「旧風俗である」として弾圧されて、公園や路上の片隅で細々と続けられ、下火になりかけた気功ではあったが、また息を吹き返し、約二千万人の人々が励んでいるといわれるようになった。

 現在の中国を訪れた外国人は、大都会の早朝の公園やロータリーなどが、「木があり、水がある」環境を理想とする気功、あるいは太極拳をする人たちであふれていることに、驚いてしまうだろう。

 太極拳のほうは宋代に武術として発生したもので、緩やかに円を描いて肉体を動かすことにより、健康の増進をはかる要素も大きいため、新中国でも盛んに行われているのである。

 気功のほうの目的は、調身、調心、調息の三調によって、健康を維持し、病気を予防し、長寿を目指すものである。早朝の気功を根気強く持続するうちに、寝込みがちだった人たちも次第に元気を取り戻し、ガン患者が職場に復帰したといった話も数え切れないほどある。

●気功師は遠赤外線や電磁波を発している

 「気」とは生命エネルギーのことであり、気功とはそれを鍛練し、コントロールすることでもある。一定の訓練をへた人であれば、かなり意識的に「気」を体外に放出することが可能。これが発功であり、出された「気」が外気である。

 気功師は心を静める入静をすませてから、「気」を出す発功を開始するが、体の動作を伴わず、立ったまま、あるいは座ったままでするのが静功で、体の動作を伴うのが動功である。

 気功医師が発功状態に入り、自分の持つ内気を手の特定のツボから放出し、患者に直接触れることなく患部やツボに照射して、患者の内気に転化するのが、外気治療である。気功師から外気を得た患者には、体がだるい、しびれる、はれぼったい、熱い、圧迫されるなどの感覚が生じる。

 「気」には少なくとも二千数百年の歴史があるにもかかわらず、一般的には人間の目に見えないからであろうか、科学者が「気」に関心を向けることはなかったが、中国では一九七七年、科学的に外気を測定した。中国科学院上海原子核研究所が、気功治療をしている気功医師を被験者にして、外気の物質的計測に成功したのであった。

 その後も、「気」を巡る各種の実験と測定が中国や日本で続けられており、外気の成分の一部は変調された低周波の遠赤外線であることが、すでに確認されている。

 「気」の照射時に測定される波長九ミクロンの赤外線は、エネルギーとしては微弱なものである。日本の家庭で冬に使われる電気こたつの百万分の一以下にすぎないが、人体に浸透しやすく、かつ深部まで通るのだという。現代の医療でも、遠赤外線による治療は、いろいろな面で実施されているところ。

 また、気功治療の場合、この微弱な遠赤外線が大きな作用を果たすのは、気功医師と患者といった、「気」の送り手と受け手の間に、ある種の同調現象が存在するためだという仮説が成り立つ。

 気功師の発する外気の成分としては、遠赤外線以外にも、静電気、磁気、ガンマ線、微粒子など、数多くの物質情報が検出されている。ある実験によれば、外気は遠(近)赤外線、電磁波、マイクロ波、亜音波の四種類の物質として計測することができたという。

 そして、中国では、いくつもの病院に気功科が設けられ、気功師の放射する「気」を患者の患部やツボに照射する治療が行われているとともに、「気」の免疫学的な研究が精力的に行われており、外気は赤痢菌やガン細胞を破壊、消滅する作用を持つことが突き止められている。

 ほかにも、人体から出された外気を、生命体や無生物に当てる実験では、一定の影響が認められ、対象を変化させることも観察されている。

 各種の研究や実験はまだ初歩的なものであり、未解明の部分も少なくないが、人体の持つ可能性の証明に挑むものであろう。

●「気」の放射口に相当するのが手のひら

 人間の手から出ている「気」について、「ある種の酵素だ」といった科学者がいる。もしそうだとすれば、病気が治るのも当然であろう。酵素というのは、動物が体内で生成しているものであり、これを人工的に外部から与えてやることで、生命力は活性化されるわけだ。

 気功師ではない一般の人でも、花を植えた鉢を二つ用意し、一つのほうの鉢に毎日両手をかざし、「気」を送り続けてみるとよく理解できるだろう。「気」を注入し続けた鉢のほうが、花の生育も早く、色もきれいで、日持ちもよいはずである。

 日本でも、つい最近まで「おさすりさん」、「おさすり医者」と呼ばれる民間医療家がいて、患者の痛いところ、病んだ体に手のひらを触れ、さするだけで治療していた。ただ、それだけで治ってしまう患者も、けっこういたのである。

 気功でいう外気、手から出るある種の活力、オーラともいえるもので、患者の病んだ「気」を追い出してしまう、という原理である。

 現在の日本でも、ある種の宗教団体では、挨拶代わりに信者が手をかざし合い、互いの「気」を交換して、無事平安の印としたり、病気治療に役立てている。確かに、人間の手は「気」を放射しているのだ。

 いかにも体力のある人のそばにいれば、熱気を感ずるように、若者たちがたむろする部屋などに入ると、一種の若い精気に圧倒されることがあるだろう。このような精気を蓄えている人の手に、自分の手を近付けてみれば、「気」が発散されていることがわかるはず。

 宗教団体の手かざしも、「気」の効用を応用したものだとすれば、これまた一種の気功法ということになるだろう。

 何といっても、「気」を発散し、他者に伝えるのに一番優れた個所といえば、手のひらをおいてほかにはない。

 頭痛がする場合には、頭に自分の手を当てる。おなかが痛ければ、自分の手は痛いところに自然に置かれる。手当てなのである。普通、「手当てをする」といえば、薬を飲んだり、塗ったりという医療的な処置を指すが、その言葉の原義は、実際に患部に手を当てて治す手当てからきているのだ。

 事実、薬も買えず、医者にもかかれなかった昔の庶民は、子供が病気にでもなったりすると、母親はじっと子供の頭に手を当てて、「早くよくなるように」とひたすら病気の快癒を願ったものであった。この母親の「気」が通じて、苦しみから逃れた子供たちは、何万人、何百万人いたかわからない。

 「気」は常に、私たち人間の体から放射されている。痛いところに手を当てるという無意識の動作は、手のひらが「気」の放射口であることを、本能的に知っているからだろう。

 眠くなって目の周りをさすったり、疲れた腰をたたいたりすることも、無意識のうちに誰もがやることである。それは最も原始的な治療の方法、すなわち手当てである。手のひらをかざしたり、触れたりすることは、基本的な「気」の治療法であり、疲れた目や腰の「気」の流れを回復させることができる。

 現代の東洋と西洋では「気」の評価は違っているが、手当てについては、釈迦(しゃか)やキリストも実際に行ったといわれている。二人のような優れた人の発散する強烈な「気」を可視的に描写したものが、仏像や仏画に描かれている光背や、キリスト教の聖人たちの頭上に描かれている光の輪であり、その意味では、東洋人も西洋人も同じ発想だ。

 キリスト像には、光輪が描かれている。釈迦像には、光背、後光が付けられている。キリスト教芸術での光輪は、聖人や神的人格のシンボルであり、そうした人の頭の周囲には必ず光輪を描く。

 一方、仏像の背後には光明を表すものとして、円形または宝珠形の頭光、長円形の身光が必ず添えられている。

 東洋人は釈迦の背後に、西洋人はキリストの頭上に、同じような光の輪を見いだした理由は、発散された「気」から放たれる光がそこにあったからであろう。

 大きな事業を成し遂げたり、これから成し遂げようとする人には、はた目にも明らかなエネルギーが備わっているのではなかろうか。それが「気」であり、気力であり、気迫であり、活力であり、オーラなのである。

 オーラの理論によれば、すべての物体は磁気エネルギーの場に包まれているという。その磁場は、物体を取り巻く周囲に存在する他のエネルギー相互間の作用を媒介する。この磁気エネルギーの場は、肉体の内分泌腺と関連した七種類の光線により、構成されているという。

 オーラも、「気」も、人間の目には見えない。だが、現代の科学万能時代に、「目に見えないものは信じない」という人はいないだろう。

 テレビを映す電波は人間の目に見えないし、風も目に見えないが、「電波は存在しない」、「風は錯覚だ」などという人はいない。目では捕らえることができなくとも、紛れもなく存在することを知っている。

 ところが、「気」とはとなると、その存在を否定しようとする人もいる。

 「気」の概念、「気」の思想の本場である中国においても、「空想で最も珍奇なものは気の説で、これは占星家や仙人の術と同一のものである。試しに宇宙をあまねく探してみても、気がいったい何であるか、わかったものではない。すべては、人が科学を知らないためだ」、といった意味のことを述べた革命家もいた。

 編集子にいわせれば、宇宙天地大自然にみなぎり、人間が発動する「気」も、目に見えないだけのことであって、別に非科学的なものでもなければ、神秘的なものでもない。誰にでも感知できるものなのである。

 実体は未知だが、実在するもの、それが「気」なのである。あることはあるのだが、人間の目に見えず、人間の手に触れることもできない「気」は、風と似ている。

 風は、見ることも、手に取ることもできない。香りも味もない。音はすれども姿は見えず、である。音にしても、よほど強く吹かなければ聞くことはできない。

 「気」は、風のように天地大自然の現象であるばかりでなく、私たち人間にも内在するものなのである。

 

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